Saturday, May 31, 2014

主権は神様にあり

今日のQT;主権は神様にあり(第二サムエル15章24-37節)ダビデ王は25節「神の箱を町に戻しなさい、もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻し、神の箱とその住まいを見せてくださろう」j人は自分の築いた権威や、場所、に弱いものです。ましてや、失うことに大きな痛み、また固執があるはずです。しかし、ダビデはもっておきたい神様の箱を利用することはありません。それさえあれば、大きな有利になるのに、後々の列王はそうでした。サウル王もそうでいしたが、決して神様を利用するような、ましてや、侮るようなことはしませんでした。私たちはどうでしょうか?ダビデはこの神様の箱を送ったあとに「神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時に、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た」(32節)とあります。ダビデはこのとき驚くほど冷静に、彼を連れて行かずに戦う方法を授けます。主権が神様にあるときに、チャンスが来ます。まことの神様を礼拝する人に神様のチャンスが来ます。逃してはいけません。今日、主権を認め、奉仕し、伝道します。

Friday, May 30, 2014

忠実と愛を持ってともに生きる共同体

今日のQT:忠実と愛を持ってともに生きる共同体:神様のみ言葉(第二サムエル15;13-23)今日はダビデがイスラエルの人々の心がアブシャロムの謀反になびいて、「逃げる」とすぐに決めるところからです。自分の持っていた権力、人々、生活、すべてを失いかけ、苦しい中で、自分の持っていたものに固執しません。これって、難しいことでないでしょうか?失う時に人は恐れ、傷つきます。アブシャロムからの逃避行の中でガテ人(外国、ペリシテですよね?)イタイがついてこようとします。そこで、ダビデはあなたは「昨日来たのだから、めぐみとまことがありますように。」と送り出そうとします。しかし、イタイは「生きるためでも、死ぬためでも、しもべは必ずそこにいます」22節、と言います。どれほど、嬉しい感謝な真実な部下、友、家族でしょうか?今日、①私が主にある忠誠な友になります、②こんな友人、家族、部下を持っているでしょうか?、③そのような苦しみも自ら共にする共同体を主に会ってつくっていきます。

Thursday, May 29, 2014

ダビデとして生きるのか?アブシャロムになってしまって生きるのか?

今日のQT(第二サムエル15章1-12節)ダビデとして生きるのか?アブシャロムになってしまって生きるのか?アブシャロムは狡猾に、準備深く、イスラエルの人々の心を(特に不満という部分につけこんで)盗みます。不平不満あるひとに、不平を受えつけて(それは、アブシャロムの心の中にある王様への不平、不満でした、妹への被害、アムノンへの裁きをしないこと)、それを伝染させたのです。そして、ヘブロンに行って(ダビデが王になったところです)何も知らない人々を連れて行った根深い謀反を起こしたのです。聖書は「この謀反」12節と言っています。なぜ、ダビデは謀反でなくて、アブシャロムは謀反であるのでしょうか?それは、究極的には神様を恐れた人生を歩んだダビデは決して人を裁いたり、復讐の鬼なったり、神様の立てられた方、上の権威を認めて、自分が損しようと、被害を受けようと逃げて、復讐して罪を犯そうとしなかったことです。アブシャロムは違いました「ヘブロンに行くこと」を9節「私は主に仕えます」と誓約した、と神様のことを、利用したのです、これは、神様への恐れがないことです。人は神様のことを使うならだまされます。しかし、神様はだまされる方、侮られる方ではありません。アブシャロムにとって傷や、不平不満が彼の主人になりました、彼の力の原動力になりました。しかし、本当の主人はイエスだけです、傷に支配された人生、不平や不満に支配された人生は、本当の祝福でありません。まして、神様のことを利用するのは絶対にいけないことであり、後で大変なことになります。神様を恐れないといけません、今日、主を恐れ、不平や不満、そこからくる怒りを主人としません、主イエスからいただく愛で愛します、悪に善で打ち勝ちます、また、聖書を、神様を利用しません、まただまされないよう歩みます。

Wednesday, May 28, 2014

外面は美しいけど、内面には問題がいっぱい!

きょうのQT (第二サムエル14;25-33)外面は美しいけど、内面には問題がいっぱい!アブシャロムはイスラエルのどこにも、その美しさをほめされたものはいない(25節)人でした。しかし、彼の内面はエルサレムにヨアブの計略で(復帰を喜んでいるのでなくて、自分が王様の心を知っている、王様から認められた、という思い、)戻ってきて、ダビデ王に会えないと①自分の境遇に不平不満でいっぱいでした、②そこには、自分の傷の癒しは無く、③犯した罪(それでもアムノンを殺したのですから)への悔い改めは無く、④当然、回復も無い、⑤実は赦されなくてもおかしくないのに、そこで罪の悔い改めや回復を準備して善いのに(世の中でも、自粛とか謹慎とかあるのに)、⑤そこへの怒りがありました。⑥未だに自分に罪を認めることなく、正しい裁きをした、と思っていたのでしょうか?⑦そして、思ったのはダビデの親として、また王様としてリーダーシップの不在です。それは、傷を放置すると、罪を放置している、もっと大変なことになることがおこります、アブシャロムはどうすべきだったのでしょう?また、ダビデは?罪の悔い改め、回復、そしてダビデには裁きと回復を促すリーダーシップが必要でした。このために大変なことになります。今朝、主の前に心を正す、また問題へ立ち向かい日を過ごします。

Tuesday, May 27, 2014

片手落ちの、形だけのミニストリーをするな!(

今日のQT:片手落ちの、形だけのミニストリーをするな!(第二サムエル14;12-24)20節「あなたの家来ヨアブはことのなりゆきを変える為に、このことをしたのです」ダビデはテコアの女性の話がヨアブから来たものであることを見抜きます。そこで、アブシャロムをエルサレムに迎えます。しかし、彼に会うことがありませんでした。今日までのヨアブの知恵ある女性を遣わしたことは、一見言い話しに見えますが、ここには「罪の裁き、宣言も無く、そのために悔い改めもありません」ですから、回復がありません。これじゃ、片手落ちの福音です。というよりも、大事な罪の悔い改めが無いなら、福音でないのです。また、ダビデは裁きもせず、はっきりした態度もとらず、回復することもありません、以前のダビデならこんなことはなく、人にはっきりとして態度をとり、裁きをし、すぐに反応して判断します。しかし、今日の話はテコアの女性やヨアブは「神様」という言葉を使うけど、本当に半分しいっていない、下手したら引用するだけの話になります。今朝のQT,形だけのミニストリーをしないこと、福音を持った神様のみ言葉の共同体を作って生きます。時間のことや目の前にことに縛られず、恐れず、御言葉を持って、新共同体を作って生きます。

Monday, May 26, 2014

人間の計略じゃ回復は無い

今日のQT:人間の計略じゃ回復は無い(第二サムエル14;1-11)2節「ヨアブはテコアに人をやって、そこからひとりの知恵ある女を連れてきて」ダビデがアブシャロムに敵意を持っていることに気がついたヨアブは計略を持って、ダビデとアブシャロムを回復させようとします。しかし、それは部下の範疇をこえた部分でした。いかに腹心といえ。また何よりも、これは①本当の問題処理をしていません、そのために後でアブシャロムが反乱を起こす大変な種を残します。それは、この知恵ある女の例話には「復讐をSTOPして、ゆるす」というプロセスが欠けています。②何よりも、悔い改める、という回復がありません。③罪の代価をはらうこと、神様の前に出ること、イエス・キリストの十字架によるゆるしがありません。そのために、後で大変なことになります。ダビデも後で女性の後ろにいるヨアブを見抜きますが、間違って「かわいそうな」という目で見て逃してしまいそうになります。気をつけていないと物事を失いそうになります。今日、主にある和解、そして正しい事後処理を祈ります。また目覚めて奉仕します。

Sunday, May 25, 2014

罪をそのままにするのは愛でない

今日のQT:罪をそのままにするのは愛でない(やみくもにかばうのは愛するのでない:第二サムエル13;23-39)アブシャロムは満二年たって自分の妹タマルへの復讐を果たします。しかし、最初の目的は「ダビデ」でした。アブシャロムはしきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた(25節)とあります。正しく裁かない父への不満、怒り、そして反逆がこの頃からあったのです。結果、アブシャロムはアムノンを殺します。他の王子たちはかろうじて逃げることが出来ますが、この頃のダビデはさえません。あれだけ、間違ったことへ裁き、決断してきた王様が、自分の家族のこと、バテシュバ事件の後、正しく物事を当たることができません。アブシャロムは「アムノン」をうつ時に「この私が命じるのでないか、強くあれ、力ある者となれ」とリーダーシップ、カリスマさえ見せます(ただ、それは主がともにいるリーダーシップでなくて、人間のカリスマでした)。それに反して、ダビデはアムノンを裁かずにいた結果、息子を失い、悲しみ、またしてもアブシャロムを裁くことさえしません、ただ罪を放置しておくことのみです。息子をそのまま甘やかす、問題や罪を放置する、父親として、何よりも国の王様として、公人としてリーダーシップを失います、それは、今日のリビングライフにあるように「愛ではありません」今朝、移民教会の牧師として、愛を持って譲れない霊性、神様の事件に向かって生きます。問題に立ち上がり、向かい合います

Saturday, May 24, 2014

罪とは間違った方向へ、正しいリーダーとは正しい方向へ導くこと

きょうのQT:罪とは間違った方向へ、正しいリーダーとは正しい方向へ導くこと(第二サムエル13;15-22)今日、ダビデの長男アムノンは間違った罪から来る憎しみで、タマルを追い出します。それは、彼の犯した罪よりひどいものでした。自分に向けるべき罪、自分が追求すべきことなのに、あれほど異常な肉の欲で傷つけたタマル、感情で憎みました。昨日、今日思ったことは、①こんなひどい目にあいつつも、タマルが賢明な女性であったこと、②なぜ、ダビデが息子、長男であるアムノンに激しく怒ったにもかかわ...らず、さばかなったことです。ダビデが自分の罪の負い目のためにできなかったのか?自分の息子だから、長男だったから、なのかは分かりません。でも、自分が間違っていても、自分のことを棚にあげても、正直に、自分も過ちを犯した者としても、これ以上にその罪が悪を生まないように裁くべきでなかったでしょうか?また、自分の長男であったから、という理由なら大事な娘はどうなるのでしょうか?彼女はアブシャロムの家でわびしく暮らした、とあります。本来なら、ダビデは赦されたものなら、裁くはずです。アブシャロムは裁かない王に心に遺恨を残しまし、心の奥底に復讐を待つことをさせました。これは、後々大変なことになります。今朝、私も自分も過ちを犯すけど、罪の種を残さないように、あくのわざわいの種を残さないように、謙遜に悔い改めつつ歩みます、すぐに行動していきます。罪とは間違った方向へ連れて行き、最後の結末は大変なことになります。しかし、神様の願うのは正しい方向へ、神様の愛の計画のところに導くことです。主の方向へ歩みます。 もっと見る

Friday, May 23, 2014

罪の呪いのチェーンを断ち切れ!(I LOVE YOU LORD、

罪の呪いのチェーンを断ち切れ!(第二サムエル13;1-14)ダビデの息子アムノンが義理の妹である美人のタマルに恋をしました。しかし、それは間違った罪の欲望を間違ったずるがしこい男の策謀、ご機嫌取りによって、非常に恥ずかしい、痛みのある性的な罪になってしまいました。ここで、感じるのは①恋に悩み、肉の欲望にゆだね、間違った友人により罪を犯すアムノン、②純粋でいながら、落ち着いて王に話すように、すすめるタマル、③そして、今回は疑いもせずにだまされたダビデです。彼は自分の性的な罪から、家族へその罪の呪いのチェーンが行ってしまいました。どうしたらいいのでしょうか?毎日のQTつらいです。誰にも、常に、誘惑や攻撃があります。(1)I LOVE YOU LORD、正しく生かせてください、と告白します。また、何よりも主イエスを愛します。そこから正しい人生がいあります。そこに、答えがあります。神様を愛することから罪からはなれて、進むべき人生へ進ませます。(2)イエス・キリストの十字架の血潮で罪ののろいを断ち切ること、(3)良い信仰の友人、神様の下に連れて行ってくれる、友人を求めます。

Thursday, May 22, 2014

どこにこんな愛があるの?!(

今日のQT:どこにこんな愛があるの?!(第二サムエル12;24-31)ダビデとバテシュバは今度は夫婦として関係を持ち、子供ソロモンが与えられます。その時に24節「主はその子を愛されたので」とあります、なんと驚きべきことで無いでしょうか!普通、罪の赦し、回復なら理解できます。しかし、神様の回復は、罪のゆるしは、愛するところまで生きます。人間なら、ゆるしても、それ以上関係を持たないでしょう。無理です。しかし、主イエスは愛されます。そして、25節「預言者ナタンを遣わして、主のために、その名を、エディヤと名づけた」とあります。神様の保護、守りは悔い改めを迫った預言者ナタンを再び遣わして、主のために、園子に名づけることまでさせます、なんと言う愛でしょう。今朝、心に残ったホン・ジョンギル先生の文章があるのですが「神は悔い改めたダビデに再び子を授け、その子を愛されます。人間が罪を犯しても、心から悔い改めるなら、神はその罪を赦してくださいます。そして、その苦しみからまっすぐに神のみ前に出る人を新しい道、聖い道へ導いてくださいます。神は悔い改める人を、もっと良いもので満たされます、神のみ前に正直な姿ででましょう」OH MY GODじゃないですか?、もっと良いもので満たされる、ありえない愛です。今日、その主なる神様の前に正直に、愛と祝福を信じ、確信していきます。アーメン。

Wednesday, May 21, 2014

回復は主に従うこと

今日のqt:ダビデの回復(第二サムエル12;15-23)ダビデの罪の結果、彼の息子はとられます、子供が死ぬとは、もしかして自分が死ぬより痛みで無いでしょうか。ダビデは、神様の前に哀れみを請います「もしかすると、主が私をあわれみ、子供が生きるかもしれない、と思ったからだ」22節。と言います。しかし、神様の裁きはくだり、あわれみは下りませんでした。そこで、ダビデは20節「①体を洗って、②礼拝をしてから、③家に帰り、④食事をします」ダビデの回復は、神様の心に従う、信じる姿です。神様の決断に礼拝をして帰ります。主の前に罪を犯したダビデが回復しています。信仰者の姿です、回復している信仰の状態です。信仰者は、神様の前に素直に祈ります、憐れみを請います。しかし、神様の御心に全幅の信頼をおきます。そして、主の心に従い、礼拝します。今朝、素直に神様の前に祈ります、憐れみを請います。しかし、主のみ心に従い、礼拝して行きます。素晴らしい一日を下さる神様を賛美します。

Tuesday, May 20, 2014

悔い改めのメッセージを叫ぶ人は恵みの使者

今日のQT;第二サムエル12;1-4「悔い改めのメッセージを叫ぶ人は恵みの使者」主がナタンをダビデのところに遣わしたので」神様は、ナタンをダビデのところに送ってくださいます。そして、富んだ人の貧しい何も無く、自分で買ったメスの子羊を取り上げた話のたとえを通して、ダビデの罪を指します。ダビデは最初、善人のつもりで、神様の前に正義ぶります。それは、多くの人々の罪の自己防衛システムを見る感じがします。しかし、そこでナタンは7節「あなたはその男です」とはっきりとさします。イスラエルの誰も王様を怖くて、この世の権力が怖くて、自分の立場や、身の回りが悪くなるのを恐れたのに、彼はしませんでした。勇気あるどころでなくて、命をかけて従う姿勢です。その命かけた姿勢は、神様の裁きへて徹底さがあります。神様の裁きを読むと本当に怖いな、と思います。そのことを知っているナタンは命をかけました。その命がけのメッセージにダビデは悔い改めることが出来ました、本当に幸いなことです。今日、神様の前に恐れを持って、自分から悔い改め、感謝します、そして、愛していきます。主の言葉を恐れて歩みます。

罪は天に記録されている

5月19日のQT:罪は天に記録されている(第二サムエル11;14-27)ダビデは、潔癖なウリヤの態度を見て、将軍ヨアブに彼を殺させることにします(しかも、その手紙はウリヤに持たせたのです)。なんとかわいそうなウリヤでしょう、信頼する将軍ヨアブにも現実に妥協され、死を受けます。ダビデはウリヤを殺し、完全犯罪をしたように、罪を犯さなかったようにした、と安心したかもしれません。ウリヤを殺し、罪をもみ消して、ウリヤの妻を自分のものにした、と思ったかもしれません。しかし、それは27節「ダビデの行ったことは主の御心をそこなった」のです。罪は完全に消し去ることはできません、ただ一つイエスの十字架の前に告白し、悔い改めるまでは。ある人が「性の乱れは生き方の乱れ」と言いました。本当にそうだと思います。一人のリーダーの罪が多くの共同体を、人々を壊します。ダビデに今までこんな姿はありませんでした。しかし、罪を隠し、人を殺し、だまし、現実に妥協させて、間違った権威を振るうリーダーの姿、やりたいほう題する姿があります。今日、神様の前に、人の前に、家族の前に素直に出て行きます。主の前にすべてが覚えられていることを知り、素直に悔い改め、求め、主イエスの愛に回復して生きます。

安楽の中に来る誘惑

5月18日のQT;安楽の中に来る誘惑(第二サムエル11;1-13)今日まで、時差ぼけでQTのUPDATEできませんでした。すみません。さて、ダビデは戦争の勝利の後に「自分が戦争に出かけず、しかも2節;ある夕暮れ、ダビデは床から起き上がり」とあります。明らかに部下が命をかけている時に「昼ね、もしくは堕落した生活」をしていた可能性があるのです。そこに、綺麗な女性の水浴の姿が~ここまではある、と思います。誘惑にあること事態は罪ではありません。しかし、問題はダビデはそこから離れなかったことにあります。誘惑にあっても、そこからダッシュで走って逃げればよかったのです。もしくは、彼女を召さなかったらよかったのです、それは、まさにこの世の王様の権力によって「自分の部下のもの、愛する女性、妻」を奪う残虐で、その罪は大きな結果をもたらします。なんと、リーダーが転ぶと共同体は簡単にゆれるものでしょう。今日、よわい私を助けてください、と祈ります。それにつけても、ウリヤの清さ、潔さは素晴らしいものがあります。安楽の中でもう一度神様の恵み、自分弱さ、罪深さに恵みを求めて、気を引き締め、主の前に立ちます。私を助けてくださり、導かれる主イエスを信じます。

Saturday, May 17, 2014

4万人の騎兵を倒す神様の心

今日のQT:4万人の騎兵を倒す神様の心(第二サムエル10章1-19)アモン人の王様ハヌンはダビデの真実な姿勢、父親を悔やむ心に悪で報いました。そのために、アモン人と彼らの雇ったアラム人との戦いが起こります。聖書では一度目の戦いにヨアブと兄弟のアブシャイが全軍の勇士と、その中の精鋭と共に戦う姿があります。その時に「強くあれ、われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう、主は御心をなされる」と(12節)言います。間違いを犯すことも多くあったヨアブでさえも、主のみ心を確信して戦い、人々を励まし、リーダーシップを持って戦います。その神様の下さった勝利の結果に続いて、もう一度アラムが攻めてきますが、今度はダビデとイスラエル全部で、戦車700と騎兵4万をほふります。そして、アラムは恐れて二度とアモンを救おうとしなくなりました。今日、私の人生、教会奉仕に戦車700と騎兵4万にかつ、勝利を与えてください、神様の御心によって全力で戦います。主がくださる私たちの想定以上の勝利をください

Thursday, May 15, 2014

死んだ犬のようなものが王様の息子のように

今日のQT:死んだ犬のようなものが王様の息子のように(第二サムエル9;1-13)11節「こうして、メフィシュボテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった」ダビデは、サウルの家の者に「神の恵みを施したい」3節、と言います。王国を立てるものにありえないことです。前の王様や敵対勢力だったものを皆殺しにしてこそ、自分の王国が安泰なのに、しません。かえって、ヨナタンの息子であるメフィシュボテに「死んだ犬のようだ」と自分を言っている人に王様の息子のようにします。これこそ、神様の恵みです。自分は死んだ犬だ、価値が無い、もしくは敵であった、という人に「王様の息子」のようにしてくれるのですが、これが、私が体験している、神様が体験してほしい、と願う恵みです。また、教会は、神様の国はこのような敵であったものを、王様の息子のように扱うところです、自分の国を立てるうちはこれができません、なぜなら信じられないからです。今朝、私にとって恵みを返す人を黙想しました。連絡したり、感謝をしたり、贈り物をしたり、祈りをしていきます。

神様の勝利にたまたまは、無い!(

きょうのQT :神様の勝利にたまたまは、無い!(第二サムエル8;1-18)14節「このように主は、ダビデの行き先々で勝利を与えられた」神様は、ダビデに勝利を与えてくださいました。それは、一度きりでなくて、たまたまでもなく、いくどこにおいても、でした。出会いがしらとか、たまたまとか、ラッキーでない勝利です。また、サウル王のように一度だけ勝利したとか、何度かでなくて、数度神様に用いられて終わり、でなくて、永遠の約束、祝福をいただいてダビデは勝利を得ました。その中で、ダビデは王国の編成、リーダーシップを持って神様の国のチームを造って生きます。そして、勝利を得るときに必ずダビデは主にささげ物、聖別をします(サウルはここで失敗しました)。ダビデとの差は勝利は神様にある、ということです。人間的に戦うから恐れます、失敗への恐れ、人への恐れがあります。今日、神様の勝利を私に与えてください、と祈ります。ラックでない、主が下さる勝利で生きます。

Tuesday, May 13, 2014

主にささげると予想以上がある

今日のQT;第二サムエル7;1-17;主にささげると予想以上がある。ダビデは神様の神殿をたてたい、と願います。自分が家に住み、安息を持ち、周囲からまもられて、心の良い態度を見ます。しかし、神様はダビデにこのことを施行するのでなくて、逆に神様の祝福を受けることになります。それは、今日のリビングライフにあるように「ささげたものより、受けたもののほうが多い」→更に言うと、「受けるもの」ですが。ダビデの家系を通して、メシアの家系、子孫への大きな祝福が約束されます。今日、与えられた黙想は、①良いことをするよりも、神様の御心を求めてすること、②自分の思いと違っても従う祝福、③そして、今日の決断がダビデの家族、家門へ大きな祝福をもたらしました。わずかな瞬間、その決断が大きな影響、祝福をもたらしたのです。今日のみ言葉はアメリカに来る前に与えられた御言葉です。主の教会を立てさせてください、と祈った時に「この子孫への祝福、家のことでした」今日、ささげると想定外、いや全能の神様の祝福は有限の私の中に収め切れないことを信じて歩みます、今日の行動主の中に期待し、信じ、従います。

自分の本当の姿を見る礼拝

5月12日のQT:第二サムエル6;16-23(自分の本当の姿を見る礼拝)ダビデは、神様の契約の箱がやってきて、力の限り踊りました、ところが、サウルの娘ミカルは「そんな自分の主人、王様であるダビデがそのようにすることをさげすみました」ダビデは、神様の前に和解のいけにえをささげ、全集の池いけにえをささげます。まさに、礼拝です。①神様との和解、全焼のいけにえ(すべてをささげる)を持ちます。それは、正しい自分の姿、そして神様への姿勢を見せます。②次に、神様の関係が祝福された人は、他の人を祝福します。イスラエルの人々を祝福し、菓子を持たせて帰らせました。③そこで、最後に家族を祝福しに戻ってきた時に問題が起こります。それは、ミカルの王様の権威、そしてこの世の権威に自分を見ている姿でした。私たちになんとそのようなことが多いことでしょうか?しかし、ダビデは神様の前に卑しくなりました。それは、自分の本当の姿を見る瞬間、一番素直になる瞬間です。今日、主の前に素直に謙遜に生きて生きます。

Sunday, May 11, 2014

力の限り踊れ!

今日のQT:(第二サムエル6;1-15)今日はダビデが神様の箱を迎える聖書箇所です。今朝、与えら得たKEY WORDは①主の前に、②主への恐れ、不敬の問題、③主に出会う喜びです、ダビデは神様の箱を迎えることが嬉しくて力の限り喜び踊りました。しかし、ここにウザが牛によってゆれそうになる神様の箱を押さえたことから問題が起こります。神様の前に割り込んだ彼は死にました。何が問題だったのでしょうか?それは、神様の箱を物の様に扱ったこと、神様を神様としなかったことです。事実、このあとに恐れがありガテ人(イスラエル人でありません)オベデ・エドムの家にあったとき、彼らは祝福を受けます。これをみて、ダビデはいけにえをしながら、またも力の限り喜んで賛美しながら神様の箱を迎えます。今日の東京での礼拝、力いっぱい賛美します。また神様の前にひざまずき、イエス・キリストの十字架のいけにえによって罪に許しをもって主の前にでていきます。今日の礼拝に期待します、賛美します、ハレルヤ!

Friday, May 9, 2014

栄えても、勝利しても、主に聞け!(


栄えても、勝利しても、主に聞け!(今日のQT:第二サムエル5;11-25)23節「そこで、ダビデが伺ったところ、主は仰せられた。上っていくな!彼らの後ろに回っていき、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ」ダビデは王になり、周りの王国から杉財など供給を受けて、王宮に住み、子供たちをうみ、栄えていきました。その中で大敵ぺリシテがやってきて、主に伺い、勝利を得ました。しかし、それにも関わらず、再びペリシテがやってきました。普通、勝利して、栄える自分の力だ、と勘違いしやすいものです。しかし、そこでもダビデは「主に伺いました」今度は違う指示がありました。はたして、私の人生に何でも、どこでも、何度でも主にうかがう記録、記憶があるでしょうか?ダビデのように歩んでいるでしょうか?毎回違うことがあるのに、必ず霊的に油断せずに歩んでいるでしょうか?昨日、ある先生との交わりで「自分で何かしようとするとモノマネが多いんですよね、でも神様に効くと本当に一日が楽しいんですよ」とお聞きしました。今日、私も神様に聞く楽しい一日を過ごします。神様のしてくださるみわざに期待して訪問し、人と会い、神様の計画の中ですごします。

あなたが取るべき要塞はどこか


今日のQT:あなたが取るべき要塞はどこか?(第二サムエル5;1-10)6節―7節

ダビデはシオンの要害を攻め取ります、ところが敵は始め自分たちを難攻不落の場所と考えて、彼には攻め取るのは不可能だと考えます。しかし、彼は信仰の勇士として攻め取り、後のエルサレムにします。今日、私のとるべきシオンはどこでしょうか?何でしょうか?主よ、信仰もってすすませてください。

 

Wednesday, May 7, 2014

あなたの人生に神様を求めた記録があるか?!

今日のQT2:あなたの人生に神様を求めた記録があるか?(第二サムエル4;1-12)1節「サウル王の子イシュ・ボシュテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った」12節「しかし、イシュ・ボシュテの首は、ヘブロンにあるアブネルの墓にもって行き、そこに葬った」今朝、もう一つすごく気になったQTをSHAREします、この王様イシュ・ボシュテが神様に関する言葉、求める記録が無いことです。残っているのは偉大な将軍アブネルとの関係だけです。それは、別に悪いことでないかもしれないですけど、神様を求めたのか?その記録が無いと悲しいことです。果たして、私の人生の記録はどうでしょうか?神様を求めた、神様への関係が記録されているでしょうか?今日、主を求めて歩み、人と出会い、教会の奉仕します。

神が守る人は復讐の必要が無い

今日のQT;神が守る人は復讐の必要が無い(第二サムエル4;1-12)サウル王の子供であるイシュ・ボシュテはアブネルが死んだことで気力を失います。更に、彼の部下がイシュ・ボシュテを非道な方法で(家に侵入して昼寝して休んでいる)彼を暗殺します。そして、ダビデの前にいって「あなたの敵、サウルの子イシュ・ボシュテの首~主が、復讐された」というのです。そこで、ダビデは「私の命をあらゆる苦難から救い出された主は生きておられる」と言い、彼らを処罰します。そうです、ダビデは復讐する必要がありませんでした。なぜなら、神様は守ってくださったからです。彼の命も何よりも、心を、魂を救い出されたからです。また、何よりも主は人に利用されるような方でありません。ダビデも利用されるような人でありません。神様の方法、時は全く違います。今日またひとたび、神様の愛と許しの中で復讐から抜け出します、私を救い出される神様を賛美します。

できなくても、今できることは最善をする

できなくても、今できることは最善をする(今日のQT:第二サムエル3;28-39)ダビデは、アブネルの死を知り、その責任外自分に無いことを証明し、彼の死を嘆き悲しみます。そして、逆恨みといえ自分にイスラエルの王権やリーダーシップを持ってきたアブネルの葬式、民に悲しみを持って、迎えるようにさせます。それは民を満足させ、(36節)アブネルの死は、王から出たのでないことを知ります。彼の正しい判断、行動はイスラエルの民、リーダーシップ(正しい方向へ導くこと)をもたらしました。それは、良い意味での危機管理になりました。ただ、ここで残ったのはアブネルを殺したヨアブをどうすることもできない、まさに現実でした。この聖書箇所はいつも読むたびに考えたものです。しかし、ダビデは今日出来ることを最善を尽くしてしました。そして、何よりも神様の裁きにゆだねました。今日、私のできる最善を尽くして歩みます。

Monday, May 5, 2014

陰謀は陰謀でかえされる

陰謀は陰謀でかえされる(今日のQT:第二サムエル3;17ー27)アブネルは、自分の逆恨みからダビデに王権を渡すことにしました。それは、結果的には「神様の御心」であった、ダビデをイスラエルの王様にすることに成功します。しかし、アブネルを恨む男がいました。ヨアブです。自分の弟アサエルを殺されたことへ復讐をします。陰謀は陰謀で、復讐は復讐で返されるのです。ダビデやイスラエルの長老たち、ベニヤミンの人々に何も悪いことはありませんでした。しかし、アブネルやヨアブは私的な恨み、復讐、逆恨み、で動きました。今朝、覚えるのは全てのことを益としてくださる神様を信頼すること、決して陰謀と、恨みで生きないことです、それは必ずヨアブの上にかえってきます。それは、怒りや難しいことがあったとしても、全能神様に任せること、信頼すること、自分でしようとしないことです。主イエス・キリストが十字架の上で全てをなしてくださいました。今日、明るい、面に出れる主の計画に信じて、歩んでいきます。

Sunday, May 4, 2014

家を作るとは

今日のQT:家を作るとは(第二サムエル3;1-16)「ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった」サウルとダビデの家には、長く戦いが続きます。エルサレムに行かなかったダビデには、へブロンで子供たち、家族、家が出来ます。しかし、サウルの家には部下アブネルがサウルの家を守ることから、次第に牛耳ることになっていきます。サウル王のそばめと通じたらしいのです。リーダーシップの欠如はチームを壊します、倫理観を壊したリームは、リーダーは破壊を招きます、真のリーダーでありません。逆に、ダビデはヘブロンに行くことを通して家族を築きます、その家は、王国はイエス・キリストを送り出す、祝福の家門に、家系になります。永遠の王国になります、今日思いました、100年続く教会、祝福の家系、家を築くとはなんだろうか?それは、神様のみ言葉に従うことから来ます、神様の時歩むことから来ます。主よ、私と家族は主に仕える、そのようなヨシュアのような、ダビデのような家、家系、教会を立てさせてください

自分がどこで、誰とどのように振舞うべきか知る知恵

自分がどこで、誰とどのように振舞うべきか知る知恵
第二サムエル2;18-32
アブネルは、足の速いアサエルに追いかけられて、他のものを探すようにいいます。それは、自分たちが兄弟と戦っていること、剣がもたらす艱難を知っていたからです。戦争の中でも、人殺しの中でも、アブネルは判断することを知っています。しかし、アサエルは他の人を探すことが出来たのに、ただアブネルを追いかけ続けました。その結果は、自分の死でした。リビングライフの表題どころでない、損失でした。ダビデたちは360人の人々を倒したのに、アブネルは19人とアサエルだけを倒したのでした。明らかに他に行けば、利益もあるのに、自分の命を失ったのでした。私たちはどうでしょうか?今日、あるべき人の距離、すべきことを、対応すべきに知恵を与えてください、と祈ります。外部の教会でゲストで奉仕しますし、ミニ修養会、他教会の3周年記念礼拝、と参加します、今日が主イエスの幸福な礼拝の日になりますように。

ダビデと豊臣秀吉の違い


ダビデと豊臣秀吉の違い

第二サムエル2;1-17

ダビデは、1節「」サウル王が死んでから、すぐにエルサレム行こうとしませんでした。それは、王様になることを急ごうとしませんでした、自分の力で王様になろうとしなかったのです。神様に、主に伺ったのです。自分の方法や自分のタイミングで王様になろうと、奪おうとしませんでした。それが、豊臣秀吉と違いだと思いました。自分の主君の死のときにタイミングを失わずに、天下を取りました。しかし、ダビデはそうしませんでした。横から見ると、じれったい、この世のタイミングと違う、感じがします。しかし、神様の国に生きる人はそうでありません。まず、神様に伺います、主に聞きます。それは、自分が主でないことです。自分のタイミングでなくて、主のタイミング方法で行きます。その結果は、へブロンに上ることでした。そこから、さらに数年の7年6ヶ月かかって、王様にダビデはなります。簒奪したのでありませんでした。そうでなかったら、ヤベシュ・ギルアデの人々をほめることも出来なかったでしょうし、そのほめる言葉も人間の二重性を感じること、誠実さを感じることの出来ないことだったでしょう、すごい、としか言い様がありません。の今日、神様の方法、時で歩んでいきます。主の栄光のために私の人生を治めてください。主の栄光のために歩ませください。

Saturday, May 3, 2014

ダビデがサウルにならない理由

ダビデがサウルにならない理由
第二サムエル1;1-16
今日から、またサムエル記のQTが始まりました。ダビデ王は自分の敵であるサウル王の死を悲しみます。また、サウル王の死を知らせて、王冠を持ってきた、自分の手柄に用に、取り入ろうとしたアマレク人を打ちます。何故でしょうか?彼は在留異邦人でイスラエルに住んでいる人々の2世でした。ですから、神様が建てた王様を知っていたはずです。また、主が油注がれた、という意味を知っている人でした。でも、なぜダビデは自分の敵とも思える(サウル王自らが敵にわざわざなったのですが)サウル王の死を喜んだり、少なくとも安心したり、せずに悲しみをもてたのでしょうか。それは、神様の計画を信頼し、従う人の人生から来るものでした。また、敵をによって自分が復讐の鬼にならない、神様の恵みをいただいたからでした。愛すること、ゆるすこと、彼によって私はこれだけの犠牲を損害をこうむった、ということもなく、徹頭徹尾神様を信じて、神様の方法、時に王様になったダビデの祝福でした。今日また、祈ります。私にとって難しい方、難しかった人々を、今日も愛し、祝福し、ゆるします、これだけ、損害をこうむったから、神様のとき、方法で主に歩むこと、高められることを願います。