Tuesday, April 29, 2014

神様の下さるチャンスの中で愛する

神様の下さるチャンスの中で愛する(今日のQT;ガラテヤ5章13-26節)「兄弟たち、あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛を持って互いに仕えなさい」今日のQTの適用は(適用は個人的なのものです)神様の下さったチャンス、その時に、今日と言う日に「愛すること」を選ぶことでした。律法の全ては「あなたがたの隣人を自分自身のように愛する」ことで完成されます。今日、示された人々に小さい適用をしました。神様、私が会う人、連絡する人、お願いする人、交わりする人、共に仕える人に愛します、主よ用いてください。

Friday, April 25, 2014

その気持ち分かる(ガラテヤ4;12-20)

きょうのQT :その気持ち分かる(ガラテヤ4;12-20)私の子供たちよ、あなたがたのうちにキリストが形作られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。パウロたちは、最初にガラテヤの人々に福音を語ったときに人々から愛され、尊敬されました。しかし、異端教師、偽教師が入ってきた時に「パウロの使徒性」は疑われ、権威は落ちました。その中で正しい福音(一つしかないですけど)を伝えつつ、偽教師や異端教師のことを言わずに入れませんでした。それは、人間関係の問題を招きました。彼が異端教師や偽教師について語るときに、ガラテヤ教会の人々が「なぜ、あんな良い人~とか批判するのか?」という問題があったようです。これは、まさに現在の教会、牧会現場で起こりそうなことです。おかしい人、異端教師を正すために、自分が敵対関係を愛する教会の人々から思われてつらい、苦しい、自分は正しいことを伝えたのに、真理を伝えたのに、誤解され、私たちが良い人と思っている人を批判するあなたは何だ!と言われる、誤解されることがおこったりします。難しいですね、今朝、QTしならまるでパウロの気持ち、エモーションが感じられるようでした。まるで、自分の中にある気持ちが「分かる、どうして私の気持ちがわかるの?悩みが分かるの?」という感じがしました。今朝、その葛藤へのKEYは「キリストが形作られるまで」産みの苦しみをするです。今日、教会の上に産みの苦しみを、キリストが形作られるまでします

Thursday, April 24, 2014

神様の子として祝福を使え

今日のQT:神様の子として祝福を使え(ガラテヤ4;1-11)ですから、あなたはもはや奴隷でなく、子です。子なら神による相続人です。聖霊により、私たちは「アバ、父と」呼べる祝福、神様の子供になりました。相続人になりました。今朝、「アバ、父よ」と言って今までぴんと来なかったのですが、祈ってみたら「暖かい気持ち」になりました。父って、暖かい、愛する親です。しかし、自分の力では遠い方だったのです。今朝、聖霊さまにより「お父さん」と呼びます。次にしてみたのは、神様の子供として、相続人として神様の権勢を用いることです。それは、自由に生きる、愛すること、人を赦すことです。もはや、奴隷としてでなくて(罪や、自分弱さ、わがままなど~)でなく、神様の子供として愛します、自由に行きます。

Wednesday, April 23, 2014

律法って何だ!(

今日のQT:律法って何だ!(ガラテヤ3;19-29)24節「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」パウロが信仰によって救われること、律法(行い)でないことを強調して伝える中で、「律法って何だろう?」気になってレビ記を見ました。律法の最初は神様へのいけにえです、生き方の細かい基準から始まるのでなくて、罪のいけにえ、代わりのささげ物、礼拝から(神様との出会い)を開くことから始まります、すると、律法は自分の力じゃ神様の前に出れないこと、イエス・キリストの十字架に頼るしかないことを認めさせます、その信仰は神様の愛へ感謝、賛美、信頼になります。律法はキリストへ導く養育係となったのです。教科書的な、これをしないと駄目だ、で終わるのでなくて、イエス・キリストという答えへ導いてくださいました。その結果は、神様のものと私はなったのです、何の差別もなく、偏見もなく、自由に。今日、イエス・キリストのものとされた事を感謝して歩みます。私は神様のものです。

Tuesday, April 22, 2014

義人は信仰によって生きる

義人は信仰によって生きる(今日のQT:ガラテヤ3;10-18)11節。今日の朝のみ言葉はこれでした「義人は信仰によって生きる」しかも、今日の聖書通読が(少し遅れています)ヘブル10;38で、同じ「義人は信仰によって生きる」でした、最初から最後まで、その途中もイエス・キリストの十字架を信じる人生を生きます、途中で寄り道しないで、行いでなくて、律法でなくて、キリストの十字架によって義人とされた、信仰で歩みます。教会の奉仕、人生、信仰によって導いてください、主よ。

Monday, April 21, 2014

信仰によって完成することを伝えよ!(

きょうのQT  :ガラテヤ3;1-9)「ああ、おろかなガラテヤ人、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、誰があなたを迷わせたのですか」使徒パウロは「おろかなガラテヤ人」と言います。普通、人に向かっておろかな、と言わないでしょう。本気でないと言えない言葉です、しかも手紙ですから、記録に残ります。何がおろかなのでしょうか?それは、十字架にかかったイエス・キリストをあんなにはっきり示されたのに、行いによって、肉によって、律法によって、自分が完成される、と勘違いしたからです。信仰を迷ったからです。それにしても、こんなことを言わないことを言います、それは、ひとえにイエス・キリストの救いが信仰によること、なされたのは神様であり、私たちは信仰で受け取っただけ、御霊を受け取ったのは、神様からのギフトだからです。そのことを伝え、教えることに恐れがなく、異端が入ることには、容赦なく伝えました。今朝の適用は(個人的ですから、他の人にあたることでありません)イエス・キリストの十字架を、信仰を勇気もって伝え、教え、指導せよ、ということです。人の目や、関係を人間的に考えすぎずに、まっすぐにイエスの十字架を伝えていきます。

Saturday, April 19, 2014

あざけったのは私だ

受難週のQT:あざけったのは私だ(マタイの福音書27章35-40節)マタイの福音書40節「言った。神殿を打ち壊して三日で建てる人よ、もし、神の子なら、自分を救って見よ、十字架から降りて来い。」イエス・キリストは十字架にかかってあざけられ、ののしられました。イエスは降りて、人々をさば行くこともできるのに、苦難を受けられました。何より私たちを愛して。しかし、嘲っている人々は本当に自分が何をしているのか分からなかったのです。この姿を見て、なんて人だと思いません、それは、かって自分がイエスを知らずに、認めずに生きた姿です。神様のことを認めずに、その命がけの愛を受けずに生きた姿です。イエスをののしった自分の姿、集団になったら(個人じゃ出来ないのに)ののしり、イエスを十字架に変える行動、そして宗教人は旧約聖書持っていても約束のメシアと認めず、神様の言葉にしたがわない、人生です。神様、今日私を赦してください。これらの姿一つ一つが私の中に少しずつあります、受難週の中で私のために十字架で捨てられてイエスの血潮で赦し、愛し(それをいえるのはすごい)てください。

Thursday, April 17, 2014

今日を生きる(ルカの福音書)23章23-43節、福沢満雄先生


金ソンシック牧師:ルカの福音書17章5-10節


私 ラハーム(李ジュンホ宣教師夫妻)ジュビリー教会賛美礼拝3月9日


わが魂の羊飼い ジュビリー賛美礼拝 3月9日 李ジュンホ宣教師ご夫妻


するべきことをしない人は恐れる

受難週QT:(ヨハネの福音書19;1--16節)イエスへの不法裁判が続きます、現世に生きる宗教人たちは「律法によると死刑だ」(7節)言い、またピラトの権威、プライドを刺激するためには、12節「この人を釈放するならあなたはカイザルの味方でありません」とひらりひらりと自分の立場を変えます。そして、ピラトもイエス鞭打ち、ローマの兵隊に嘲らせながらも、釈放しようとしません。自分で釈放し、決定する権威も、立場もあるのにです。ユダヤ人が無実のイエスを渡したこと知っていてもです。正しいことを知りつつも、いわないといけないこと、すべきことを知りつつ、ユダヤ人の勢力を恐れたのです。ところが、ここに恐れない人が一人いました。イエスです、鞭打たれて既に死を恐れて、「あわれんでくれ、助けてくれ」と人間なら言うはずのイエスは違いました。自分が自ら十字架の苦難を選ばれたのです。ピラトに妥協なぞ全くなさりませんでした。それは、神様の心に完全に従った権威から来るものでした。十字架にかかるイエスと総督ピラトとまったく立場が違ったものを感じます。今日、神様の御心にしたがって生きます。また、教会が神様のみ言葉に集中して、中心に生きるよう仕えます。

Wednesday, April 16, 2014

適当に接する人と真理のイエス

今日の受難週QT:(ヨハネの福音書18章28-40節)、38節「ピラトは言った、真理とは何ですか。彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。私はあの人に罪を認めません」ピラトは、大祭司にイエスを渡されて尋問します。そのときのイエスの答えがすごいです。「あなたは自分でそのことを言っているのですか?それとも、他の人が、あなたに私のことを話したのですか」不法や暗闇の中にあっても、イエスのように堂々と、正しく、また操縦されることなく答えることできるでしょうか。祭司たち、律法学者たちは不法の秘密裁判を夜通しでしながら(律法でも決められていないことです)、過ぎ越しの食事が食べれるように「汚れない」ようにしようとしました、まさに、宗教の衣を着た形だけの、矛盾した宗教人の姿です。私たちにこのような姿はないでしょうか?また、ピラトの態度は「知っていても、真理を聞かないフリ、分からないフリ」をする、形だけの、適当な態度を感じました、こんな人が裁判官なら大変です。イエスでなければ大変だったでしょう。彼はイエスの真実を、無実を知りつつも、裁判官として無実を宣言せずに、ユダヤ人に妥協する方法をとったのです。真理が見せられても、語られても、適当に扱う人の態度、人生がここにあられています。今日、私に適用することは何でしょうか?イエスのように(難しいけど)適当に、いい加減に扱う人の前でも真理を、正しくたっていうことをしたい、と思います。導いてください、祈ります。

Monday, April 14, 2014

暗闇に恐れる人と神様の明るさにたつひと

受難週QT:暗闇と明るみ(ヨハネの福音書18章1-14節)6節「イエスが彼らにそれは、私です。と言われた時、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた」こっけいな風景がおこります。イエス・キリストを捕まえるために兵士の一隊と武器を持ってきたのに、役人を連れてきて(祭司長と律法学者の送った、彼らは後ろにいました)世の中の権威、恐れを持って、脅迫するはずの彼らが「今から受難を受ける、十字架にかかることをしっていたイエス」に、畏れてあとずさりし、地に倒れることがおこるのです。何ということでしょう。いかに世の中の力、人を脅して、武力で倒そうとしても、暗闇の力はイエスの光に勝てません。どれほど、私たちは普段人の力を恐れることでしょう。しかし、イエスは受難、十字架を待っていることを知っていても、恐れがありませんでした。それは、神様の心に従う明るみがあるからです。今日、主イエスの心に従う明るさを持って暗闇に勝利します。私の心の中に暗闇を除き、きよめてください。

Sunday, April 13, 2014

勇気ある男

今日のQT;(ガラテヤ2章11-21節)「しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは自分がユダヤ人のように生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活を強いるのですか?」」パウロは、ペテロたちがユダヤ人の目を気にして異邦人と食事をしないようになったのを見て、「みなの面前」で抗議しました。人の目を気にしていたらできないこと、人の権威、使徒の権威、ペテロとの関係を気にしたら言えないことです。普通言わないことでしょう。しかし、福音にしたがって生きるなら、勇気を持って言わないといけないことです。なぜなら、知るべきを知っていながらお行わないこと、言わないことも罪だからです。私は人を気にして言わないことがあります。愛のないことです。パウロが言わなかったら、どれほど異邦人教会の人々が傷つき、間違った教えをする人々を暗躍させたでしょう。今日、福音をもって立ち上がります。主の愛で伝え、話します。

本質に集中すると小さいことに足をとられない

今日のQT:(ガラテヤ2;1-10)6節「神はわけへだてをなさいません」7節「ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました」パウロはイエスの福音だけが救いを与え、信じるだけで救われることを話します。また、彼が神様の任命により、イエスの啓示により使徒とされた事を証します。本質的な福音だけを握る人は小さいことや、いらないことに惑わされません。伝統や偏見に縛れません。なぜなら、神様の心だけを見ようとするからです。自分の枠に当てはまらない人や、働き人をみて、人は裁きやすいものです。しかし、それは不必要なことに時間を注ぎます。思わぬことに足をとられます、福音に集中できない人はほかの事で自分を守り、自分の権威を主張します、それは無駄なことです。今日、神様の本質に集中して歩みます。今日の恵み、他の教会の働き、いろんな違うことへ裁くことなく、使えることが出来ました。それは、神様の恵みです、私を十字架の愛だけで救ってくださった方を賛美します。

Friday, April 11, 2014

福音だけが人を変える

今日のQT:神様の福音だけが人を変える(ガラテヤ1;11-24)11節「兄弟たち、私はあなた方に知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものでありません」23節「けれども、以前私たちを迫害した者が、その時に滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と~使徒パウロは福音を人間的なところから受けたのでなく、神様からの直接啓示で受けました。使徒からでなく、自分の過去はユダヤ教に熱心なために、誤解から福音を、教会を迫害しました。その中で、イエス・キリストの啓示を受けたので、TOTALEY CHANGEしたのです。。初代教会の一部の人々は誤解する人もいましたが、何よりも①イエス・キリストの直接の啓示、召し、②彼の変えれた人生がイエスの福音を証ししていました。今日、イエス・キリストの福音によって変えられ、伝える人生にしてください、宣べ伝える人生にしてください。

恵みと平安が私をかえる

今日のQT:ガラテヤ1章1-10節、3節「どうか、私たちの父なる神様と主イエス。キリストから恵みと平安があなた方の上にありますように」恵みとは何でしょう?キリストの下さるGIFT,救いです、救いの人生です。平安とは何でしょうか?神様との関係が祝福されて、人との関係が回復して、状況に関係なく喜び、幸福でいる祝福です。しかし、それは主イエスが十字架で死ぬことにより与えられた恵みです。神様の心に従い、私のために命を捨てられたイエスの故にです。だから、私の人生は変えられるのです。私の仕える教会は変えられていくのです。人の力でなくて、神様によってなされたことだからです。今日、神様の恵みにより私を、教会を作り変えてください。

Wednesday, April 9, 2014

ローマ人の手紙8章1-2節 PASTOR Minoru Kitanoジュビリー教会(南カリフォルニア州トーランス)

ローマ人の手紙8章1-2節 PASTOR Minoru Kitanoジュビリー教会(南カリフォルニア州トーランス)
 http://youtu.be/uG61r82qG6g

torrance jubilee ch OF sermon ローマ8章3-8節:キリストが私の中でいき生きる

 http://youtu.be/TtMyEHtU7UA
 http://www.youtube.com/watch?v=FVL7zi8060o&feature=youtu.be ローマ人の手紙7章14節ー25節:北野実牧師 JUBILEE CH(LAカウンティ)

使命にチャレンジをする人を勇士と呼ぶ

今日のQT:(第一サムエル31;1-13節)12節勇士たちはみな立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをべテ・シャンに城壁から取り外し、これをヤベシュに運んで、」サウル王は、主なる神様に従わなかった結果、みじめね敗北と死を迎えました。しかし、そのペリシテ人による辱めの死をみて、「夜通し歩いて行って」サウル王の死体と息子の死体をはずした勇士たちがいました。他のイスラエルの人々が出来なかったこと、恐れの中できなかったことでした、今朝、①私たちの教会に、信仰の勇士を与えてください。賛美の勇士を、奉仕の勇士を、礼拝する勇士を、キリストのしもべを、②何よりも自分を信仰の勇士としてください。単に強いから勇士なのでないのです。強い人は他にもいたはずです。神様の使命を持った人が、行う、立ち上がる人が、そのためにいてもたってもいられなくて、夜通しでも歩く人たちです。そこに計算は張り込む余地がありません。神様、今日の主の心を行う、勇士にしてください。神様の御名が辱められることがないように、そのためにいてもたってられない、立ち上がり、礼拝をささげる、栄光を人生もってささげる勇士にしてください。

Tuesday, April 8, 2014

神の国は愛を分かちあるところにできる!

今日のQT(第一サムエル30;12-31)23節「ダビデが言った。兄弟たち、主が私たちに与えてくださった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ」アマレクの略奪隊から奪った分捕り物を疲れて、戦いに同行できなかった200人に渡すべきでない、と一部のよこしまな、意地の悪い人が言った時にダビデがこういいました、「兄弟たち」意地の悪い人々を兄弟と呼びました。、また、「主が賜ったものを」と言いました、そうです、この勝利ははるかに強く、人数も多かっただろうアマレクに神様が下さった勝利なのです。戦いに行く前は、ダビデを逆恨みし、スケープゴートにし、それでも多々かに勝利したか、と思ったらこれです。しかし、ダビデは「神様の国の生き方が何か」チームワーク、リーダーシップを宣言します。神様の国は何でしょうか?私のものは神様の下さったもの、私は神のもの、という所有権の移転です。その中で、分かちあう祝福があります。さらに、ダビデは26節「友人であるユダの長老たちに分捕り物のいくらかを送っていった。」更に分かち合いました、神様の国は主を認め、その愛を分かち合うところにあります。今日、主の愛を分かちあうために時間を用い、使っていきます。私は主のものです。 

Monday, April 7, 2014

彼の神によって奮い立て!(

今日のQT;第一サムエル30章1-20節)6節「ダビデは非常に悩んだ、民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った」ダビデと部下たちは自分の故国、国民であるイスラエルと戦わずに住んで戻ってきました。しかし、彼らを待っていたのはアマレク人の略奪によって、自分たちの財産、家族、妻、娘、息子が奪われた、という現実でした。誰もが悲しみに沈む中、理由のない怒り、逆恨みがダビデに向けられました、ダビデも妻が奪い去れたのに、です。私たちはこの逆恨み、自分の問題、人にぶつけることに気をつけないといけません。ダビデは違いました、何故でしょう?彼の神によって奮い立ったからです。彼のです!私のです。彼の神、私の神です。この絶望的な状況にプラスして味方、部下からの逆恨み、に「彼の」神によって奮い立ちました。今日、私の神によって、私の状況に働かれる神様を信じて、奇跡に出て行きます。もし、ダビデが奮い立たなかったら「アマレク」に勝利する奇跡も起こりませんでした。今日、人のでなく、神様に奇跡へ出て行きます。私の神によって奮い立ちます。

Sunday, April 6, 2014

いかに真面目でも最終的には神様だ

今日のQT 第一サムエル「ダビデは」ダビデはペリシテ人の領主アキシュと共に出陣しましたが、周りのペリシテ人領主から警戒され、イスラエルと戦うことはありませんでした。もう少しで、イスラエルとサウル王と戦うところだったのです。人間的に避けてきたペリシテの領土、しかし、そこで彼は非常に難しいところに出会いました。神様はその中でも、正しい人と見られていたダビデの窮状を救ってくださいます。人間的に、いかにすばらしくても、立派に努力しても、最終的には神様です。神様の力なしに歩めません。知らないうちに、救われてきたことがどれほどあるでしょうか?今日、神様の一方的な救い、恵みの計画を信じて、礼拝をささげ、教会に仕えていきます。

Saturday, April 5, 2014

関係以上におこらないこと

(第一サムエル28章18節)「あなたは主の御声に従わず、燃える御怒りをもってアマレクを罰しなかったからだ。それゆえ、主はきょう、このことをあなたにされたのだ」サウル王は迷って、困って、霊媒師にサムエルを呼び出させました。しかし、「なぜ、煩わせるのか?」ということと、主の御声に聞き従わず、と言われました。サウルは困ったから、自分の権威が危ないから、王として難しいから、神様に尋ねようとしましたが、「悔い改め」をしませんでした。もしかしたら、神様が哀れんでくださるかもしれないのに(わかりませんが、私たちが赦されることは本当に神様の一方的な哀れみですよね)、そうでなくても、悔い改めるのが当たり前なのにしようとしませんでした。神様が何度も悔い改めのチャンスを与えてくださったのにしませんでした。そして、神様が答え下さらない時にも、身を低くして、悔い改めることをしませんでした。神様の関係を回復するのは、悔い改めです。最後まで、神様の心を心とせずに、神様の嫌がること、をサウルはしました。王として一度は追いだいしたことなのに、苦しくなるとしてしまったのです。今日、主の前に悔い改めます、ゆるさないこと、むかつくこと、主の愛で私が赦されたように、ゆるしを宣言します。

Friday, April 4, 2014

今日のQT;恐ろしいのは神様の声を聞けないこところまで行ったとき

(第一サムエル28章6節)「それで、サウルは主に伺ったが、主が夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかったので」サウル王はダビデを赦さずに、自分の罪を悔い改めずにいました。そして、自分が神様に従わなかったことを悔い改めずに、いました。そして、ぺリシテ人が攻めてきて、恐れて神様にあわてて聞きました。しかし、神様は答えてくださいませんでした。今まで、悔い改めのチャンスや、神様に従うチャンスがあったのに、ダビデを殺そうと時間を過ごしました。私たちもないでしょうか?神様の声を普段聞けるのに、機構とせず、大変な時になってあわてて聞こうとする、ようなことが。サウル王は神様の裁きの最後のところまで言ってしまってから尋ねることになりました。私も気をつけないとお思い増した。神様が答えてくださらないのは、理由があります。しかし、だからと言って悪いことして、霊媒師、占いのところにいくのは全くいけないことです。一番怖いのは、神様の声が聞けないこと、もっとこわいのは神様が答えないところ、最後まで(そんなにするのなら、好きにしなさい、ほっておくよ)というところまで罪を犯し、悔い改めず言ってしまった時です。サウルは最後まで「恐れ」をもちます、それは人間的な恐れです。神様を畏れる事でありませんでした。今日、主を畏れて、神様の愛の中に歩みます。

Thursday, April 3, 2014

(やり方に気をつけよ)

今日のQT第一サムエル27章10節「アキシュが、今日はどこを襲ったのか?と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた」11節~「ダビデはいつもこのようなやり方をしていた」神様を同じように信じても、違いが出る部分はどのようにするのか?方法、CHIOCE、人の付き合い、マナー、真摯さ、人格の部分です。今日の聖書箇所はダビデが神様に聞いた、という部分が出てきません。知恵を持ってサウル王から逃れました、間違ってはいません。また、ペリシテ人の王様(領主)にユダを襲った、と適当なことを言います。間違っていないかもしれません、でも、時々、同じように神様信じていても、違ってくるのは何故でしょう?主を信じているのに、人格につまずくのは何故でしょうか?まさに、やりかた、どのようにするのか?の部分です。今日、私の方法、付き合い、やり方をシュに求めて祈ってスタートします。聖霊様、導いてください。み言葉により

Wednesday, April 2, 2014

今日も明日も変わらないダビデ、そしてサウルは?(

今日のQT)第一サムエル26章23節「主は、おのおの、その人の正しさと真実さに報いてくださいます。主は今日、あなたを私の手に渡されましたが、私は主に油注がれた方に、この手を下したくありませんでした」今日も、サウルは救われて「悪かった、」と謝罪します。しかし、サウルの中に真実さがありません。それは、人への真実さだけでなくて、何よりも神様の前に真実さがないことです。またサウルはダビデを狙うかもしれない、いやまたやりそう、です。こういうときにどうしたら良いのでしょう。ダビデは、今日も明日も赦します。またやるかもしれないのに、変わらないかもしれないのに。ダビデは今日も、自分の潔癖さをあかしし、そこに行き続けます。相手がどうであれ。どうしてそうできるのでしょう?それは、神様の真実さうぃ信じて生きることです。今日、イエスの許しを宣言していきます。今日も、弱い、不真実な(しかし、神様、あなたは真実です)私を助けてください。

神のルールに生きる人は恐れる対象が違う

(第一サムエル26章9節)「しかし、ダビデはアアビシャイに言った。殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、誰が無罪でいられよう」ダビデは、主を恐れます。神様の権威を恐れます、権威に従います。神様の国のールールで生きます。決して、自分の敵に復讐しません。サウルは、ダビデが600人しかいないのに(しかも、不平や不満のある人々だった)、イスラエルの精鋭3000をつれてダビデの命を狙います。どちらが、恐れているのでしょうか?本当に恐れるのは、罪の連鎖、復讐はしたら終わりでありません。次の復讐が私に来ます。何よりも、神様のゆるし、愛に反します。これは、難しいことです。以前に3人の王(ジーン・ゲッツ:ハングルで読みました)という信仰の本を読みました。それは、サウル、ダビデ、アブシャロムという3人でした。神様の復讐、ゆるしの訓練をとおして、ダビデがダビデであれた、永遠の王座の祝福を得たメッセージの本でした、今でも、自分にとって大事な本です。私は人を恐れるのでしょうか?神様を恐れるのでしょうか?ゆるしをすること、自由、永遠の祝福へのゆるしの訓練を願うのでしょうか、それとも、目の前の怒りに縛られて生涯の祝福、働きの祝福を縛られることを拒むのでしょうか。今日、もう一度、いや今日も主の赦し、愛、罪からの鎖からの自由を宣言し、祈ります。