Saturday, February 28, 2015

イエスの残したもの(ヨハネの福音書14;25-31)

イエスの残したもの(ヨハネの福音書14;25-31)普通は、人が離れて行ったり、どこかに行ったら、寂しかったり、つらいものです。しかし、イエスが世を去っていくときには、助けぬしなる聖霊様をイエスの名前で送ってくださいました。そして、イエスがこの世を去って父なる神様と共にいるときに、すべてのイエスの教えとイエスのみ言葉を『どういうことだったのか?思い起こさせてくださいます』教え、分かるようにしてくださいました。聖霊様が、来られる時に『イエス・キリストの受難、苦難、受難、復活』を教えてくださいます。そして、永遠に共にいてくださいます、一人でありません。イエスの中で歩みます。神様を愛するなら、と言ってくださいます。今日のQTで繰り返される言葉は、『あなたがたがわたし(イエス)を愛するなら~』と言う言葉です。神様を愛するなら、神様ご自身、神様の心を行うイエス、救い、を表せてくださいます。イエスは私に、(私たちに)この世の与えるものでない平安を残してくださいます。それは、神様がともに生きている人生です、神様ご自身が共にいてくださることが、平安です。イエスを示す聖霊様がともにいてくださいます。今日、主イエスのこされた平安を持って歩みます。
 

Friday, February 27, 2015

神様を愛するのか(ヨハネの福音書14;15-24)

神様を愛するのか(ヨハネの福音書14;15-24)クリスチャンにとって、大きな分かれ道は『神様を愛するのか?!どうか?』です。単になんとなく(これポイント)神様を知っている、信じているでなくて、神様を愛する時に大きな違い、祝福が来ます、それが、宗教をしている、していない、違いにもなります。変な話ですが、キリスト教のRELIGEIONでなくて、RELATIHOSHIPです。関係です!。神様を愛する時に、①神様の命令を守ります(15節)それは、→23-24節、父なる神様の言葉、聖書を読みます、守ります(LOGOSなる神様、創造主なる神様)、すごく大事なことです。神様との関係を保つために、神様の毎日来るラブレターです。②父なる神様は、私たちに助け手を送ってくださいます、ほっとおいたり、捨てられることはありません、神様を愛する時に、主は責任を取ってくださいます、③永遠に共にいてくださいます!、三位一体の神様がともにいてくださるのです、キリスト教の大事なことは、一人でする信仰でなくて、ともにする、いる信仰です。④聖霊様は、真理の御霊です。ともにいることは、真理なる聖霊に導かれて進むことです。本当に人生の行くべき方向へ向かいます。その方と共に生きていきます。その方と共とに生きないときに、少しずつおかしな方向へ行ってしまいます。その日には、主イエスが父と共におり、あなたがたがともにおり、わたしがあなたがたにともいおることが、あなたがたにわかります、20節、そして、わたしもその人を愛し、私自身を彼にあらわします、21節。とあります、主イエスを愛し、主イエスにすでに愛されていて、主イエスをもっと知る、共に切る火を歩んで生きます。
 

Thursday, February 26, 2015

心がTROUBLEにならないためにBELIEVE In HIM!(ヨハネの福音書14;1-14)

心がTROUBLEにならないためにBELIEVE In HIM!(ヨハネの福音書14;1-14)変わりやすいこの世の中を生きるために必要なことは、信じれるものを持つこと、見つけることです。それは、一時的なもので良いのでしょうか?永遠に変わらないものが必要でないでしょうか?その方は唯一の創造主なる神様です、メシアなるイエス・キリストです。1節『あなたがたは心を騒がしてはいません。神を信じ、また私を信じなさい』心を騒がすようなことが起こらないとは言われません。心を騒がすようなことがあっても、①現在も、ここで、私と共に生きられるイエスが一緒でいるときに、②再臨のイエス・キリストが来られる時に、心が騒がないですむ、ということなのです。KEYは誰と共にいるのか?信頼できる人と共にいるのか?イエス・キリストと共にいるのかです!?主イエスがともにいてくださって、私でなくて(私がでる時に問題が起こります!)神様が働いてくださる時に、私のうちにおられる神様が働いてくださる時に祝福があります。いかに、長く信仰生活をしていても、長く教会生活をしていても、献金しても、奉...仕しても、もしかしたら神様を体験できずに生きる子可能性があります。道であり、真理である、命であるイエス・キリストを通してでなければ、父なる神様の下にいくことは出来ません、どういうことでしょうか?①自分が罪びとであることを認めないといけません、クリスチャンであっても、自分が罪びとであったけど、罪を許されて自由になったこと忘れてはいません、また日ごとに罪を犯すことを忘れず、悔い改めないといけません。②イエス・キリスト以外に道はありません、罪の代わりに行いや、善行や、宗教でなくて、お金でもなく、ただイエス・キリストの十字架の恵みを信仰を持って受け取るだけです。③そのときに、永遠に主と共にいます、永遠の命は神様と共に生きることです。その時に、自分でなくて(イエスでさえそうでした!)、神様の思いを行うときに、神様のわざが私を通してなされて、なんと!大きなわざをなさってくださるのです。今日、主イエスだけが道であり、真理であり、命である方を頼って、ともに生きていきます、主の大きなみわざが私を通してなされること、神様の願いだけがなされることを祈ります、ちょっとでも、油断すると自分がもたげますから、神様、私の中で満たしてください
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Wednesday, February 25, 2015

命をかけてあなたの名前を呼んだ!ヨハネの福音書10:1ー10節、

命をかけてあなたの名前を呼んだ!ヨハネの福音書10:1ー10節、イエスはまことの羊飼いです。羊はその声を聞き分けます、彼は自分の羊をその場で呼んで連れ出します。3節。イエスはその羊のために命を捨てて呼ばれた方です。十字架で命を捨てるために地上にこられたのです。そして、私の名前を呼ばれました。なんとすごいことでしょう!しかし、なんと多くの人が、いや私も神様の声を聞けずに、逃していることでしょう。今日のsenaじゃないいですけど、うるさい世の中の声で静かに神様の声を聞けないでいるのでないでしょうか。私にとって、今日の適用で「神様の声を聞くと」は、聖書から神の声を聞くことです、静かに主との出会いの時を持つことです。忙しい中で主の声を聞く時を、聖書と祈りの時を持ちたいと思います。そして、もう一つ思わされたことは、世の中の心配、悩み、思い煩いが心を占めて、偽の声で揺れることがないか、思わされました。でも、世の中の声は責任がありません。実際に起こってないことを、未来のことで心配させます。しかし、イエスはいのちをかけ私の名前を呼んでくださっているのです。でも、今まで神様の声を聞かず生きてきた人には、神様があなたを愛してる、言っても現実味、感じないかもしれません。今日、これからも、①イエスの愛を伝えること、②神様の声を聞いていく、聞けるように育てるミニストリーをしていきます

良い羊飼いイエスに養われているか?(ヨハネの福音書10:11ー18節)

良い羊飼いイエスに養われているか?(ヨハネの福音書10:11ー18節)良い羊飼いと雇われ人の差はなんでしょう?違いはなんでしょうか?それは、羊のために命を捨てる愛、また、異邦人や、まだ神様に出会っていない人々への、失われた者への愛です。そこに、犠牲があるかどうか?それは誰かに強制されてするものでなく、自ら捨てる命です。その根源は神様の愛を知ることからきます。神様もイエスを知り、イエスも神様を知っているように、神様が私を知っているように、私たちも神様を知って行かないといけません。今日は、不足なものですがもっといのちを人生をイエスに養われて、イエスの羊飼いの心を持つものになりたい、と思います、主よ、もっと父なる神様の心を知らせ、体験させ、与えてください

アインデンティが人生を決める決定的なことになる(ヨハネの福音書10:19ー30節

アインデンティが人生を決める決定的なことになる(ヨハネの福音書10:19ー30節)しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。26節、そして、27節、「私の羊は私の声を聞き分けます、また私は彼らを知っています。そして、彼らは私についてきます」神様に属する人は、神様の羊は、①この世の騒々しい中でも、他の本物に似たニセモノでなく、本当の羊飼いイエスキリストの声を聞き分けます。これとわかります。②イエスも彼ら、私、私たちのことを知ってくれています。③イエスにfollowしていきます。自分が誰か、自分がどこに属しているのか、わかった人は本当の自由を得ます。そして、イエスは彼らにイエスの命、永遠の命をくださいます。そして、誰も父なる神様から羊を私たちを奪うことはできません。それは、自分のアイデンティティーを掴んだ、いや、イエスからもらった、選ばれた人の祝福です。きょう、主イエスに属する、共にいる、神様の声を聞き、followしていく祝福を得ます

神様の未技の奥義を悟る人、拒否して受け損ねる人々(ヨハネの福音書10:31ー42節)

神様の未技の奥義を悟る人、拒否して受け損ねる人々(ヨハネの福音書10:31ー42節)イエスは、父なる神様からのautorityをもって、数々のGood worksをされました。それは、イエスのわざがすべて天からきていること、それを見たときに認め座ざるを得ないでしょ、という感じがします。しかし、①ユダヤ人たちは信じないと決めて、イエスを妬みから殺そうと決めていて、憎み迫害します。そのもう一方で、②バプテスマのヨハネが滞在し、証ししていたところで、多くの人々がイエスを信じます。なんと、大きな違い、対照でしょうか。目の前に神様の子なるイエスが現れて、完全に父なる神様の心だけを行い、神様のわざをなされたのに、信じることができない、それどころか、イエスを迫害しようとする、もう一方はイエスを信じ、神様のがイエスにおられることを悟って生きる、人。どちらになりたいでしょうか。今日のリビングライフの例話は、単純にイエスを信じて、驚くべき神様の奇跡を体験したマレーシアの牧師の話でした。きょう、主のわざを体験する、知り、悟る人生を生きていきます。主よ、私の心をもっと素直に知り、偏見を除き、自分の体験を置いて、主イエスが神様の中にいることを体験させてください。
 

目的が癒しだけじゃいない、神の栄光のため!(ヨハネの福音書11章1ー16節)

目的が癒しだけじゃいない、神の栄光のため!(ヨハネの福音書11章1ー16節)15節に「私はあなた方のためすなわちあなた方が信じるためには、私がその場に居合わせなかったことを喜んでいます、さあ、彼のところに行きましょう」イエスの愛するラザロが病気でした、癒しに来てください、というマルタ、マリアの声を聞きながらも、イエスはさらに2日そこに止まられました。それは、主の栄光のために、死で終わるものでない、あらかじめ宣言されました。①私たちは、なぜすぐに神様が答えて下さらないのか?疑問に思い、試みにさえ会うことがあります。しかし、それは主の計画です。人は病気になるし、問題も抱えます。でも、問題さえ、解決しても主との関係がなかったらどうでしょう?②また、問題が解決しても次がきます。繰り返し試みに会うのでしょうか?③死で終わらない神様の力があるなら、他のどんな問題を恐れる必要があるでしょうか?④神様は、ラザロ、マリヤ、マルタの家族を愛しておられました。決して奇跡や神の栄光のために人を利用されません。私たちを愛してくださるのです。⑤イエスを神の子と信じるために、この大きな奇跡はなされます。今日のリビングライフでは、まだ奇跡の箇所は起こっていません。今朝、QTしながら、むかし金サムエル先生が病気の人、亡くなった人生き返らせてください、そうでないと日本列島はひっくり返りませんから、と祈ったと説教の中で話されたことことを思いだしました。今朝、何も起こりそうもない私の現実、日本の魂に、主の栄光がなされることを信じます。そして、主に期待して行きます!(さあ、彼のところへ行こう)主イエスの栄光を期待して、感謝し、賛美します。
 

どうして、復活の命であるイエスを使えないのか!?(ヨハネの福音書11:17ー37節)

どうして、復活の命であるイエスを使えないのか!?(ヨハネの福音書11:17ー37節)25節『私は、よみがえりです、命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。』イエスがいのつご自身です、復活そのものです。その方を信じるなら、ラザロの死を破って復活を与えることなんて、当たり前です。神が人の子となって来られる奇跡そのものが、奇跡を起こすなんてなんでもないことです、なぜ、神様の力を体験できないのでしょう。それは、信じることです!単純に!、人にはできないことも神様の力を持ってできることを信じます、わたしも、教会もイエスの命によって、復活によって生き返ります、信じるなら主の栄光を見ます!ハレルヤ!
 

if you believe(ヨハネの福音書11:38ー46節)

if you believe(ヨハネの福音書11:38ー46節)今日のQT箇所は、イエスがラザロを復活させる場面です。イエスがなんども、私は命であり、復活であることを宣言されて、何度も神の子であることを確認されながら、信じるなら主の栄光を見る、と言われながらも、人々はなぜ、ラザロを生かすことができなかったのか、とイエスを低くみ、批判され、ている中で、心のうちに憤りを覚if you believe(ヨハネの福音書11:38ー46節)今日のQT箇所は、イエスがラザロを復活させる場面です。イエスがなんども、私は命であり、復活であることを宣言されて、何度も神の子であることを確認されながら、信じるなら主の栄光を見る、と言われながらも、人々はなぜ、ラザロを生かすことができなかったのか、とイエスを低くみ、批判され、ている中で、心のうちに憤りを覚えた、とあります。そうです、神様の子であるのに、奇跡そのものであるイエスを目の前にしながら、主に願い求めることしません。それは、まるで私(もしくは、私たちの?)の姿、信仰のようです、クリスチャンでありながらも、イエスをい...ける神の子と告白しながらも、自分で神様にlimitterをかけて、願い求めることをしません。これは出来て、あれは現代は無理だろう。または、過去の自分の失敗や、経験から願い求めない、ことがあります。リバイバルは難しい、とか勝手に思います。少し前にFBで金サムエル先生のことを書きました。病人を生かしてください、死者を生き返らせてください、と祈った話を。それは、悔い改めます!主なる神様とdealはできないけど、主が御心をなさる、または違う、ことで、それは、主なる神様の主権にかかっています、私は信じるだけです!祈り求めるだけです。イエスは言われました『もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、といったではありませんか』主よ、信じます。あなたしかありません。主の導き、私の人生、Jubilee chにあることに信じていきます、神様のすでになされたこと、聞いてくださったことを信じます。リバイバル、主の奇跡を信じます、大逆転劇を信じます。42節、この人々が、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです』主よ、信じて主の栄光を見せてください!If you believe, you will see the glory of God!えた、とあります。そうです、神様の子であるのに、奇跡そのものであるイエスを目の前にしながら、主に願い求めることしません。それは、まるで私(もしくは、私たちの?)の姿、信仰のようです、クリスチャンでありながらも、イエスをいける神の子と告白しながらも、自分で神様にlimitterをかけて、願い求めることをしません。これは出来て、あれは現代は無理だろう。または、過去の自分の失敗や、経験から願い求めない、ことがあります。リバイバルは難しい、とか勝手に思います。少し前にFBで金サムエル先生のことを書きました。病人を生かしてください、死者を生き返らせてください、と祈った話を。それは、悔い改めます!主なる神様とdealはできないけど、主が御心をなさる、または違う、ことで、それは、主なる神様の主権にかかっています、私は信じるだけです!祈り求めるだけです。イエスは言われました『もし、あなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、といったではありませんか』主よ、信じます。あなたしかありません。主の導き、私の人生、Jubilee chにあることに信じていきます、神様のすでになされたこと、聞いてくださったことを信じます。リバイバル、主の奇跡を信じます、大逆転劇を信じます。42節、この人々が、あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです』主よ、信じて主の栄光を見せてください!If you believe, you will see the glory of God!
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犠牲のため来られたイエスと自分のポジションのため生きる宗教人(ヨハネの福音書11:47ー57節)

犠牲のため来られたイエスと自分のポジションのため生きる宗教人(ヨハネの福音書11:47ー57節)50節『一人の人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたに得策だということも、考えに入れていない』宗教人たちは、自分の人気、立場、現生勢力を得るために、イエスを妬みから殺そうと画策しました。それは、徹底的にメシアなるイエスを認めようとしなかったのに、メシアなるイエスが十字架でしなれることを預言し、認めることになりました。イエスは自分の立場を捨てて、すべての人の犠牲となるために来られました。逆に、宗教人は自分の立場を得ようとするために天国の命、全てを失うことになりました。霊的な目が開かなかった、もしくは開こうとしなかったために、このような人生を、ましてイエスを殺そうと歩みました。まら、イエスは52節『ただ、国民のためだけでなくて、散らされている神の子を一つに集めるためにも死のうとしておられることを預言したのである』きょう、神様の語ってくださったビジョンは全世界に、北米に、LAに散らばっている神様の子を集めなさい、というビジョンです。この時に主の民を集めていきます。
 

聖なる浪費と心無い無使用(ヨハネの福音書12:1-11)

聖なる浪費と心無い無使用(ヨハネの福音書12:1-11)マリヤがイエスのために、300グラムの非常に高価な香油をささげて、イエスの足に塗ります。そして、自分の足でイエスの足を拭います。それは、イエスを愛する尊い、聖なる浪費とでした。(いや、浪費でありませんが。)イエスのために、葬りの準備をしてくれたのです。なんという霊的な行動、瞬発力でしょうか。霊的な秘密、メシアとしての人生を知っていたのです。彼女はそれに反応します。Q:わたしは、主イエスのために聖なる浪費、ささげもの、紐のついていない、心から、喜び持ってしているでしょうか。逆に、イスカリオテのユダは心無いことを言います。この香油を三百デナリに売って貧しい人に施さなかったのか。5節。彼は献金を盗んでいたのです。金入れを預かる人は信頼できるはず、です。彼は人間的には間違いなく、信頼できるか、頭の切れる、計算のできる人であったでしょう。しかし、そこには心のある、熱い、喜びのある、愛のある捧げものはありませんでした。かえって、彼の罪を隠すための虚しいことを言っているだけでした。Q:わたしは人を批判したり、宗教人のように生きて外見だけになっていないでしょうか。罪を隠すために批判や頭だけの言葉を発して、心からの捧げものを失っていないでしょうか。マリヤがささげたものは素晴らしいです。でも、もっとすごい聖なる浪費はイエスご自身です。イエスの生涯を私のために下さったことです。十字架でイエスが私のために(わたしたち)死なれたことです。これ以上のものはありません、すると、わたしがささげる、とか言えません。今日、主イエスの愛に応えていきます、今日の1日を
 

知らないうちに、神様の言葉成された(ヨハネの福音書12:12ー19節)

知らないうちに、神様の言葉成された(ヨハネの福音書12:12ー19節)今日のQT箇所は、知らないうちにMessiahについての予言がなされている箇所です。①『ホサナ、祝福あれ。主のみなにより来られる方に。イスラエルの王に。」群衆たちが熱狂的に迎えます。②14節イエスは、ロバの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれている通りであった。『恐れるな、シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる、ロバの子に乗って』これは、ゼカリヤ9:9の預言の成就でした。イエスは平和と謙遜の王として預言どおりにこられました。③弟子たちは、このことがわからず、またメシアとしてこられることが、キリストの栄光が十字架の苦難と復活の栄光であることが分からず、いました。④弟子たちは、メシアをローマ帝国からの解放、イスラエルの復権、と軍事的、社会的、政治的なメシアを考えていました。しかし、メシアなるイエスはその範疇に収まらない全宇宙的な、全歴史的な、宇宙の、人類の運命を変える救いの歴史を持つ方でした。なんと、壮大で感動的で、自分たち人間の考え、経験になんて全く入りきれない方です。今日の適用は(解釈でなく適用は)❶、メシアなるイエスを迎えるのふさわしい準備を、礼拝をしていきます、❷もっと、聖書の学びをしていきます、ゼカリヤの学びや通読ってしたことないですよね。❸、キリストの苦難と復活を信じて歩みます、苦難は嬉しくないですが、主イエスに従う苦難歩みます、キリストの体の欠けた苦難うけていきます。❹、主イエスが私の知らぬうちになされた救いの計画、働き、信じ、主のなされる約束を信じて歩みます。本当に感謝します
 

(ヨハネの福音書12:37ー59節)イエスを信じ告白する人、

(ヨハネの福音書12:37ー59節)イエスを信じ告白する人、今日のQT箇所では、3つのグループがあります。①イエスを現実の生活の中で見たのに信じないJews、2000年前の宗教人たち。②預言者イザヤは、イエスを現実の中で見たわけでないのに信仰を持って見て、信じて、神様の言葉を宣言しました。③多くの指導者たちもイエスを信じましたが、告白しませんでした。それは、43節「神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したからです」そして、④イエスの言葉を聞いて、信じ、光の中を歩み、暗闇の人生から離れる人々です。私たちはどうでしょうか?!本当に恐るべき神様の裁きを恐れて、本当に受けるべき価値ある栄誉を求めているでしょうか!?価値観を変えて、主からの栄誉、変わらない永遠の栄誉を求めているでしょうか、そこに、本当の勇気が出てきます。裁きのためでなくて、救うためにこられたイエスの永遠の命を受け取っているでしょうか。今日、イエスに感謝をし、告白していきます。そのいえすをつたえていきます。
 

愛すると仕える。愛はそのときを知る!(ヨハネの福音書13;1-11)

愛すると仕える。愛はそのときを知る!(ヨハネの福音書13;1-11)イエスは1節「この世を去って、父の御許に行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところ無く示された」イエスは、弟子たちを愛されました。そのために、弟子たちの足を洗うという、外国人の奴隷しかしなかったことを、師である、先生である、主であるイエスがわざわざなされました。そして、そこには裏切る弟子のイスカリオテのユダの足もありました。また、自称、自負する一番弟子のペテロの足もありました。イエスは愛すること、そして愛する時を知っていました!そのタイミングを逃しませんでした。万が一、この時に足を洗えなかったら、どうでしょう!?そのチャンスは二度と帰ってきません。愛する時を知ること大事なことです。また、愛することに従順すること、大事なことです!わたしがこのポジションだからと言って、使えない、その場所を降りていけない、そういうことが人間にはたくさんあるのでないでしょうか?しかし、一番くだらなくても良い、しなくてもいい方が、イエスがそうしてくださったのです。権威をおかれたのです。今日、主に会って、愛し、仕えていきます。
 

神様の栄光は、苦難を通して(成功主義でないこと)ヨハネの福音書13章31-38節

神様の栄光は、苦難を通して(成功主義でないこと)ヨハネの福音書13章31-38節「わたしがいくところに、あなたは今はついてくることができません。しかし、後にはついてきます」イエスは31節「ユダが出て行ってとき、イエスは言われた。今こそ人の子は栄光をお受けになりました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました」イエスの栄光は、受難、苦難、裏切られて、十字架にかかり、拒否されて、殺される栄光です、単なる成功主義ではありません(成功が悪いのでありません!あしからず)。それは、父なる神様の心である、人類の救い、魂の救いのために、人の子を地上に2千年前に遣わし、神様の心を行い、人生で生きて、十字架にかかる従順から来ます。韓国語で그가 오신 이유という「彼らがこられた理由」という賛美を思いだました。この世の中で一番美しい涙、従順、十字架の従順、という賛美です。それは、単に祈ったら神様に聞かれた、という祈りの水準でなくて、自ら願って、主イエスの心を行う、したい、と思う、従順から来ます。しかし、イエスははっきり言われます、今はついてくることができない、十...字架は寂しい、孤独の道です。でも、同時に人の力ではできないことです。ペテロはいのちをかけてついていきます、と言いました。しかし、イエスは三度否認する、と宣言されました。リビングライフにあるように、一度なら間違いました、失敗はあるでしょう、と言えます、いい訳にもなるかもしれません。しかし、三度と言うには習慣的です、人間のもともとの性質がいかに神様に従順するのが、難しいか、ということです。イエスは言われます、34節;新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。と。わたしがあなたがたを愛したように。あなたがたも、互いに愛し合いなさい。イエスの愛で、十字架の愛で、愛しなさい、ということです。人の力でなくて!主イエスの命がけの愛で、愛しなさい、ということです。それはまさに、人の力では出来ないこと、自分に死ぬことです。イエスの弟子になることは、成功や行いでなくて(その中に愛があれば良いのです)愛し合うことです、イエスの弟子とは、ひとりでなれません。愛する関係、共同体の中ですることです。今日、わたしの力じゃなれないことを告白します。イエスの愛で、自我に死ぬことを祈ります。主の栄光は、自分の力じゃさえぎってしまいます。イエスの愛で歩みませてください。https://www.youtube.com/watch?v=I3Y6s0Sy1QA
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[광진교회 성가대] ' 그가 오신 이유 ' - 2015.02.01 주일 2부예배 - ----------------------------------------------------------------------------- -목요찬양예배 안내: 매월 2,4번째 목요일- 'THE S...
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Tuesday, February 24, 2015

裏切る弟子と、同じ共同体にいたイエス(霊の激動を感じる時、JESUS WAS TROUBLED IN

裏切る弟子と、共同体にいたイエス(霊の激動を感じる時、JESUS WAS TROUBLED IN SPIRIT)ヨハネの福音書13;21-30節、21節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ります」イスカリオテのユダは、弟子たちという人生共同体の中に、運共同体の中に、神様のミニストリーの中に、神様の国を広げようとする中にいました。①裏切られる、どれほど痛みと苦痛と、まさに。霊の激動を感じることでないでしょうか?どれほど、傷つくことでないでしょうか。②しかも、その人はともに生活してきたのです、イエスはご存知で何度も悔い改めのチャンス、しかも今日のQT箇所では、わざわざ誰が裏切るのか、動揺する弟子の中で、シモンペテロがヨハネを使って誰が裏切るのか尋ねさせ、「私がパンを浸して与えるものです」とイスカリオテのユダを示しているのに、みながその場で分からなかったようです。なぜなら、「あなたがしようとしていることを今すぐしなさい」とイエスがイスカリオテのユダに言ったのに、(1)祭りのために入用のものをかえ、(2)貧しい...ものへ施す、と弟子たちは思ったのです。今日の黙想です、①裏切る人々を愛すること、本当に無理なことです、イエスのなされたことです。どうか、私自身を守ってください、また神様の家族を、教会を守ってください、愛せるようにしてください、共同体にいて最後まで愛したイエスのように、悔い改めのチャンスを与えれるようにしてください、と祈りました、人なら、痛い目にあってしまえ、となります。②イスカリオテのユダが、お金を預かっていたことから、信用される人であり、有能な人であった、ことが分かります。神様のミニストリーの真ん中で、誘惑があります、サタンのマニュピレートがあります、主の栄光といいながら、自分の評価されること、栄光、ポジションを求めます。真理に嘘を混ぜるのが、サタンは得意技です。霊的な戦いがあります。サタンの支配でなくて、主イエスに従う、主イエスご自身にとどめれるよう祈ります。心の戦い、主にゆだね、主に賛美します。主イエスの愛に従います。今日も、日ごとに悔い改めます。
 

ジュビリー教会 牧師 北野実 私にかけて約束は変わらない ローマ9章6-18節)北野実牧師



6. しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、7. アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」の
だからです。8. すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。9. 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を産みます。」10. このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。11. その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、  12.「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。13.「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。14. それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。15. 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。16. したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。17. 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。18.こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。   <ローマ人への手紙9:6-18>

Monday, February 23, 2015

仕える祝福をくださったイエス(ヨハネの福音書13;12-20)

仕える祝福をくださったイエス(ヨハネの福音書13;12-20)多くの人々は、世の中は仕えることが損だと思います・自分がUPしていく人生を願います。また、仕えるとしても見返りを帰ってくる人にします。また、何かをしてもらったら、返したり、それに縛られたりします。しかし、主イエスはそうでありませんでした。主イエスの人生はUPでなくて、DOWNでした。主イエスは、仕える必要の無い神様であり、師であり、先生であったにもかかわらず、弟子たちの足を洗ってくださいました。それは、15節:模範を示し、14節:あなたがたも互いに足を洗い合うためでした。主イエスは仕えることを教え、①自ら実践させました。人に言うだけでなく自らの人生の中で実践されました、地上に神様の子が人の事となられただけで、低く、仕えることなのに、最後の時に愛して、更に使えました。そこまでしくなくても、を乗り越えて使えられました。②そして、もう一つ大事なことは、「仕えるように」と私たちに使役(させる)ことをしてくださったのです、勧め、命令されました。これは、大事なことです、それは、『仕えることが私たちにとって祝福』だからです。多くの人々は、仕えることを損するように、ボランティアすることを自分の時間が取られる、と考えがちです。でも、そこにお金で買えない大事なものがあります。本当に大事なものはお金で買えないものです。主イエスは、なぜ弟子たちに(イスカリオテのユダも含めて)使えたのでしょうか?その理由は愛です。愛しかありません!弟子たちの条件は何でしょうか?人格でも、優秀さでも、もしくは宗教的な献金でもなく、メシアなるイエスを受け入れることです。神様を信じ、受け入れることです、私は恵みの必要な人であることを認めることです。私たちは、主イエスにこれ異常ないくらい、卑しくなるほど仕えてくださいました、恵みを受けました、主イエスの十字架を受けました。今日、主の恵みによって弟子となって行きます。そして、少しづつ仕えていきます。
 

Monday, February 9, 2015

GraceかJUDGEMENTか?!(ヨハネの福音書9;35-41節)

GraceかJUDGEMENTか?!(ヨハネの福音書9;35-41節)目が見えなかった人は、会堂から追い出されました。それをイエス聞いたイエスは彼を探して35節『あなたは人の子を信じますか』と聞かれます、人間的に気にしたコメントよりも、人生の本質中の本質の質問です、究極的な質問です。また、その人も反応しています!38節『主よ、私は信じます』信仰の告白、神のために、真理のために告白したことです。そのために、追い出されても、主の恵みがあります、救いがあります。彼は社会的な弱者であり、立場の弱い人でした『聖書に』座ってものごいをした9;8とあります。逆に宗教的な指導者、社会的な指導者たちが、イエスを拒否し、自分たちは何かを知っている、立場を持っている人々が、かえってイエスを拒否し、迫害し、神様の働きを止めます。そして、自分たちが霊的な目が開かれてないことを認めず、自分たちの本当の姿を認めません。その結果は、神様の裁きです、先に、謙遜な主イエスの恵み、伝道があるのに、受けれいません。今朝、思わされたことは①イエスを告白する人がいること、②人生にとって大事な質問をすること、人間的な配慮のみならず、③イエスを拒否する人がいる、ということです。今日、主イエスは誰か?尋ねていきます、イエスを伝えます。
 

一人が千人を追う教会 健康な教会4ジュビリー教会 北野実 牧師



21C健康な教会を目指して4
魂への情熱を持つ教会(一人が千人を追う)ヨシュア23;9-10、
23:9 主が、大きくて強い国々を、あなたがたの前から追い払ったので、今日まで、だれもあなたがたの前に立ちはだかることのできる者はいなかった。23:10 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

“The Lord has driven out before you great and powerful nations; to this day no one has been able to withstand you. 10 One of you routs a thousand, because the Lord your God fights for you, just as he promised. 11 So be very careful to love the Lord your God.
伝道する教会;魂の救いのために涙を持って仕える、
ローマ9;1-3、
9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
Romans 9 New International Version (NIV)
 I speak the truth in Christ—I am not lying, my conscience confirms it through the Holy Spirit— I have great sorrow and unceasing anguish in my heart. For I could wish that I myself were cursed and cut off from Christ for the sake of my people, those of my own race,
ピリピ1;12
1:12 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
12 Now I want you to know, brothers and sisters,[b] that what has happened to me has actually served to advance the gospel.
ヨハネの福音書8章24節
8:24 それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」
JOHN8;24
24 I told you that you would die in your sins; if you do not believe that I am he, you will indeed die in your sins.”
 ②宣教する教会、行く宣教師、送り出す宣教師
ピリピ1;5-7、4;15-17、
1:5 あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。1:7 私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々であり、私は、そのようなあなたがたを、心に覚えているからです
Philippians 1 New International Version (NIV) 
because of your partnership in the gospel from the first day until now, being confident of this, that he who began a good work in you will carry it on to completion until the day of Christ Jesus.
It is right for me to feel this way about all of you, since I have you in my heart and, whether I am in chains or defending and confirming the gospel, all of you share in God’s grace with me.
4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。4:18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。
Philippians 4 New International Version (NIV)
 15 Moreover, as you Philippians know, in the early days of your acquaintance with the gospel, when I set out from Macedonia, not one church shared with me in the matter of giving and receiving, except you only; 16 for even when I was in Thessalonica, you sent me aid more than once when I was in need. 17 Not that I desire your gifts; what I desire is that more be credited to your account. 18 I have received full payment and have more than enough. I am amply supplied, now that I have received from Epaphroditus the gifts you sent. They are a fragrant offering, an acceptable sacrifice, pleasing to God. 19 And my God will meet all your needs according to the riches of his glory in Christ Jesus.
20 To our God and Father be glory for ever and ever. Amen.
「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」 詩篇127篇1節
Psalm 127 New International Version (NIV)
Unless the Lord builds the house,    the builders labor in vain. Unless the Lord watches over the city,
    the guards stand watch in vain.
   

Sunday, February 8, 2015

神様のauthorityを持つ人は、大胆に証言する(ヨハネの福音書9;24-34節)

神様のauthorityを持つ人は、大胆に証言する(ヨハネの福音書9;24-34節)31節「神は罪びとの言うことはお聞きになりません。しかし、誰でも神を敬い、その御心を行うなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています」以前に目が見えなかった人が、もう一度パリサイ人たちに呼び出されて尋問(まさに、尋問ですよね)されたときに、自分が目が見えるようになった事実、その権威がどこから来るのか?!はっきりと伝えます。イエスを受け入れたものは追い出される、ということを知りつつも、いうべき真理を証言します。その反面、週休学者たちは、一人の人が癒されたのに、喜びもせず、律法の通りに妻子のところに連れてくるよりも、自分たちの人気が奪われることを恐れます。そして、人を脅迫します。目が見えるように癒された人は、神様の権威、力を認めていました。罪びとの言うことを聞かれずはずがない、そして何よりも、神様の心を行うなら、誰でも、その人の言うことを聞いてくださる、という確信を宣言しました!私たちはどうでしょうか?このような確信を宣言できるでしょうか?信じて話すことができるでしょうか?クリスチャンなのに、長く祈りが答えられない、と疑心難儀になっていないでしょうか?神様の善なる思いを見失っていないでしょうか?神様のAUTHORITYに立脚して、主の正義、真理を宣言しているでしょうか?今朝、神様の御心にかなうなら、という真理の告白を宣言していきます。主を恐れるときに、人間を恐れません。大胆に宣言します、主の私への御心は必ずなります、奇跡は起こります!アーメン!ハレルヤ!
 

Saturday, February 7, 2015

新しい命を生み出す感動があるのか?!(ヨハネの福音書9;13-23)

新しい命を生み出す感動があるのか?!(ヨハネの福音書9;13-23)14節『ところで、イエスが泥を作って彼の目を開けられたのは、安息日であった』イエスが目の見えない人を癒したことへ、ユダヤ人たちはパリサイ人の前に連れて行きました。普通なら、目が見えるようになったことをともに喜び、感謝し、主に栄光をささげるのが、普通、当たり前でないでしょうか?!宗教家の特徴は、自分の経験に当てはまらない、自分の派閥でない、自分の立場を危うくすること、徹底に裁く、排除します。それどころか、相手を攻撃します。そこには、感動がありません。救われた人への愛、喜びがありません、そこには、平安がありません、恐れが自分にも、相手にも与えます。逆に、イエスは平安を与え、勇気を与えます。なぜなら、命を捨てて、十字架にかかるために、その人生をかけて、地上に来られたイエス、その愛を与えるために、自分の子であるイエスを送られた愛、を知るときに、感動する時に、大胆な信仰の告白をするようになります。不信の雲を吹き飛ばしていきます。はたして、Q:私は宗教的な、馴れ合い、自分に合う人とだけど、合うことだけしていないでしょうか?新しい命を生み出す感動に共に参加し、ともに使えようとしているでしょうか?キリストにある自由、大胆さを持って歩んでいきます。
 

Friday, February 6, 2015

霊的な目を開いてください(ヨハネの福音書9;1-12)

霊的な目を開いてください(ヨハネの福音書9;1-12)3節「イエスは答えられた、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』人々は、今までの宗教生活、律法、経験から、この人が何か罪を犯したのか?両親かと、イエスに尋ねました。私たちは、信仰生活が長いと、もしくは(宗教生活:ちょっとイヤですね~)が長いと、自分の経験、先輩、してきた生活から、これはこうだ、と決め付けたり、新しいミニストリーになれない、ことがないでしょうか?あげくのはてに、批判したり、非難したりして、神様の新しいみわざを見れないことがないでは、と思います。今日、神様の語られることをミスする、霊的なBLINDになってしまうことがないでしょうか?イエスは、神様のわざが現れることを言われました。①神様のわざがこの人を通して現れる、ことを事件を見る霊的な目を与えてください。②毎日、神様の新しいわざが起こるのに、今までの慣れ来てしまったことで、神様の毎日のみ言葉を受けれない、ことがないようにしたい、と思います。朝ごとに来る神様の恵みを求めていきます。③神様がイエスを遣わされた(今日のKEY WORDですね、遣わされた、ということ!)信じて、イエスを持って知って生きたい、と思います。④神様のタイミングがあります、その時に従う、動くことができるように祈ります。2015年になされる神様の働きに、反応できるように、そういう私であるように、祈り、従っていきます。主の語られることに敏感であるように、祈ります、今日も主イエスを賛美します。
 

Thursday, February 5, 2015

神様に出会うと(ヨハネの福音書8章48ー59節)

神様に出会うと(ヨハネの福音書8章48ー59節)54節「イエスは答えられた。私がもし自分自身に栄光を帰すなら、わたしの栄光はむなしいものです。私に栄光を与える方は、私の父です~」神様に出会った人は、①自分の栄光を求めません、なんとイエス様でさえそうだったのです!ありえない謙遜です!神様の子なのに、自分に栄光でなくて、与えてくださる神様に期待します。私はどうでしょうか?もう一度、主の栄光だけを求めて生きます。また、55節『~しかし、私はこの方を知っており、そのみ言葉を守っています」②イエスは神様の言葉に従いました。神様に出会う人は、そのみことばにOBEYします。主に従う自由、祝福を知っています。主に従うときに、永遠のいのちを得ることを知ります。それは、人生の中で一番重要なことでないでしょうか?永遠のいのちをえる、得ない、いかに成功しても、失敗しても永遠のいのちを失うなら、これ以上につらいことは無いのでないでしょうか。主のみ言葉に従う人には自由があります。それをイエスは、③謙遜に使いました、自分の栄光や、力を楽しむために使いませんでした。神様の子が地...上に来られたこと自体が謙遜です。ただ、イエスは神様のことである、宣言すればいいのに、それで終わりで良いのに、謙遜に使え、イエスを、神様を受け入れない人々に伝え続けました。神様は議論の対象でないのに、人間を尊重し、愛して仕えてくれました。→私はどうでしょうか?愛して、使えているイエスの謙遜に習った人生を歩んでいるでしょうか?地に来られたイエスを賛美します、その謙遜に習っていきます。自らしなくても良いのに、更に仕える主イエスの愛に感謝します。また、もう一つ学ぶことは、④イエスが卑しめられた、ことです。そのような扱いを受ける神様の子でないのに、歓迎されるべき方なのに、愛のゆえに、神様の使命のために卑しめられたのです、誰しも、卑しめられることを喜びませんし、そうなりたくもないし、ありえないことです。私なら(私たちなら)どうでしょうか?⑤アブラハムは、これから来られるイエスを見て喜びました、神様を喜びます、その救いの計画に世rこびます。神様に出会った人はこのように変えられます。今日、神様に出会う恵みを適用して歩んでいきます。(写真はやはりPENNの博物館にて)
 

Wednesday, February 4, 2015

イエスの言葉を握る人が自由を体験する(ヨハネの福音書8;31-47)

イエスの言葉を握る人が自由を体験する(ヨハネの福音書8;31-47)31節「もしあなたがたが、私の言葉に留まるなら、あなたはわたしの弟子です」32節「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」どうして、私たちは自分の弱さに縛られるのでしょう、自分に固執するのでしょう、自分の経験に、自分のプライドに縛られて自由になれないのでしょう。それは、イエスの真理の中に留まらないからです。神様のみ言葉に生きないからです。どうして、ユダヤ人たちは旧約聖書を持っていながら、メシアなるイエスが預言どおりに現れて生きられて、神様の愛を示されたのに、神様が人として生きてくださったのに、神様の証言をしてくださったのに、受け入れなかったのでしょう。彼らはアブラハムの子孫であり、自由と言いますが、アブラハムの子孫である遺産は信仰の遺産です。信仰によって義とされる、行いでなくて恵みによる救いです。それは、神様の愛を分かち合う人生で、世界中に伝えていく役割をしていくことです。ところが、律法と自分たちのポジションにこだわり、自分のプライドにあるために、固執のために、神様の救いを受けることができませんでした。と言うより拒否したのです。今日にリビングライフの解説に、イエスといつも交わり、語り、行動することを弟子の道と言います、とありました。自分でなくて、イエスの真理が私のうちに留まるなら、イエスの真理を知れば知るほど、自由になる、み言葉を(聖書)とどめる祝福を経験していきます。