Wednesday, January 31, 2018

どんな中でも、信仰、希望、愛を持っていけ(第一コリント人への手紙13章8-13節)

13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です

私たちの目の前は、難しい状況があるかもしれません、不可能に思える攻撃、中傷を受けるかもしれません、罪だらけの世の中で、きよくいくることは難しいかもしれません、しかし、そこでもクリスチャンが違う理由は、信仰、希望、愛を持って生きれることです。いつまでもなくならない信仰、希望、愛を持っているからです。今日、奉仕、向かい合う人々、伝道する人々に、信仰、希望、愛をもっていきます、信仰、希望、愛を’伝えます

愛は子供を大人にさせる(第一コリント人への手紙13章8-13節)


13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
愛は子供を大人にさせます、成熟させていきます、人への対応、愛すること、仕えること、教えます、自分の主張だけではいけないことを教えます、人を受け入れることを教えます、何よりも、まことの愛は神様です、自分の中に愛はありません、人の愛は流動的です。相手により、状況により、時に自分の状態によりも変わります。しかし、神様の愛は変わりません、成長させ、変化させていきます、完全なものへ成長させていきます、教会の中でもそうです、足りないどおし使え、愛することを教えます。今日、奉仕の中で愛して主に成長させていただきます。

愛は決して絶えない(第一コリント人への手紙13章8-13節)

13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。13:10 完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。
私たちの希望、それは何でしょうか?それは、愛が決して絶えない事です、問題の多い、人と比較をする、争いを起こす、分裂のあるコリント教会にパウロは、愛について語ります、どんな問題のある人も、どんな難しい人にも必要なのは愛です、問題ある人に対するのは、神様の愛です。異言も、預言も、知識も一部です。しかし、愛が、神様の愛だけが完成させます、いつまでも残ります、今日、愛は決して絶えないことをもって、路傍伝道、奉仕、神様の仕えることをしていきます、

Saturday, January 27, 2018

みなの益になるために(第一コリント人への手紙12章1-11節)

12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
主は言われます、多種多様な聖霊の賜物は、みなの益のために、といわれます。それは、比較して落ち込んだり、高慢になるためでなく(そんな暇もなく)、お互いを立てあげて主の教会をたてあげるためにあります、違いを認める必要、尊重する必要があります。聖霊に満たされることは、他人が成功するときに、拍手できることです、罪びとであった私のその前の性質では拍手をすることができません。しかし、まことの聖霊充満は自分ができなくて、神様が主語になり、主人は神様です、そして、神様の家族が成長することが喜びに成ります。今日、みなの益のために使えます。

聖霊充満になったら、どうするのか?聖霊の賜物が豊かなら、何のために、誰のために使うのか?(第一コリント人への手紙12章1-11節)

12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
パウロは、聖霊の働きが豊かであり、聖霊の賜物が豊かに与えられたコリント教会に、聖霊はひとつ、主は同じ主である、こと。賜物は多種多様でありつつも、比較せずに、認めずに、主の栄光のために、自分の栄光のためでなくて、キリストの体なる教会、兄弟姉妹のたて上げるるために、使いなさい、といいます。私は、自分の賜物を他人のために使っているでしょうか?他人の賜物と比較していないでしょうか?賜物あることをお互いに認め合っているでしょうか?主の栄光のために使う喜び、祝福、満足を味わっているでしょうか?聖霊充満は、主の深い関係を持つ、多種多様な賜物は、キリストの教会をたてるために用いていきます。

イエスを主と告白させた聖霊はひとつ、(第一コリント人への手紙12章1-11節)

12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません
パウロは、コリント教会の豊かな聖霊の賜物がありながらも、分裂、争い、リーダーシップの喪失、問題に解決にむけて、あなたがたをクリスチャンにしたのは、同一の聖霊であること、聖霊によらないと誰もキリストは主といえないことを確認します、聖霊の願いは、ただ主イエスの栄光だけです!聖霊の願いは、私たちがひとつになることです、イエスが主であるなら、どうして自己主張や自分のものとして、聖霊の賜物を私有化できるでしょうか!!?今日、主イエスはひとり、私たちをひとつにさせる神様の願いを祈り、人々へ伝え、主が導かれる祈祷会になることを祈ります

Friday, January 26, 2018

主の懲らしめは、回復への道、(第一コリント人への手紙11章27-34節)

11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。11:34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。
クリスチャンへの神様の懲らしめは、救いのための懲らしめです。回復のための懲らしめです、滅びのためではありません。罪を神様は憎まれますが、罪びとを神様は悔い改めのために、ゆるしのために懲らしめます。その懲らしめは、憎しみから出なくて、愛からです。クリスチャンでありつつも、罪を犯すときに私たちを悔い改めのために、神様は懲らしめます。パウロも同じ心で、コリントの教会を戒め、攻めます、今日、主の懲らしめを大事にします。また、主にある救いのために、愛の心を持って仕えます。

QTを通しての今日の祈り、(第一コリント人への手紙11章27-34節)


11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります
主なる神様、私のような弱く、罪びとである私を無視せずに、愛して、大事にしてくださって、世の中から必ずしもTOPでないものをも、尊く扱ってくださり、召してくださり、救いへ導き、教会の仕えるものとして、リーダーとしてくださるとんでもない神様の恵み、愛を感謝します。時に、扱いにくい人を、難しい人を、変わった人を、見るときに、大事にしない心をゆるしてくださいい。相手にしないのはありえないことです、神様の憐れみを受けたものとして、愛し、仕え、接しますように、主よ、私をあわれんでください

弱いものいじめや、人を無視することは、主の聖餐を壊す(第一コリント人への手紙11章27-34節)

11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
コリント教会の人々は、聖餐式を単に自分たちの食事として、身分の高いもの、自分に有意義な人、ととも食事をし、弱い人々を無視視し、自分の利益にならない人は相手にせず、弱いものや、病気の人、死ぬ人まで出た、という考えられないようなことが起こります、はたして、私たちはここまででなくても、自分に利益がない人、自分が無視する人はいないでしょうか?それは、主の聖餐を壊すことです、なぜなら、神様の愛で神様と一つになった私たちは、ほかの兄弟姉妹と神様の愛で一つになる必要があります、それを味わう、記念する聖餐式なのに、まったく反対のことをしているコリント教会、でも、私たちはどうでしょうか?自分に利益のあるなし、関係のあるなし、で行動していないでしょうか?愛しているでしょうか?今日、主イエスに会って愛します。

主の前にREADYできているか?(第一コリント人への手紙11章27-34節)

11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
主の前に、ふさわしくないままで、パンを食べ、主の杯を飲む者があれば、と聖書は語ります。それは、主イエスの十字架の血潮、裂かれたからだのためにふさわしく生きているか?主のために生きているか?ということです。罪を許されたことを感動して、感謝して、賛美して生きてるのか?そして、罪を犯すことを恐れて、歩んでいるのか?ということです。聖餐の意味も、価値も知らずに、単に食事のために集まり、人々を踏みにじることをしてないか?と言われるのです。主イエスに用いられたいなら、どうしたらいいでしょう?それは、罪を犯さずに、神様とともに歩むことです。罪を犯しても、主イエスの十字架の許しにたよることです、今日、主の前にREADYしている人を目指していきます。

Thursday, January 25, 2018

本物のクリスチャンは、ひとつになる

 

11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
本物クリスチャン、信者はひとつになります、イエス・キリストの十字架により、神様とひとつなります。また、おなじ信者とひとつになります、敵意は十字架により葬られたからです、十字架の血潮で、罪が許されて神様とひとつにさせられたからです。分派をしません、神様の性質はひとつです、サタンの攻撃は分裂です、今日、主イエスにありひとつになります、祈ります、

本物のクリスチャンは恐れを正しい意味で持つ、(第一コリント人への手紙11章17-26節)

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです
聖餐式の意味を知る人は、正しい意味で、キリストを恐れます、私の罪が神様の子であるイエス・キリストを十字架にかけるほどであったことを知ります、そして、そのために流された犠牲がどれほどであるのか?知ります、聖餐式のたびに、恐れを持って、パンとぶどうジュースを受け取ります。この世でなくて、神様を恐れます、また罪を犯すことを恐れます、それでも、罪を犯しながらも、ゆるされるキリストの十字架の血潮、裂かれた体を感謝と賛美、悔い改めをもって受け取ります。そのクリスチャンは他人を尊重し、愛します、彼らに罪を犯すことを恐れます。

本物のクリスチャンかどうか?は聖餐式でわかる (第一コリント人への手紙11章17-26節)

11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです

コリント教会では、聖餐式のさいに、勝手に先に食べて、貧しいものが飢える、病気になる、死んだものがる、’ということまであったようです。ありえない話ですが!?
パウロは、イエス・キリストの聖餐式の意味、十字架で流されるキリストの血潮、裂かれたからだとおして、キリストの死、罪の許し、復活、神様と人がひとつにされたこと、聖徒がひとつにされたこと、そして再臨のイエスを待ち望むことを伝えます、もしも、キリストの聖餐式の意味、価値、流された血潮がわからなければ、分裂、分はするでしょう、単なる食事になるでしょう、しかし、キリストの聖餐の意味、流された血潮の価値がわかるなら、謙遜に、罪を悔い改めて、聖餐に預かる感動を持って、神様とひとつに、そして聖徒がひとつになる貴重さを知ります。本物のクリスチャンはひとつになります。


Wednesday, January 24, 2018

IMAGE OF GODに創造された(第一コリント人への手紙11章2-16節)

11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています
神様は、私を神様のIMAGEに似せてそうぞうされました、主はまた人を男と女につくあれました、創造の原理があります。そこからリーダーシップ、原理をつかんでいきます。じゃ、どうしたら、神様の栄光のために生きれるのか?そして、現実的なことに、非常識に行動するのでなくて、神様に喜ばれる、人に喜ばれる行動が出てきます、神様のイメージに似せて創造された、なんと光栄で、うれしいことでしょうか?今日、主の栄光のために歩みます。

リーダーシップの乱れは創造の秩序の乱れ(第一コリント人への手紙11章2-16節)

11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。11:7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
コリント教会では、豊かな聖霊の賜物の表れと反対に、当時の社会、文化、風習とも反する、もちろん教会の中でも、秩序が乱れる行為が多くあったようです、その際たることがかぶりものをかぶらない問題でした、パウロは創造の秩序からコリント教会を教えます。リーダーシップの乱れを直すのは、神様の創造の秩序の回復からです、神様により創造された男性、女性、優越はなく、順序、秩序があります。パウロは、創造の目的、男性を創造した目的、意味、女性を創造された意味、目的を通して、私たちに創造のリーダーシップを教えます、今日、主のリーダーシップにしたがって生きます。

RADICALにさえすればいいってことじゃない!?(第一コリント人への手紙11章2-16節

11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
コリント教会では、賜物が豊かで、大きな働きがなされていたようです、それ自体はいいことです。でも、問題になっていたのは、当時の文化、風習である女性がかぶりものをしないで、祈りや預言をし、教会の秩序、チームワーク、リーダーシップまで乱し、さらには社会的に「遊女」と誤解されるようなことまでしていたようです。教会だから、クリスチャンだから、何でも新しく(私たちを日ごとに新しくしますが)、聖霊の働きだから、人間には理解できない(もちろんそれはありますが)、何でも過激に、聖霊と言う言葉を使って「わがまま」をしていいのではありません。単純に常識を守ること、必要なことです、意外と間違いを起こすことないでしょうか?今日、主にある秩序、リーダーシップ守ります。

Tuesday, January 23, 2018

食べるにも、飲むにも、キリストの栄光のために(第一コリント人への手紙10;23-11;1)

10:31 あなた方は、食べるにせよ、飲むにせよ、何をするにせよ、すべて神の栄光のためになさい。10:32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の集会にも、つまずきにならないでください。10:33 わたしもすべての人に万事気に入ろうとし、自分のでなくて多くの人々の益を求めて、彼らが救われるようにしています。
私たちのLIFEは、主の栄光のためにです。日曜日だけでなくて、自分の私生活、お付き合い、食事さえも、人々の救いのために、信者である人々の信仰の徳を高めるために、歩みます、そこに、自分のわがまま、考え、経験入る余地はありません。でも、それはいやいやするものでなくて、主人なる神様の栄光のためにする喜びがあります、主の栄光のために、人々に喜びのためにあります、今日、主の栄光のために、生活、奉仕します。

KEYはキリストの徳が立てられるかどうか(第一コリント人への手紙10;23-11;1)

10:23 すべてが許されていますが、すべてが役立つわけではありません。すべてが許されていますが、すべてが建設するのではありません。
10:27 もし信者でない人に招かれて、あなたが行きたいと思えば、出されるものをみな良心の問題とせずにお食べなさい。10:28 もしだれかが、「これは供え物の肉です」というならば、それを知らせた人と良心とのために食べないでください。10:29 良心とわたしがいうのは、あなた自身のでなく、その人のです。なぜわが自由が他の人の良心によって裁かれるのでしょうか。

コリント教会の問題である、偶像にささげた肉が、市場に出回っていてクリスチャンとしてどうすればいいのか?良心の問題が調べずに、とあります。また、それが偶像にささげられたものです、というものがあれば(彼はそれを食べると信仰によくない、と思う人である、ということです)食べるな、と言われます。そのKEYは、建てあげる、徳をたてる、というのが私の指針です。今日、奉仕に、働きに、キリストの体をたてあげる、徳を立てる指針を持って、自分の私心を捨てていきます。

他人の利益を心がけるときに、神の栄光が現れます(第一コリント人への手紙10;23-11;1)

10:23 すべてが許されていますが、すべてが役立つわけではありません。すべてが許されていますが、すべてが建設するのではありません。10:24 だれも自らの益をでなく、他人の益を求めなさい。
今朝、数ヶ月祈っていたことがありました。その働きをすべきか、と祈るときに、「あまりに大きい働きであり」「またときに、自分が利用されているような、」人のためにして、自分たちに利益が無いような、気がしました。そこに、このみ言葉がきました、語れました、主のために、他人の利益のために仕えていきます、ただ、主が共にしてください。

Saturday, January 20, 2018

GOAL目指して走れ、自分を打ちたたいて(第一コリント人の手紙9章19-27節)

9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
使徒パウロは、朽ちない冠を受けるために、GOALを目指して進みます。また、そのために自分を打ちたたいて従わせます、といいます、それは自分が聖書を教えながら、失格者にならないようにです。今日、自分を打ちたたくことを黙想しました、それはGOALへ向かうための、自分でする厳しさです、それがないと失格になります、今日、私のタイムスケジュールを変えて生きます、準備し、備えて、私生活、打ちたたいて主に従います。

くだかれるって、恵み(第一コリント人への手紙9章19-27)

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです
先日、友人の牧師先生と交わり、ともに祈る時間がありました、その時に、くだかれることって、恵みですよね、という話を先生がされました。そのとおりだな、と思いました。まことに砕かれる体験をしてこそ、恵みを受けれる準備ができます。福音の恵みを受けるときに、すべてを福音のためにします、主のために献身することになります、今日、福音のためにすべてできるように、私が砕かれて奉仕することを祈ります

本当に強い人(第一コリント人への手紙9;19-27)

9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
使徒パウロは、人々にイエスを伝えて救われるために、1)ユダヤ人にはユダヤ人のように、2)律法を持たない人には、持たない人のように、3)律法を持つ人には持つように、なりました、といいます、それは、福音のためにどこでも、誰にでも、何でもきる、まことの強さです。福音を自分の中にしっかり入った人は自由です、それは、キリストの真理による自由、強さです、今日、主イエスの福音のために、駐在員、居住者、留学生の理解しつつ、キリストの救いを伝えていきます。

Friday, January 19, 2018

もう一度、純粋にささげてみよ(第一コリント9章13-18)

9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。
使徒パウロは、あれだけ宣教旅行をして、多くの教会を開拓し、多くのミニストリーをしながら、大きな働きをしながらも、福音を伝えるために純粋さを失っていなかった、主にささげる子供のように純粋さを持って自分の人生をささげたのだな、と思いました。自分はどれだけ、主の前に、犠牲を、主の前にささげたでしょうか?パウロの献身、純粋さの前に、ほんのちょびっと、ともいえない小さい自分がいます。今日、もう一度心に帰らせてください、GOSPELを伝えてくれた人のささげる心、時間、経済与えてください(1週間に一度LUNCHするくらい)付き合える、伝道する心を与えてください、福音を伝える純粋さを復活させてください、します!主よ、ささげます、お受け取りください。

天国のREWARDを体験せよ、(第一コリント9章13-18)

9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです
クリスチャンにとっては、福音を伝えることは務めです、でも、それは重荷になる務め、でなくて、特権です、喜びです、私が救われるために、どれほど多くの人々が愛して、時間を、心を注ぎ、主イエスの愛を伝えようとしてくださったことでしょう。今まで自分しか知らなかったものが、主イエスの愛を、福音を伝えることが喜びであり、その人が変えられるために相手の欠点をみず、長所を見ていきます。主イエスの福音を伝え、そのために愛を注ぐこと自体が、REWARです!父なる神様の心が、まだ救われていない人のために、涙を流し、汗を流す、ことを私たちがするなら、また大きな霊的な祝福です、また、何よりも天国での想像できないREWARDがあります。天国のREWARDを体験しながら、福音を伝えていきます。

誰にも奪われない福音を伝える誇り(第一コリント9章13-18)

9:14 同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
使徒パウロは、コリント教会の伝道、宣教、開拓のために自分の誇りを話します、それは、福音を伝える義務、務めです。彼が当然受けるべき報酬を受けずに、福音を伝えてきたのです。パウロの当然受けるべき権利を捨てても、イエスの愛を伝えるために、コリント教会の救われてない人々を愛した、使えた誇りです、パウロの気高さ、愛、聖さ、を見る気がしました。今日、誰にもうばわれない誇りをもって、主イエスの福音を伝えてきます。

Thursday, January 18, 2018

収穫を期待して使えよ(第一コリント人の手紙9章1-12せつ)

9:9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。9:10 それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。9:11 もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。
パウロは、使徒としての権利をおいても、コリント教会に自費で使える宣教師として、テントメーカーとして使えました。彼らの救いのために、福音に妨げになってはいけない、というためにです、主にある愛のためにです。ここしばらく自分の経済的なことを振り返りました、今日のみ言葉を読みながら感謝が出てきました。大変だな、という思いよりも、主の満たし、恵みにまず感謝すべきだと思いました。今日、主の収穫を期待しながら使えていきます。

HARVESTを刈り取れ(第一コリント人の手紙9章1-12節)

9:7 いったい自分の費用で兵士になる者がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない者がいるでしょうか。9:8 私がこんなことを言うのは、人間の考えによって言っているのでしょうか。律法も同じことを言っているではありませんか。9:9 モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。
今日、このみことばを読みながら、わたしがしっかり、種をまき、成長させて、いかないといけない、と思いました。コリント教会に愛と犠牲を持って種をまき、涙を持って成長に使えたのはパウロです。もちろん、すべては神様のなさったことなのですが。でも、自分が何しないというのは違う話です、100%神様の恵み、100%私が使えないといけないことです、そうでないと人生は面白くないです。HARVESTを刈り取るために、自分がしっかりと種をまき、成長に使えていきます、主よ、ともにいてください。

主に立てられたLEADER!第一コリント人の手紙9章1-12節、

9:1 私には自由がないでしょうか。私は使徒ではないのでしょうか。私は私たちの主イエスを見たのではないでしょうか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。9:2 たとい私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、主にあって、私が使徒であることの証印です。
使徒パウロは、コリント教会の人々に使徒権を否定されながらも、自分が主に立てられたことをはっきりと宣言します、リーダーシップを否定されても、主の立てられた理由、そしてコリント教会にために放棄してきた、働き人の権利を主張します。また、それが愛からであることを宣言します。今日、リーダーシップにしたがって生きます。また、主にあるリーダーシップを持って立ち上がっていきます、勇気を持って必要かたって生きます。

Wednesday, January 17, 2018

私たちは、神様により、神様のために生きている(第一コリント人への手紙8章1-13節)

8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです
 偶像にささげた肉の問題を食べる、食べない、で教会の中に議論が起こり、つまずく人もいる中で、使徒パウロは本質に変えるように諭します、それは、私たちは、唯一の神様によりつくられて、神様が今も私たちを維持してくださり、その神様のために生きている、ということをいわれます。私は主のために生きているのでしょうか?今日、主のためにあゆみたいでしょうか?そうすると、いろんな問題は自然に答えは出てきます。今日、主のために存在し、主により維持されて、その主イエスのために生きます、

知識じゃなくて、キリストを愛することがはるかに大事!(第一コリント8章1-13節)

8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
私たちは、信仰を何か、いろんな知識を知っていること、正しい判断ができる、などのことが一番、下手したら唯一の信仰の成長のバロメーターのように勘違いすることがないでしょうか?(でも、これらのことはすごく大事なことです、また信仰の成長の部分です)しかし、今日の聖書箇所が語るのは、大事なのは知識があっても、神様を愛しているのか?人々を愛して使えているのか?です、その知識は愛を持って使うときに、用いられます。でないと、人が知っている知識は神様の知恵とは比べ物にならないものです。傲慢になる暇があるのなら、神様を愛するだけで忙しいはずです、

私たちは、神様により、神様のために生きている(第一コリント人への手紙8章1-13節)

8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです
 偶像にささげた肉の問題を食べる、食べない、でコリント教会の中に議論が起こり、つまずく人もいる中で、使徒パウロは本質に変えるように諭します、それは、私たちは、唯一の神様によりつくられて、神様が今も私たちを維持してくださり、その神様のために生きている、ということをいわれます。私は主のために生きているのでしょうか?今日、主のためにあゆみたいでしょうか?そうすると、いろ
 
んな問題は自然に答えは出てきます。

Tuesday, January 16, 2018

すべての自由は、主の栄光のために(第一コリント人への手紙6章12-20節)

6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
主は自由をくださいました、もはや罪の奴隷になる必要はなくて、人の奴隷にも、自分の弱さにも縛られません、その自由は、自ら喜びを持って主の栄光のためにささげる自由です、主の御心のために使う時間、体、心です、私の人生です、主の栄光のために生きる自由を享受します。

主とひとつになれ!(第一コリント人への手紙6章12-20節)

6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
主とひとつなることが、神様の願いです、罪とひとつになることでありません、実際に肉体でも、結婚という中で性を行うことはひとつになる祝福ですが、結婚の外で、体がひとつにあることは、大変な罪です、主の守りがあることを祈ります、また、主とひとつになることを願い、祈ります、決します

性の乱れは、生き方の乱れ(第一コリント人への手紙6章12-20)

6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです
性の乱れは、生き方の乱れと、言われます、なぜなら、性とは人とかき、生きる、と書くからです、コリント教会の性の乱れは、すごいものだったようです。しかも、クリスチャンです。でも、現代はどうでしょうか?性の乱れに当たり前のように、年齢が、時代が言い訳をしていないでしょうか?
私たちも、その誘惑からまったく、完全に自由でしょうか?誘惑にいつも、勝利しているでしょうか?今日、性の乱れ、警告のみ言葉を聞きます、主よ、弱い私を助け、守ってください、勝利させてください。

私は主のもの(第一コリント人への手紙6章12-20節)

6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
聖書は言います、あなたの体、魂、心はイエスにより代価を持って買い取られたものである、と、それは、物質、外見の体、そして’内面の魂、心もすべての主のものとしてささげなさい、といわれます。今日、病気の方の家庭訪問、祈りの導き、お付き合い、交わり、教会の奉仕を私の心、体を持ってささげます、主よ、あなたの栄光のためにお持ちいださい、

Friday, January 12, 2018

いっそ、だまされろ!(第一コリント人への手紙6章1-11)

6:5 私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。6:6 それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
使徒パウロは、コリント教会の人々が互いに訴えあい、しかもクリスチャンでない人々の前にしてつまずくになることをさして、言われます。それなら、いっそ、だまされなさい、あなたが損を甘受するなら、平和です、とリビングライフの表題のように言われます。これを読みながら、人生の答え、教会での問題の答えは全部、聖書にであるんだな、と思いました。なぜ、人々の前で損した、と訴えるのでしょうか?私が損をすればいいのです。また、それが教会の人の前で徳にならないことをしている、という意識がないのでしょうか?今日、いろんな教会の問題のために祈りました、また私自身がこのように歩みます。この世から馬鹿にされても、いっそだまされてきましたし、だまされます、愛します
 

神様の国を相続できない生き方(第一コリント人の手紙6章1-11節)

6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。
クリスチャンは、イエスの十字架の血潮により、きよめられたものです。しかし、続いて罪の中にとどまるのなら、神の国を相続できないといわれます。せっかくキリストの十字架できよめられたのに、どうして穢れた人生、罪にまみれた人生をいきつづけるでしょうか?!キリストの義を無駄にする、どぶにすてる人生です、救われたのに、どうやってそのまま生きているのでしょうか?コリント教会の人々に、救われたことを基礎をしてに悔い改めて、新しい人生を生きるように伝えます。神様の国を相続できない、天国を受けれない、ということです。この地上においても受けるべき天国の人生を受けれませんし、後の天国の人生を得ることもできません。神様の国を相続していきます。

神様のみ言葉通りに生きないなら、(第一コリント人への手紙6章1-11節)

6:1 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6:3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。6:4 それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
ごく小さいことを裁けないのは、①神様のみ言葉どおりに生きないからです、自分の言葉、考えを中心にするから、正しくない人のところに持って生きます。この世の裁判官に持って生きます。さらに教会で無視される(主の言葉に従わない)人にもって行きます、自分が親しい、自分の見方、派閥を作ります、②教会の中でも、聖さを保たないといけません。罪を除かないといけません。神様の国のルールに従っていくときに、正しい裁きができます、正しい価値観を育てて、将来、みつかいさえも裁くものになれます(すごいことでないすか!?)それは、UNITED IN CHRISTしていくことです、神様のみ言葉に従い、歩みます。一致を祈り、目指します

Thursday, January 11, 2018

小さい罪だからといっていい加減にするな!!(第一コリント人への手紙5章1-13節)

 5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
PAULを通して、コリント教会に、現代の私たちに語れます。小さい罪だから、誘惑だから、といっていい加減にするな!小さい妥協だから、といって、古いもので変われないですよ、古い性質だから難しいですよ、と言うことを取り除け!と言われます、パン種のたとえは、パンを作った人にはすごくわかるたとえです、PAULは兄弟と呼ばれるもので、不品行、貪欲、略奪、偶像崇拝、(クリスチャンでこれがあるのって、世の中よりおかしいですよね)付き合うな、と言います。悪い影響、よくないものを、妥協を入れるな!と言われるのです。今日、小さいものだから、といっていい加減にしません、罪を追い出します。主のきよめを受けます。そのことを処理、裁きます、付き合いません。

教会から、私から不純物を、罪を除け!

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
PAULは、教会から不純物を除け、罪や不品行や倫理的な堕落(この世のセキュラーさえもコリントのクリスチャンにつまずくくらい)を裁きなさい、処分しなさい、と言われます。それは、彼を滅ぶためでなくて、主の日に救いが起こるためです、回復のためです。捌きを行うのは愛からこないといけません。教会の中でも、私たちの個人の人生の中で、罪を除かないといけません。それは、ほおっておくといつか必ず罪により神様の裁きが起こるからです、滅びるからです。捌きって、この時代から難しい気がします、しかし、その動機は愛です。私が、その人が、教会が滅びないために与えるものです、今日、罪をまずは自分から取り除きます。

罪をそのままにしておくな!(第一コリント人への手紙5章1-13節)

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
パウロは、コリント教会に罪を犯している人を処分しなさい、と言います。罪はそのままにしておいたら無くならないのです、必ず罪の起こす報酬、裁きがきます。しかし、パウロはさらに言います、肉において裁くこと、滅ぼされること、しても、主の日には彼の魂が救われることを祈り願います、罪を処分すること、また裁きをおろすことは、彼を滅ぼすためでなくて、彼の魂が救われるように、回復をすることが目標です。このことを忘れてはいけません、人間の裁きは憎しみ、自分の理論が先立ちます、彼のことを回復させる神様の愛がありません。本当に!
今日、主にある裁き、それは神様の愛による回復を目指すことを祈ります。

純粋な真実に礼拝せよ!(第一コリント人への手紙5章1-13節)

5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
 パウロは、クリスチャンになる前の不純物、罪や古い性質を捨てなさい、と言います。そして、過ぎ越しの子羊イエスがほふられたことで、新しい性質になりなさい、罪を捨てなさい、神様の福音により、純粋で、真実な人生をいきなさい、と言われます。そして、純粋で真実なパンで祭りをしなさい!(LETsCELEBRATE)礼拝しなさい、と言われます。礼拝は、古いものや、罪が入る余地がありません、神様の前に不純物は入れないからです、今日、私を生きた供え物として、ささげていきます。きよい、いきた供え物として、歩みます、霊的な礼拝をささげていきます

聖さを守れ!(第一コリント人への手紙5章1-13節)

5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。

 教会、クリスチャン、とこの世との違いは何でしょうか?それは、聖さです、主イエスキリストの十字架により、罪が清められたことです。しかし、コリント教会の人々はクリスチャンになってから性的なきよさ、倫理的なきよさを守ることができませんでした。キリストの清さは救われて終わりでなくて、さらに清められる人生を漸進的(ぜんしんてき)に生きていきます。
清さは、この世では作りだすことができません、自分の努力できよさすることはできません、完全な主からの賜物です。しかし、きよく生きることは私たちの自由に従う意志に任せられています、神様は、私たちをROBOTにされませんでした。清さが難しい時代です、きよさという言葉が、通用しない、ように思える時代です。しかし、だからこそクリスチャンは神様の下さった清さを失わずに歩まないといけません、今日、聖さを守ってください、と聖霊に頼り歩みます。

Wednesday, January 10, 2018

主のためにはくがいされたことがあるか?迫害さているか?(第一コリント人への手紙4;9-21)

4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。パウロは、コリント教会の人々に強烈な言葉を言います、それは、キリストのために迫害されている自分たちと、人間の高慢といい加減な信仰生活をしているために、豊かに、成功して、賢く、上手に生きているように見えるコリント教会の実情でした。私たちは、キリストのために迫害されたことや、苦しいこと、損をした事があるでしょうか?また、今は苦しみ、迫害、損をしたことがあるでしょうか。キリストのために生きるなら必ず、この世とぶつかります、罪と神様の反対する価値観にはぶつかるはずです、聖書を読んで黙想しながら、少しくらいは主イエスのためにしているつもり、と思いました。しかし、もう一度、私のことはたいしたことがない、と思いました、血を流したことも、命を失いかけたこともないからです、最近、大変だと思ったことを悔い改めます、もう一度、主のために迫害されることを思って感謝します、賛美して歩みます。

私の生き方を侵入されない、犯されないPAUL(第一コリント人への手紙4;9-21)

4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。パウロは、コリント教会の人々に、自分たちがどれほど苦労をしているのか、主のために迫害されているのか、まことの主イエス・キリストの生き方を伝えた聖書箇所を読みながら、黙想させられました。それは、使徒パウロがののしらられても、祝福し、迫害されても、耐え忍ぶ、とあります。普通ならののしられたら、ののしりかえし、辱められたら、弁明します。しかし、そうしないのはなぜでしょうか?普通なら、いくらクリスチャンでも、耐えれない、というでしょう、状況が状況であるから仕方がない、というでしょう。しかし、パウロは自分のクリスチャンとして、主の僕としての行き方を犯されない、正しい意味でのPRIDEをもって、いきます、誰も、どのようなものも、パウロにあるクリスチャンの生き方を、サタンも、敵も、この世の勢力も犯すことができないのです、主が守り、主が勝利をくださいます。今日、主にある私のクリスチャンの人生、生き方を犯されない歩みをします。

主のため迫害されても、父、母の心を持って仕えよう!(第一コリント人への手紙4;9-21)

4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません
4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
パウロは、コリント教会の人々に自分たちが迫害されている姿を証言しながら、なぜ、このことを話すのか?証ししています、聖書を黙想しながら、それは、コリント教会への父なる神様の心でないか、と思いました。迫害されても、攻撃されても、コリント教会の問題ある聖徒たちを父なる神様の心で、さとし、警告し、訓戒するため、であると思わされました。GOSPELが生んだ、コリント教会のクリスチャンたち、問題があっても、この世から迫害されても、子供を愛する心で、迫害を受ける、苦しみを受ける、これは、父なる心がないとできない、と思いました。私はどれほど、父の心を持って、両親の心を持って、境界の人々に仕えていることでしょうか?両親は、子供のためになら苦しみ、迫害されても、愛します、彼らが正しい歩みをすることを願い、諭します。今日、主に会って使えます

キリストイエスにある私の生き方(背中で見せる歩み)第一コリント人への手紙4;9-21

4:16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。 4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
使徒パウロは、コリント教会の人々に、私に習うものとなってください、言います。それは、私心が合ってはいえないことですし、何よりも、証できる人生、背中で語る人生、自分が生きていないの言えないことです。もちろん、パウロはその激しい人生は、主のために誰よりも迫害を受けていました(しかし、自慢することはありません)、今日、自分の歩みが、生き方が、模範になる、足跡になる人生になるように祈ります、ぜんぜん遠い人生ですが、主のために再献身する、ことを願います、主にある迫害、人々の前に、神様の前に、イエスキリストにある人生を自分がまず歩みます

Tuesday, January 9, 2018

今あるのは誰のおかげ、(第一コリント人への手紙4;1-8)

4:6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。
コリントの教会の人々は、分派を起こし、自分が偉いものかのように、高慢に振舞っていました。自分が権力を持ったよううに振舞ったのです。しかし、パウロを通して神様は、コリント教会、私たちに語られます。あなたがなにかもらったものでないものがあるのですか?コリント教会、私たちがいるのは、神様のFREE GIFEである救いを得たからです、しかも、その救いは滅ぼされて当然である人間を愛されたイエス・キリストの謙遜、卑下された十字架による救いなのです、そして、今あるのも、神様が私たちを成長させ、信仰を育て、神様が私の人生を守ってくださったからです。今日、今あるのは主なる神様によること、神様が多くの人々の愛を通して守ってくださったことを告白します、大きくなったときも謙遜に、主のおかげ、すべてが恵みによります、と告白します。

WHOSE JUDGEMENT?(第一コリント人への手紙4;1-8)

4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
 
私たちの奉仕、人生を裁かれる方は、神様です。私たちはどれだけ人の目を気にしていることが多いことでしょうか?人と比較すること、目に見えること、成し遂げたことを、功績にします、また、自分自身が裁き主なら、すごく甘いか、すごく自己満足に陥るか、どちから?です。しかし、本当の裁き主は、神様です、霊的な判断をもって、まことに、永遠に残るもの、天国に詰まれたものをしたのか、どうか実を見まれます。これこそ、本当の意味で、最も怖い方であり、恐れる方であり、しかし、愛の方です、その主イエスの前に裁かれることを期待して、歩んでいきます。

私は忠実な、キリストの僕なのか?(第一コリント人への手紙4;1-8)

4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。4:2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
今日のQT箇所のウラKEYは、主は神様である!と私はしもべ、である、ということです。しかも、求められていることは、忠実さです、能力が優先なのでなくて、忠実な、英語のNIVではFAITHFULLなのか、どうか?!です。神様の奥義の管理者としていかに、能力があっても、コリント教会のように傲慢になったり、人と比較して、分裂や、傷をつけたり、するのでなく、裁き主である神様の前に忠実にあるべきです、主にある忠実な一日を目指します。