Friday, July 11, 2014

神様の国の爆発的威力

7月11日のQT,神様の国の爆発的威力(マルコ4章30-41節)30節「神の国はどのようなものと言えば良いでしょう。何にたとえれば良いでしょう」31節「それは、からし種のようなものです。地に蒔かれる種の中で一番小さいのですが」イエスは言われます、どうしたら紙の国が理解のできるか!と伝えて仕方が無いのが感じます。それは、なんとTHE SMALLEST OF ALL SEEDS ON EARTHなのです。しかし、32節「それが、蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります」その生長はすさまじいものです。祈りました!こんな1000倍、一万倍の生長をください、リバイバルさせてください、と。昨日は生長、収穫をさせる神様を体験しました。感謝でした。なぜ、今まで気がつかなかったのでしょうか。それは、神様の言葉を心の中に蒔くこと、理解すること、信じることに違いが出てきます。今日のQTの後半は、①群集にはたとえだけで語れたこと、②弟子たちには解き明かされたこと、があります。その弟子たちが激しい突風に出会い(37節)、死に掛けてイエスが「黙れ、静まれ」39節というと静まった、事が出てきます。しかし、そのときも弟子たちは「この方はどういう方なのだろう?」41節、イエスが神様の子であること、メシアであることをわかっては、信じてはいませんでした。40節「信仰がないのはどうしたことです」とイエスに言われます。今日、神様の国の生長を体験するために、もっと、もっとイエスを信じます。私の心の中にまかれた神様の言葉の成長をして歩んで生きます。楽しみです、アーメン。

Thursday, July 10, 2014

神様のタイムスケジュールで収穫が来る

7月10日のQT,神様のタイムスケジュールで収穫が来る(マルコの福音書4;21-29)種まきのたとえの後で、イエスは「あかりをその目的にふさわしく使用」することを通して、必ず「その実や内容」が必ず、良いもの、悪いものであることが分かるようになること、その結果を刈り取るこになることを語ります。それを踏まえて、「神の国は人がちに種をまくようなもので」26節語れます。また28節「地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります」とあります、神様の収穫は完全に神様のもので、しかしその日を目指して私たちは種をまかないといけません。収穫がどのように来るのか分かりません。いつ、来るのか分かりません。しかし、神様に任せて歩まないといけません。今朝、好み言葉を読みながら、そうだな~と思いつつも、信じ切れない、まかせきれない自分がいました。しかし、午前中に神様の素敵な計画がありました、本当に収穫を起こすのは神様です、と確信しました。自分の不信仰を悔い改めます。神様に会って、種をまき続けます。福音の種、人間関係の種、関係、そして種をパンを水の上に投げ続けます。

Wednesday, July 9, 2014

同じみ言葉が撒かれている

7月9日のQT,マルコの福音書4章1-20節、同じみ言葉が撒かれている、イエスは天国の話をするのに、まだ未体験な私たちに分かるように地上のたとえを通して、私たちの知っていることを体験するように、多くのことを話されました。今朝、祈りました、私が遣えること、教会を通して、天国の前祝が味わえますように。また、イエスは①群集たちにはたとえで、②弟子と付き従う人々には「神様の国の奥義」を語られました。そして、9節「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われました。4つの①道端に落ちる、②土の薄い岩地に、③茨が実をふさぐ、④良い土地は30倍、60倍、100倍の実を結びました。いろんな人々がいます。群衆もいれば、弟子もいて、実を結ぶ人もいれば、そうでない人々もいます、たくさん。しかし、同一なのはみことばは同じ、そしてほんとうにたくさんのところに4節{FELL」したり、まかれたのです。今日、主よ私が実を結ぶ良い地にしてください。また、主のリバイバルをさせてください、多くの人々が集まり、天国の前祝を味わう、体験する教会にしてください、と祈ります、奉仕します。私の人生を通して。

Tuesday, July 8, 2014

,聖霊によらないと神様の共同体はたてない

7月8日のQT,聖霊によらないと神様の共同体はたてない(マルコの福音書3;20-35)今朝のQTは、イエスのミニストリーを(特に悪霊の追い出し)サタンの力を借りてやっているとむちゃくちゃな誤解、もしくは攻撃、迫害をしてくる人々がいます。どんなに腹の立つことでしょう。しかし、イエスは常識的な答えをします23-24節「サタンがサタンをどうして追い出せましょう、もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません」と。しかし、その後で29節「聖霊を汚すもの誰でも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」イエスを罪からの救い主、主と最後まで受け入れない人はゆるされない、救いにいたらないと言います。そして、最後にイエスの肉の家族まで「この段階まではイエスのことを完全に理解しておらず」人をやり、呼ばせます。そこで、イエスは「私の母とは誰のことですか?また、兄弟とは誰のことですか?」と言われます、家族関係を軽視したのでなくて、35節「紙のみころを行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです」と言われます。多くの人々がイエスのところにやってきました。しかし、その中で神様の心を行う人、家族はわずかでした、群集はたくさんやってきても、イエスの弟子は限られていました。教会の奉仕をする時に、本当に聖霊によらないと、イエスを主としないと教会ってできない、共同体ってできない、できても形だけですぐに壊れるんだな~と思いました。今朝、聖霊による共同体、イエスを主とする、神様の心を行う共同体を立てて生きます。しかし、逆に神様の心を行うなら、「誰でも」神様の家族なのです!何というすばらしい恵みでしょう!主を賛美します。

Monday, July 7, 2014

True IdentityをもつVERY ORDINARY PEOPLE

7月7日のQT:
True IdentityをもつVERY ORDINARY PEOPLE(マルコの福音書3;7-19)七夕のQT,イエスが福音を伝える時に多くの人々が集まりました。8節「大勢の人々が、イエスの行っておられることを聞いて、みもとにやってきた」とあります、今朝、祈りました「主よ、うわさになる教会、イエスのために、うわさになる教会にしてください」また、イエスの奇跡のためだけにつくのでなくて神様のみ言葉に、イエスの救いにつく教会にしてください。TORRANCE全体、サウスベイ、南カリフォルニア全土から人々が集まる教会にしてください、と祈りました。でも、それだけでなくて、イエスが「ご自分のお望みになる者たちを呼び寄せられた」これって、神様からの一方的なCALLINGですよね!私たちに理由がありません。なぜなら、この世の人なら影響力のある、社会的、経済的にポジションをある人、共通項の多い、まとめやすい人などを探します。しかしイエスは多様な背景、そしてno special educationでno socail advantageであるすごくCOMMON PEOPLEを選びました、何故でしょう?①14節「彼らを身近におき」これが最初です、イエスと生活、人生を共にする人です。イエスのDIRECTIONとPOWERの下から影響を受けます。イエスの弟子としてのTrue Identityを人生の中でもつのです、そこから、②14V福音を宣べさせ、③15節「悪霊を追い出す権威を持たせ「たのです、仕事が先でなくて、イエスと共にいる人が先でした。神様の主権と恵みの中で変えられたのです。今日、イエスと共にいる弟子とまず私がなって生きます。イエスの弟子が集まる教会になるよう仕えます。

Sunday, July 6, 2014

今週の礼拝は良かった、違うね!と毎週いいたい!(

7月6日のQT<今週の礼拝は良かった、違うね!と毎週いいたい!(マルコ2;23-3;6)今日のQTは、マルコの福音書で「安息日」に23節「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中で通っていかれた、すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた」という弟子たちが、①律法の解釈書に、そむいた、仕事をした、とパリサイ人たちから言われたこと、②3;1「イエスはまた会堂に入られた。そこには、片手の~人がいた」というところで、2節「彼らは、イエスが安息日にその人を治すかどうか、じっくりと見ていた。イエスを訴えるためであった」そこで、イエスは直す前に4節「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか?それとも、悪を行うことなのか?命を救うことなのか?それとも、殺すことなのか」と言われた。という箇所です。イエスは安息日を守りました、また、会堂の礼拝をささげ、壊すことはしませんでした。ただ、律法を守ってるフリだけして、神様を見ない、神様と共にいない、人のために生きない、本質で勝負できない人の偽善には徹底的に戦いました、それでも、4節のように悔い改めのチャンスを与えたのです。しかし、5節「イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら」とあります。神様と出会う人は素直になります、なぜなら、自分の罪深さにも関わらずに愛されて、イエスが十字架にかかってくださったからです。自分が律法を守っているとか、自慢するなんてありえない話です!神様の前にかっこ悪すぎでしょ。そんな神様の前に礼拝することは喜びです。そして、主にアル人々を愛することは最高のことです。今日、主への喜びを持って礼拝します!あなたの素晴らしさを賛美します、神様の愛を命かけて(オーバーだけどほんと)伝えます、宣言します。主よ、弱いものを憐れんでください。

Saturday, July 5, 2014

宗教行為よりイエスについていくことが大事だ!

7月5日のQT,宗教行為よりイエスについていくことが大事だ!(マルコの福音書)14節「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になって、私についてきなさい、と言われた。すると、彼は立ち上がって従った」、18節「ヨハネの弟子たちはとパリサイ人たちは断食していた。そして、イエスの元に来ていった。ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか?」パリサイ人や律法学者たちとイエスたちは対照的でした。宗教学者たちは、一所懸命律法を守り、宗教行為を行いました。聖く生きようとしました。しかし、そこには神様が共にいる宗教生活、もしくは?信仰生活?ではありませんでした。信仰生活は、神様と話すことです。イエスを信じるとは、永遠の命を受けたとは、イエスと永遠に生きることです。それは、宗教行為と違います。生きた人生です。宗教行為も、素晴らしく律法を守ることも、神様と共にいないと意味がありません。もしくは、リビングライフの解説に書いてあるように、「結局は、自分の義と高慢のために神様に敵対する者」になっていましったのです。レビはイエスに呼ばれて自分の罪や今までの人生を下ろして、「ただ、、無条件に従いました」イエスについていったのです。そのレビは、自分と同じ収税人の人々や、罪びと、と言われる人を招いて、大パーティーをして伝道パーティをしました。それを見て、人々は裁きました。しかし、誰か一人でも、その彼ら収税人や罪びとへ伝道したのでしょうか?裁いていた、関わらないでいたのでないでしょうか?レビはイエスについていった喜びで、今まで探していた自分の人生、お金や成功、そして収税人になってまで生きていたことで満たされないことを満たされた喜びは、溢れて人々へ伝道をしました。今日、この人は駄目だとか、?でなくてあきらめずに伝道し、祈っていき、仕えます、主に従わせてください()

Friday, July 4, 2014

理屈言う前に愛して仕えよ

7月4日のQT<JULT 4TH,<マルコの福音書2章7-8節>理屈言う前に心をもて!「この人はなぜ、あんなことを言うのか、神を汚しているのだ、彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて~」昨日、ある友人の集まりの中で「とある律法的になりやすいクリスチャンのグループ?」について聞きました。自分たちのグループだけが絶対で、自分たちだけが正しい、というそうです。聖書にある癒しは聖書時代で終わった、というのだそうです。それって、どうななのだろう?と思いました、聖書的な、神学的なことはうんぬんとして、自分が病気になったらどうなのでしょう?自分は家内が病気を持っているし、癒しを求めます。しかし、神様の御心に従う所存ですが。今日の聖書本文を読みながら、どうして中風の人のことを考えずに、理屈を言うのだろう、と思いました。神様の心を考えないのであろう、イエスのことを見て神様の働きを見ないのだろう、と思いました。理屈(それも大事だと思っています)よりも、神様に仕え、人に仕え、愛しているか、でないか?と思います。自分自身も気をつけない理屈だけになる、と思いました。今日、愛して使えます。神様の心を素直に聞きます。

「神様のチームはやばい!」

7月4日の独立記念日のQT、PART3!「神様のチームはやばい!」(マルコの福音書3)「そのとき、一人の中風の人が4人の人に担がれて、身元に連れてこられた。」中風の人は4人の人に担がれてきました。人を担いだことがあるでしょうか?4人が担いでちょうどです、重いです。考えたら、中風の人を担ぐために、家を出て平坦な道を歩んできたでしょうか?分からないことですが、大変なことでないでしょうか?家から出るのに平坦だったでしょうか?少し考えてみても、ある人の訪問のために水のボトルを持って階段を少し登るだけでも大変なのに、彼らは中風の人の癒しのために、担いで出てきました。私はこのような大変な状況の時にこんな4人の友人がいるでしょうか?また、逆に、大変な友人のために担いでイエスの前に何としてでも連れて行く、という人になっているのでしょうか?今朝、祈ります。主イエスにある4人のチームを与えてください、神様のところに連れて行く共同体を作らせてください、集めてください。主イエスに信仰を見られる、とんでもない!やばい人々にしてください。

あきらめずにIDEAをだせ!(

7月4日、JULY 4THのQT:あきらめずにIDEAをだせ!(マルコの福音書3-5)そのとき、一人の中風の人が4人の人に担がれて、身元に連れてこられた。群衆のために、イエスに近づくことが出来なかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。イエスは彼らの信仰を見て、、中風の人に、「子よ、あなたの罪を赦されました」と言われた。中風の人を連れた4人の人たちは、戸の所まで隙間も無い家の群集を見てあきらめませんでした。どうして直してほしい、イエスの前に出て行ったら、直される、信仰を持っていたらからです。ここで、大事なのはその確信は、あきらめずに進んだことです!あきらめずに屋根をはがし、そこから中風の人を降ろす、というショッキングなことに進んだのです。でも、考えたら直してもらえる、と思ったら絶対にそれを勝ち取ろうと思いませんか?イエスが来ているチャンスを絶対に逃さないでしょう、この中風の人を治してもらう、というIDEAへ行動、行かないでしょうか?今日、主に会ってこの①あきらめないこと、②IDEAだす、③人が迷惑より、彼らの信仰を見られたイエスの評価、信じて前進します。④イエスの力を受けると言う緊迫性を持って生きます。今日と言う日の恵みを逃しません

リバイバルをわれらに!

7月4日独立記念日のQT:(マルコの福音書2章1-12)1節「数日たってイエスがカペナウムまたに来られると、家におられることが知れ渡った」2節「それで、多くの人が集まったため、戸口のところまで隙間も無いほどになった。イエスは御言葉を話しておられた」イエスのいるところが分かると、人々が集まりました。人々たくさん集まって、隙間の無いほどになって不便な状況でも人々が帰らないほど、渇いていました。日本だとこんなのって野球や何か特別の製品の販売(日本の場合かな?)するときしか集まらないかもしれません。教会にこんな風に人が集まったら、信じて祈りたいと思います。神様のリバイバルのために、イエスのいるところ知れ渡って、みことばをぎゅうぎゅうづめで語られたように、①JUBILEE教会知れ渡るように、②人々の友となる共同体になれますように、③自分を広げるのでなくて、イエスを、神様の国を広げる共同体でありますように。南カリフォルニア、北米のリバイバルの日系、韓国、アメリカのために祈ります(写真は教会の献金祈祷したYUKOさんと娘のアリミ、僕は横にいるだけです)

Thursday, July 3, 2014

全ての民が救われるまであきらめないわが神

7月3日のQT:全ての民が救われるまであきらめないわが神:(マルコの福音書1章)38節イエスは彼らに言われた。さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも、福音を知らせよう。私はそのために来たのだから」39節「こうして、イエスは、ガリラヤ全地に渡り、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊をおいだされた」イエスはガリラヤ全土を渡って福音を伝えられました、私はそのために来たのだから。今日、あるクリスチャンの友人の方々の交わりにいれてもらって、交わりをしました。そこで、ある人は「献身した時に一人の魂をすくように、その人が次の人にイエスを伝える弟子になるように」そうしたら結果も救われる人の数も祝福もついてくる、と言われました。本当にそうだな!思いました。今朝、このQT読んだ時に、祈ったことは①南カリフォルニアの日本人の魂に全部にイエスを伝えれるように、②祈りの人々のリスト150人与えてください(まずは少しからでも)、③具体的に人々に出会わせてください、送ってください。知人を、深い友人を、教会に人を、そして聖書を学ぶ、読み人を与えてください、と祈りました。主よ、イエスを伝えるエキサイティングな祝福を与えてください、私を一人の魂を救うために、弟子とするために用いてください。

「主のあわれみのTOUCH」でいきよ

6月3日のQT:PART2,マルコの福音書1章38節から42節「主のあわれみのTOUCH」41節「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。私の心だきよくなれ」イエスの前に来たJEPROSYの人に「イエスはさわっていややされました」今朝、私の心に迫ってきたのは「深く」と「あわれみ」でした。そして、イエスが手を伸ばしてさわれた(REACH OUT)されたことです。神様の義の前に私たちの罪はどうでしょうか?主のあわれみが無ければ、癒されないものです。今朝、黙想したことがありました、私もキリストの哀れみによって救われたこと、また癒されたことを思いました。しかし、ひごとに癒され、ゆるされていないと、その癒されえていない部分で、次の人を傷つけます。イエスに癒されたことをもって人に仕えないといけません。今朝の祈りです。神よ、わたしをあわれみ、私の中の汚れ、JEROSYを癒し続けてください。そのイエスの哀れみを持ってREACH OUTさせてください。深くあわれみ、人々をイエスの哀れみできよめれるようにしてください。人々に神様の清めで(私でなく)主イエスの哀れみに感謝します。

イエスの宣教の秘密

6月3日のQT:マルコの福音書1;35-45、イエスの宣教の秘密、35節「さて、イエスは朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しいところへ出て行き、そこで祈っておられた」成功する人には、秘密があります、祝福を受ける人には、根源があります。リーダーには人知れず苦労と緊張があります。そうでなければ、おかしいわけです。さて、イエスには宣教の力の根源、秘密がありました。それは祈りです。しかも、それは人の起きていない、誰も見てない、脚光の浴びない中で、面倒くさいと思える中で、日常のルーティンの中で、忙しく、奉仕し、神様の国の福音を伝える中で、祈っておられます。しかも、まだ暗いうちに!です。誰も仕事しない時に、イエスは神様と交わりました。神様との天国会議を開きました。宣教戦略会議を開きました、でも、何よりも神様との交わり自体を楽しみました。神様の心を心としていきました。自分の心でなくて、それは神様との交わり、祈りから来ました。今日、私も神様との祈りを楽しみ、宣教をしていきます。

Wednesday, July 2, 2014

イエスのミニストリー

7月2日のQT,イエスのミニストリー(マルコの福音書1章21-34節)イエスのミニストリーは、①権威ある神様の教え(律法学者のようなものでなくて、)確信のある、宣言であったことが分かります。②病気の人の癒し、シモンの家へ行って姑を見てあげるイエスの愛が感じられます。そこに、評判を呼び多くの人々がやってきました。③悪霊の追い出し、です。神様の聖め、そして神様の国の支配のスタートです。それは、神様の愛でこの血に来られたイエスのミニストリーでした。ある人から成長する教会を調べる時にイエスのミニストリーをしている人が成長する、と聞いたことがあります。主イエスが教える時に、大きな力、権威がありました。しかし、それは神様の力であり、神様のことばからによるものです。今日、主イエスのミニストリーをしていきます。しかし、聖書って面白い!です。そのことをもっともっと伝えて生きたいです、伝えて生きます。

イエスについていくと神様の国を体験する

7月2日のQT:イエスについていくと神様の国を体験する(マルコ1;16-34)17節「イエスは彼らに言われた。わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう」イエスはシモン、アンデレに言います。私についてきなさい、と。イエスについていく人は「神様のみ言葉」の力を体験します。イエスについていく人は「人生が変わります」、イエスについていくは人は奇跡を体験しますで。でも、そのためにシモンとアンデレは①網を置いて(自分の過去や)頼っていた生業をおいて(それが悪いのでなくて)神様に頼らないといけません、自分の過去を置かないといけません。②今いる現場でイエスは語られました。そこにイエスは来てくださったのです。③すぐに、反応したとあります。ちょっと待ってください、いついつとかではないのです。それでも(イエスはまってくれるときがあったかもしれませんが)
ヤコブとヨハネは「父と雇い人」をおいて、ついていきました、今日と言う日は二度来ません。今日の思い、心で同じ事を向かえることはありません。人生の中でタイミングというのがあります。今日、イエスについていく人、弟子になりたい、と思います。私の国でなくて、神様の国を体験して生きます。

Tuesday, July 1, 2014

神様の声を聞くのは、聖霊のバプテスマヲ受けるのは「愛されている」声を聞く

7月1日のQT:神様の声を聞くのは、聖霊のバプテスマヲ受けるのは「愛されている」声を聞く(マルコ)1;11、「そして、天から声がした、あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」神様の声を聞くと考える時に、多くの人々は具体的な提案、仕事だったり、学校の進学だったり、結婚だったりを考えます。時にミニストリーであったり、使命であったり、します。もちろん、これも語られる大事なことです。私もそうでした、また時にそうなりやすいです。しかし、神様の願われることは「あなたと私がどんな関係なのか?」ということです。まず、イエス様が洗礼を受けたときに、聖霊を受けるときに言われたことは、「愛している、喜んでいる」でした。私たちは、私はどうでしょうか?日ごとに、ミニストリーをする前に神様の愛されている、声を聴いているでしょうか?神様が私を喜ばれている、ということを知っているでしょうか?聞いているでしょうか?そこから全てが始まります。神様と親しいから、神様に愛されているからミニストリーを任されるのです。今日に主に愛されていることを感謝し、賛美します。

あなたのポジションを確認せよ

7月1日のQT;あなたのポジションを確認せよ(マルコの福音書1章1-8節)7節「彼は宣べ伝えて言った。私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもありません」8節「私はあなた方に水でバプテスマを授けましたが、その方はあなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります」バプテスマのヨハネのすごいことの一つに、自分は誰か?!自分の役割は何か?!を知っていたことがあります。それは、神様の計画を知っていたことです。また何よりも、イエス・キリストが誰か?!その方のされることを知っていたこと!?もすごいことです。そこから外れない時に、自分のすべきこと、しなくていいこと、自分のいるべきポジションでいるときに輝く人生を歩むのです。神様の場所に、イエスのされることに、わって入ろうとしませんでした。自分がスターになろうとしませんでした。権力や人気にしがみついてミニストリーをしようとしませんでした。また、神様の時を知っていることも大きいことでした。今日、主に与えられたポジションで歩みます、自分が誰か?すべきことはなにか?しなくて良い事は何か?神様の時は?従って歩みます、主よ栄光をお受け取りください。

聖書って分かるとめっちゃ面白い!(

7月1日のQT:聖書って分かるとめっちゃ面白い!(マルコの福音書1章1ー15節)今日から、マルコの福音書のQTですが、昨日までマラキだったせいかすごく分かりやすく楽しいです。それは、マラキが難しいのでなくて、旧約聖書の最後の巻であるマラキを読んだおかげで、神様の計画が分かるやすくい、楽しい、ということです、聖書は難しい、と思う人がいるかもしれません。しかし、分かりだすとこんな楽しいことはありません。マラキからのメシアの預言、裁きの預言、そして旧約聖書の最後はNEW BEGININGです。その始まりであるイエスが来られたこと、その前にバプテスマのヨハネを送り、「主の道を用意させ、主のとられる道をまっすぐにせよ」と言われた言葉が実現をしているのを読む、本当に神様の言葉なんだな、と思うほか、神様の計画を賛美するようになります。その素晴らしい神様の計画の中に完全に従い、全宇宙をかえる救いのみ業をされたイエス・キリストを見ると礼拝せずにいられません。また、その神様の計画の中に私も大事なONE PIECEとして仕えたい、用いられたい、従いたいと思います。そのために聖書がもっともっとわかるようになりたい、と思います。だって、神様の計画が分かる中で、聖書を読んで行ってみて、神様を見れるほどスリリングな、エキサイトな人生はありません。今日、聖書を読む祝福を味わって生きます。

旧約聖書の最後はNEW BEGINING

6月30日のQT,マラキ4;1-6、旧約聖書の最後はNEW BEGINING、1節「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者はわらとなる。来ようとしているその日は、彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない」神様の裁きの日が来ると預言されています。しかし、2節「しかし、私の名を恐れるあなたがたには、義の太陽が昇り、その翼にいやしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る」今日、思うことは恐れることは決して悪いことでないことです。神様を恐れることは非常に大事なことです。それは、正しい方向へ人生を導き、神様の法律を守らせます。それは、確かに報いのあることです。救いを受けて、救いのメッセージを伝えさせます。神様の裁きの日は、イエスが来られる日は、クリスチャンにとって怖い意味の怖れでなくて、正しく生きさせる怖れを神様に持たせます、それは、新しい始まりです。旧約聖書はこれで終わって、400年間の沈黙時代がありましたが、イエスが来られることを期待するのは、新しい始まり、何よりもメシアが来てくださる希望です。今日、来られたイエスを感謝して、再び来られるイエスを待ち望む人生を歩みます。

主はかならず私をあわれんでくださる

6月29日のQT:主はかならず私をあわれんでくださる(マラキ3;13-18)、17節「彼らは私のものとなる。万軍の主は仰せられる、私が事を行う日に、私の宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼をあわれむ」悪者たちは、神様の前に裁きがないと言います、また、神様の前に責められても「私たちはあなたに対して、何を言いましたか?」と口答え、善いわけ、罪の自己防衛をします。神様を侮ります。しかし、神様は16節「主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた」とあります。主は私たちがどうであるのか?聞いてくださいます。その日、主がことを行う日、「正しい人と、悪者、神に遣える者と仕えない者との違いを見るようになる」とあります。今日の日、苦しい中でも、主が私を哀れんでくださることを感謝します、賛美します。主のみわざをされる日に期待して、今日を、明日を歩みます。また来られる主イエスを賛美します。