Monday, March 31, 2014

神様のなさることを信じて

神様なさることを信じよう(第一サムエル25章38節)「十日ほどたって、主がナバルをうたれたので、彼は死んだ」神様がなさることをどれほど私たちは待てないことでしょう。どれほど、神様の最善を信頼して、行くことが難しいことでしょう。ダビデがもしも、自分の怒りに任せて軽率に行動したら、それこそアビガイルの言うように「小さいなことで後で大きなさまたげ、つまずき」になったことでしょう。今日、祈っていた祈祷課題を主がなしてくださることを信じ、神様のベストを信じて歩みます。主のなさるみわざをみます。

Sunday, March 30, 2014

カリスマの女性、アビガイル。

第一サムエル25章30節(23-35)「主があなたについて約束された全ての良いことを、ご主人に成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられた時、31節;無駄に血を流したり、ご主人さまご自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人の心の妨げとなりませんように」アビガイルは知恵もあり、勇気もあり、そして心意気もあり、何よりも神様の関係が強い、霊性を感じます。カリスマのありそうな女性です。まず、ダビデに会うと①徹底的に謝罪し、自らの罪といいます(なかなかいえないです)、②罪認めとりなします、こういう主人ナバルに仕えてきたこと事態がすごいことです。③小さい、つまらないことにこだわるな、と伝えます(かっこいいですね)、④神様の心、計画を知り、伝えます(彼女の信仰深さ感じます)、⑤その上で、神様の約束と計画の成就を要約しなおします。ダビデも正直に軽率であることを認め、神様の心を受け入れます。もちろん、ここまで言われるとぐうの音もでないかもしれません。かっこいい女性です!今日、アビガイルのような霊性、知恵、カリスマ、使える中で、教える中で与えてくださいと祈り歩みます。

Saturday, March 29, 2014

人が話せる人と話せない人

(第一サムエル25章17節)「今、あなはどうすればいいのかよくわきまえて下さい。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです」ダビデはナバルの羊たちや、若者たちを壁となって守ってあげました。それは、命をかけて守ったということです。しかし、それに対してナバルは反対の姿勢、とんでもない態度で返しました。怒ったダビデの行動を若者は主人の妻であるアビガイルに伝えます。「どうしたらいいのかわきまえて下さい」と。逆にナバルは「誰も話したがらない」と言います。私は果たしてどうでしょうか?人がアドバイスしてくれたり、もしも、自分が間違った時に痛い言葉を言うときに「聞く耳のある人でしょうか?」また「人が話したい」と思う人でしょうか。愚かさは、人の話を利かない高慢さから始まります。自分が正しい、と思うところから始まります。今日、人の話を聞く謙遜さを持ちたい、と思います。移民教会の中で聞ける、話せる人になりたい、と思います。また、アビガイルのように謝る時は徹底的に、最高以上のものを持って仕える勇気を持って来たい、と思います。その力は主イエスから来ます。主イエスにある謙遜なリーダーとして仕えます。

Friday, March 28, 2014

心を使う人生

(今日のQT):第一サムエル25章8節「あなたの若者に尋ねてください、きっとそう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手元にあるものを与えてください」お金持ちだけど、頑迷で、行状の悪いナバルと聡明で、美人であるアビガイルの夫婦が出てきます。ダビデが野にいた時もナバルの若者たち、羊たち、彼の起業をまもってあげたのに、ナバルはののしり、悪口をいって、追い返します、自分が誰か?人に何をしてもらったか?相手にすべきことは何か?(もちろん、神様の心は何か?)まったく分からないナバルです。人生どう生きるべきか?お金あっても、成功しても、人としての道を知らないのです。今朝、私が思ったことがある来客のことです。自分がOVERして良くしてあげすぎかな?と思っていたときに、今朝のみ言葉を聞きました。心を尽くして、喜びを持って、その人に仕え、奉仕し、祝福してあげたいと思います。アビガエルのような知恵と心を持って、人のミスをカバーしきる心を持ちます。

Thursday, March 27, 2014

愛する人は神様の計画をなす。

今日のQT:第一サムエル24章19節「人が自分の敵を見つけた時、無事にその敵を去らせせるであろうか。あなたが今日、私にしてくれた報いとして、主があなたに幸いを与えられるように」悪に悪で対すると、返すと永遠の鎖で縛られます。しかし、悪に善で、しかも愛で返すなら、永遠の自由です。愛を持ってゆるすなら、更に愛するならイエス・キリストの十字架の勝利が与えられます。サウルはダビデを神様の計画で立てられた王であること、認め、宣言し、自分たちの家族を残してほしい、と誓わせます。ダビデはこれを将来も守ります。本当に誠実な人です、あまりにハードルが高すぎます。その秘訣はどこからでしょう、神様の愛からです。OTにまだ予表しかされていない、キリストの十字架の愛です。命を救われて感謝しない人は言ません。まして、自分が殺そうとした人に向かって。イエス・キリストは私にそうしてくださったのです。神様がされたのです。神様に従うダビデを通して奇跡が、愛がなされました。今日、神様の愛にしたがって生きます。

Wednesday, March 26, 2014

勝利を握ったのは誰だ!?(

第一サムエル24章10節)「実は今日、いましがた、主が洞穴の中で私の手にあなたをご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私はあなたを思って、私の主君に手を下すまい、あの方は主に油を注がれた方だから」と申しました。サウル王は、3千人の精鋭を持ってダビデを捕らえ、殺そうとしましたが、逆に洞穴でダビデと部下の手に入ったのです。しかし、ダビデは「油注がれた方、主君」に手をかけませんでした。自分を殺そうとする人に復讐しませんでした。大きなポイントです。主に預けたのです。自分の潔癖さを証しすることが今も出来ますが、未来も出来る選択をしたのです。何よりも、完全に神様に任せること、復讐をしませんでした。復讐は必ず自分に帰ってきます。究極の勝利は、何か、また誰のものでしょう?神様の裁きです。神様の勝利は、自分で裁かない、復讐しない、ことです。言葉で言うほどやさしくありません、なぜなら自分の身の危険が及ぶ状態で、誰もがそうして良い、という状況でおこったからです。今日、主にある赦し、愛を宣言します。しかし、主イエスはそうされませんでした、十字架で自分をあざけるものを今すぐに降りて裁けるのに、彼らのために、いや私のために十字架でしなれたのです。今日、自分に下さった愛する権利を、裁かない権利を用います、最高の勝利を下さる主イエスを賛美します。

Tuesday, March 25, 2014

神様の手にあるから、恐れるな!(

第一サムエル23章17節)「彼はダビデに言った、恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです」ヨナタンはなぜ、ダビデにこんなことがいるのでしょうか?現実は必死になって逃げているダビデに、王宮にいて安全で入れるようなヨナタンが言う言葉です。普通なら、何言ってるんだ、というところになるでしょう、何の根拠を持って?と言われそうですが、その根拠があるのです「神様の手にある」人は、たとえ、世の中の王が力、権力、権威、悪巧みを持ってしても、いろんな人の力をもってしても、捕らえれることが出来ません。神様の手にあるからです。こんなことを知って、言ってくれる信仰の友がいるでしょうか?また、私はそんな信仰の友になっているのでしょうか?そのために、私は主の声を聞いて、従っているのでしょうか?友に愛しているでしょうか?今日、あるグループからとまっていたメールが来ました。また、愛して、仕えて生きたい、と思います。神様の手にあるものとして怖れを取り除いて、神様の守りを体験します。

Monday, March 24, 2014

出来る、出来ないでなくて神様に聞け!

第一サムエル23章1節;その後、ダビデに次のような知らせがあった「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています」そこで、ダビデは主に伺って~3節「しかし、ダビデの部下は彼に言った。ご覧の通り、私たちはここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かっていけるでしょうか~」)ダビデは、ケイラがペリシテ人に略奪されているのを聞いて、いてもたってもいれず、神様に伺います。すると、行け!と主は言われます。その時に、部下たちはここで逃げて恐れているのに、向かって行けますか?と言います、正論です。しかし、神様の民はそうでありません、自分が出来るか、出来ないは関係ありません。どうしたいか?自分が大変でも、自分の民が大変な目にあっている、いてもたってもいられない、神様どうしたらいいですか?それが大事です、私に出来ません、しかし、神様が行け、!というならできます。今朝、日本、韓国移民教会の上に、私が、私たちが神様のチャレンジをみて、できる人、いく人にしてください!神様のリーダーにしてくださいと祈ります。

Sunday, March 23, 2014

神様の真実を信じる人は、恐れない!

恐れるな!私といれば安全だ:今日のQT(第一サムエル22章)サウル王は祭司アヒメレクを恐れもなく、怒りをもって殺しています。そして85人の人々、町の人々、牛も家畜も殺します、自分の罪を悔い改めない人は相手を殺してでも、自分の罪を隠そうとします。しかし、アヒメレクははっきりと言いました。「汚名をきせないでください」王様の前でも、神様の前に立つ人は恐れません。しかし、残忍な死を向かえることになりました。彼の息子一人エプヤタルだけが逃れることが出来、ダビデのところに行きました。そのときにダビデが23節「私の命を狙おう者は、あなたの命を狙う、しかし、私と一緒にいればあなたは安全だ」と言います。何ということでしょう、普通に考えれば、自分が逃れることでも大変なのに、守る、安全だと言います。全然余裕なわけです。何故でしょう!?神様は必ず、サウルのしたことを明らかにし、祭司アヒメレクの潔白な無残な死を明らかにしました。神様に従う人は必ず守られます。安全を宣言できます、しかし、罪に縛られる人は恐れがあります。そして、罪のために人を殺してでも、隠そうとしますが、必ず神様の明るみに出ます、今日、神様の真実を信じて歩みます。

神様のリーダーシップとチーム

(今日のQT)第一サムエル22章1-2節「ダビデは」そこをさって、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たち、彼の父の家の皆のものが、これを聞いて、そのダビデのところに下ってきた。また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まってきたので、ダビデは彼らの長となった。こうして、4百人の者が、彼と共にいるようになった。
ダビデのところに親族がやってきます。どれほど、嬉しいことでしょう。家族は、どんな時も愛するものです。教会も同じことが言えます。神様の家族はどんな時も愛するものです。ところで、別のグループがダビデのところに来ます、困窮している者、負債のある者、不満のある者、です。これじゃ、役に立つ人とか出なくて、大変な人たち、行くところのない人が来たのです。かえって、大変な人です。しかし、ダビデは彼らのリーダーとなって行きます。後に、こんな彼らが変わってだびでのために命をかける人になります。教会の奉仕をしているといろんな人が来ます。こんな人が来たら良いな、という人もいるし、大変な人、困った人、自分のリーダーシップも受け入れない人も来ます。ある牧師が言いました、開拓教会は変な人や困った人がたくさん来る。大きな教会で相手にしてもらえないから。だから、24時間体制でその人々に仕えよ、神様はみていると。今日ダビデのリーダーシップを持って神様のチームを育てていきます。主よ、助けてください。

Friday, March 21, 2014

神様と一緒の試練:

今日のQT:第一サムエル21章13節「それで、ダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕らえられて狂ったふりをし、門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを流したり、した」ダビデは祭司のところを離れて本格的な逃避行を始めます(リビングライフをみると37KMの距離です)。そこは、彼が倒したゴリアテの故郷、ペリシテ人の土地(敵地)でした。もはや、敵地しか、ダビデにとっていることが出来なかったのです。ところが、そのガテで、ペリシテ人の口から「ダビデはイスラエルの王でないか」と言われるのです、そこで、彼は気が狂ったふりをします。それは徹底的に自分を卑しめる、低くなる時間でした。誰が、このようなところを通りたいでしょう。神様は今日ダビデにいろんな救いのみわざを見せてくれているのでありません。ただ、王様になる約束があるだけです。しかし、神様は祭司を通して食事を、武器を供給してくださいました。今日、私は祈ります、私の状況が微弱でも、神様のビジョンを持って祈ります。リーダーシップ、チームワーク、未来像を持って準備します。その前に、今日、低く、謙遜に主に従います。何より、神様が共にいてくださる愛に、配慮、計画に賛美します。従います。

Thursday, March 20, 2014

神様は必ず供給される

(第一サムエル21章)1節「ダビデはノブの祭司アビメレクのところへ行った~」3節「ところで、今、お手元に何かあったら、5つのパンでも、何か、ある物を私にください」8節「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか」ダビデは最初の逃避行を祭司のところに行きます。以前にイスラエル製地良好に行ったのですが、サウル王のところから数キロも離れていない距離です。なぜ、遠く逃げなかったのでしょう。なぜ、軍勢や、お金持ちのところに行かなかったのでしょう。人間ならそういう考え、行動、目の前にあることを選ぶのが普通でしょう。人間的に動かず、神様のところに行ったダビデに必要な、パン、そしてあるはずのない武器が与えられます。今日、私の必要を人間的な行動や計算で動くのでなく、まずは神様のところに持って生きます。神様の供給を信じて歩みます、アーメン。

Wednesday, March 19, 2014

危険な時も、真実な二人

(第一サムエル20章41-42節)「ダビデは南側のうほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合ってな泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた」「ヨナタンはダビデに言った。私たち二人は、主が私とあなた、また私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です、と言って、主のみなによって誓ったのです。こうして、ダビデは去った、ヨナタンは町へ帰った」サウル王はダビデを殺すこと、そのダビデをかばうヨナタンさえ侮辱し、攻撃しました。しかし、①ヨナタ...ンは彼の評判や、王からの権力、また父親との関係が難しくても、真実にダビデへの約束、態度を変えることがありませんでした。これは、難しいことです、いかに真実に友人と付き合っても、「出来ることとできないこと」がある、と言ってしまわないでしょうか。それは、「彼らが抱き合って泣いた」という態度からも分かります。このような男性の友情もって行くのは年をとるほど難しい気がします。こんな友情があったら良いな、と思うのと自分がそれほどに真実な信仰の人か?と思います。今朝、祈りました。こういう愛する友人を与えてください、自分も愛される友人にしてください(これは、結構もらっている気がします)また、②ダビデはヨナタンに「安心して」平安に、行きなさい、と送り出されます。こんな命の危険の中で「どうやって安心して、平安に」と言えるのでしょうか?それは、人間的には町に帰るヨナタンとどこにいくのか分からないダビデじゃ違う気がします。しかし、神様の下さる平安は余の与えるものと違います。たった、一つ信じる神様と歩んでいくのです。今日、主の下さる信頼から来る平安をもって歩んでいきます。もっと見る

Tuesday, March 18, 2014

同じ怒りでも、違うところからきている

(第一サムエル20章)今日のQT;30節:サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った「このばいたの息子め、おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分を辱め、自分の母親の恥をさらしているのを、」サウルはヨナタンがダビデをかくまうのを怒ります。権威や王位は神様からのもであることを忘れる時に、人間的な守りに入ります。そして、人間の力で権力で守れると勘違いします。恐れのあるひとは、傷のある人は、コンプレックスのある人は過剰に反応します。サウルは息子に向かって、王位を譲位しようとする王子に差別用語を使いました、普通に人として、クリスチャンとして無理がある態度、言葉です。34節「ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、」ヨナタンは自分のための怒りでなくて、父がダビデを侮辱したことを心痛めました。それは、神様の立てた人を受け入れず、憎しみの中にいることです。今朝、私が黙想したとは、①自分の中にサウルのような傷、怒り、劣等感がないのか?②ヨナタンの従順さ、愛、真摯さ、でした、両方から学ぶ必要があると思いました。ヨナタンだけなら良いですが、本当に正直に見る必要があります。サウルのようにならないようにある部分があるからこそ、神様が語ってくださいます。今朝、主の愛の中で癒しを求めます、主の愛に従順します。

Monday, March 17, 2014

従順すると、愛する

:今日のQT:(第一サムエル20章14節「もし、私が生きながらえれば、主の恵みを私に施してください、たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください、主がダビデの敵を地の面から一人残らず立ち滅ぼすときも」)ヨナタンは主の前に、ダビデを守ることを誓います。それは、主を恐れ、愛する信仰でした。また、ヨナタンは知っていたのです。ダビデが主に油を注がれた人であることを、神様の計画を。自分が王位を継承できないなら、人は相手に決してよくして上げれないでしょう。サウル王がそうです。自分の権威にしがみつこうとし、ダビデを殺そうと、嫉妬し続けました。しかし、ヨナタンはそうでありませんでした。神様の計画を知り、自分が王位でなくても、神様の最善に従ってのです。それは、自分にも自分の子孫にも祝福になりました。今は目の前は、ダビデが死ぬかどうか?危険なのに、ヨナタンは神様の計画を知り、従ってのです。うらみ、ねたみ、攻撃、復讐をしませんでした。神様の計画を知り、そして従う人は愛します。愛することを選びます、なぜなら、神様は愛だからです。今日、主の計画に従い、愛します。

Sunday, March 16, 2014

真実な人に真摯な助け人がつく、

真実な人に真摯な助け人がつく、第一サムエル20章1節「ダビデは、ラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来ていった。私がどんなことをし、私のどんな咎があり、わたしがあなたの父上に対して、どんな罪を犯したというので、父上は私の命を求めておられるのでしょうか」ダビデは、ヨナタンのもとにいったときに自分の潔癖を照明できる人生がありました。また、サウル王に殺されかけた時に決して復讐してきませんでした(これは、難しいことです、人は攻撃されたら、攻撃し返します。そうして当然だから、と思うからです、)社会ならそうでしょう、しかし、神様の国はそうでありませんでした。ダビデはそのように生きたのです。そのダビデに、神様は真実な友を、助け人を与えてくださいました。ヨナタンはいいます、4節「あなたの言われたことは、何でもあなたのためにしましょう」こんな友人がいるのでしょうか?命を欠けてくれる友人を持っているでしょうか?また、命をかけて友人を愛しているのでしょう。本当にうらやましい限りです。今日、まずは、自分自身が主にある真実な人生を歩んでいきます。

Saturday, March 15, 2014

逃げるべきところにいくと、全てのわざわいから主は守られる

(第一サムエル19章)ダビデがサウル王またに命を狙われます。彼のいったところはどこでしょうか?彼を守ってくれたのは誰でしょうか?ラマのサムエルのところです、祭司のところです。守ってくれたのは女性、彼ことを愛する妻ミカルです、父のことよりも、主人であるダビデのことを守りました(これ、大事なことです)何が起こったかを祭司に話しました、神様の指導者に苦難を話しました。武装集団のところに逃げたのでなくて、武力では何も出来ない、しかし、もっともおそるべき神様のしもべのところに行きました。私たちは果たして苦しい時、大変な時に、逃げるべき、ところ、正しい人に言って(行って)いるでしょうか?今朝、こんな賛美が思い浮かびました「主のみなかかげよ、主のみながかげよ、尊き主のみなほめよ、×2、主のみなは強きとりで、駆け込むものは守られる!」強き砦なる、主を賛美します。一番行くべきところ、祈りに行きます。

Friday, March 14, 2014

ただ、愛するしか理由がない

(第一サムエル19章)1節「サウルはダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛した」4節「王よ、あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません、彼のしたことは非常な益となっています」ヨナタンは、ダビデのことをとりなしました。サウル王の殺害計画をダビデに知らせて。ヨナタン自身がとりなしをすることをかってでました。ヨナタンは父に、王よと王様の前に出ます。これは、父という関係を抜いて、権威者の前に出ることです。彼は命をかけてダビデをとりなしました。間違った父に、王様に、「罪を犯さないでください」とはっきりと彼の過ちを伝えながらも、ダビデの貢献が命をかけたものであったか、証ししました。ヨナタンがダビデへの神様の思い、正義を伝えたのは、何のためでしょうか?ただ、愛するためです。神様の友って教会のこういうことでないでしょうか?教会の交わり、クリスチャンの交わりってこういうことでないでしょうか?あまりに遠い自分がいます。今朝、私の仕える教会、地域教会のために、普遍教会のために祈りました、愛するだけでダビデを救う奇跡が起こりました。今日のリビングライフの表題のとおりに人を生かしました。愛する人を生かす教会、バイスタを、主がされるように私を、私たちを用いてください。

Thursday, March 13, 2014

人の悪巧みにあっても、自分のBEST以上ができる人、

第一サムエル18章17節「サウルは、自分の手を下さないで、ペリシテ人手を彼にくだそう、と思ったのである」20節「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた」27節「ダビデは立って、彼と部下とで、出て行き、ペリシテ人2百人を打ち殺し、その陽の皮を持ち帰り、」サウル王は、自分の権威を守るために、自分の家族さえも利用します。人の陰謀は、悪巧みは時に一番だ以内、守るべき家族さえ壊します。間違った恐れは、罪は悔い改めない時に、自分を家族さえ壊します。気をつけないと!さて、ダビデは最初の約束であったサウル王の上の娘をもらえなかった時、彼は不平や不満も悪い態度もとりませんでした。尊敬すべき態度です。見習わないといけない部分です。何故でしょうか?神様を信じるからです(Y先生のいっていたBELIEVEでなくてTRUSTでしょうか)神様の最善の計画、いや神様ご自身を信じているからです。そのときに、不平不満も言わずに、ちゃんと神様の用意してくださったサウル王の娘であるミカルを得ることが出来ました(この後も聖書に出てきますね、奪われて取り返しますし)。サウル王がペリシテ人の陽の皮100を要求してダビデをわなにはめた時にも、逆に200をとってきます。難しい状況、陰謀の中で、かえって神様の計画を信じる人はベスト以上をします、仕事ってベストを尽くすのが当たり前の中で、私たちは迷うのはなぜでしょう。今日、神様のメッセージをベスト以上に、神様の祝福で仕えていき、伝えます。

Wednesday, March 12, 2014

神を愛する人は恐れがない

(第一サムエル18章12節、16節)サウルはダビデを恐れた。主はダビデと共におられ、サウルのところから去ったからである。16;イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動したからである。神様を愛する人に、神様を正しい意味で畏れる人には、人を恐れることがありません。なぜなら、全能の神様に愛されているのに、罪赦されているのに、正しい関係を持っているのに、人を恐れる必要がないからです。サウルは神様の霊が離れたことで恐れました、なぜなら、権威をつかんでいたかったからです。王位は神様からのものなのに。彼にはチャンスがあったのに悔い改めることが出来ませんでした。いや、しませんでした。今日の主の前に「日ごとの悔い改め」それが、主イエスとの関係を正すKEYです。していきます。主が私を愛してくださるように、私も主イエスを愛していきます。ダビデは「人の先に立って戦い」ました。死の危険があることです。しんどいこと、面倒くさいこともしたダビデです。でも、神様を畏れる人に逆に恐れがありません。主のリーダーシップです。先頭に立って仕えます。

Tuesday, March 11, 2014

国の運命を変えた信仰者

国の運命を変えた信仰者(第一サムエル17章50節)「こうして、ダビデは石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このぺリシテ人を撃ち殺してしまった」55節「」アブネル、あの若者は誰の子だ」ダビデには、剣も道具もありませんでした。持っているもので、神様の勝利は左右されません。それだけでなくて、アブネルやサウルも誰か、どこの戦士か、と確認しないといけませんでした。神様の勝利は戦士かどうか、さえも関係ありません。勝利を下さるのは主であり、用いられる私たちに理由はありません。私たちは信仰を持って応えるかどうか、です。どれほど、驚くことでしょう。一人の信仰が、ダビデが、イスラエルの共同体、教会を変えたのです。私のすべきことは何でしょうか?この共同体、信仰もって、教会のリバイバルに向かって、何も動かないように思えるところにも、信仰のリーダーとして伝道、牧会に向かうことです、主よ、ばかのように信じ、キリストの勇士にしてください。

友を得る人と嫉妬して失う人

(第一サムエル18章、1,8節)「ダビデがサウルと語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは自分と同じほどにダビデを愛した」4節「ヨナタンは着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯まで彼に与えた」ヨナタンはダビデを愛して、与えます、何の装備もなかったダビデに全てを与えて、愛します。しかし、父親であるサウル王は「この言葉を聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。ダビデには万を当てて、私には千を当てた、彼にないのは王位だけだ」サウル王は、嫉妬し、怒り、恐れました。神様の下さった勝利、祝福を素直に受け取ることが出来ませんでした。また、何よりも神様の国リーダーは主ご自身であること、自分は神様に立てられているに過ぎない、ということを認めることが出来ませんでした、しかし、ヨナタンはそうでありませんでした。はたして、私は神様の友を得ているでしょうか?人の成功に祝福し、足りないものを喜んで与えているでしょうか?また、愛されているでしょうか。それは、神様の主権の下にあるときにできます、今日、神様の友を与えられて、愛して、生きます。

Monday, March 10, 2014

主の勝利をがんがん、宣言せよ!

第一サムエル17章「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される」ゴリアテは、ダビデが若いと侮りました。目に見えるところだけで、判断して自分の力を過信する態度でした。まさに、神様を知らない人はこういうことです。しかし、ダビデは世の中の全ての力を動員しても、主のみなは侮ることが出来ません。必ず、勝利します。私たち人間に出来ることは信仰を持って勝利をあらかじめ、宣言することです。今朝、教会の賛美礼拝があることを覚えました。でも、勝利を宣言せよ、とは本当に簡単でない、と思いました。私に何があるか、相手がどうかでなくて、神様に勝利がかかっています。賛美礼拝は人数は少なめでしたが、大きな恵みと祝福がありました。もっと、もっと、主の勝利を強く宣言します。この程度じゃないでしょ、と主がいわれている気がしました。もっと、大胆に主の勝利を宣言します、もっと、主イエスの勝利を叫びます。この戦いは主の戦いだ!と。

Saturday, March 8, 2014

Be strong! and courageous

今日のみ言葉、ヨシュア1;9「Be strong and courageous. Do not be terrified; do not be discouraged, for the LORD your God will be with you wherever you go."」そして2KINGS3;15-20But now bring me a harpist.” While the harpist was playing, the hand of the Lord came on Elisha 16 and he said, “This is what the Lord says: I will fill this valley with pools of water. 17 For this is what the Lord says: You will see neither ...wind nor rain, yet this valley will be filled with water, and you, your cattle and your other animals will drink. 18 This is an easy thing in the eyes of the Lord; he will also deliver Moab into your hands. 19 You will overthrow every fortified city and every major town. You will cut down every good tree, stop up all the springs, and ruin every good field with stones.”今日、サラン教会でGLOBAL LEADERSHIP SUMMITというのに出ました。そこで、語られたメッセージはこの2つでした。いつ、リバイバルするのか?いつ起こるのか分からない中で、しるしが見えない、雨が見えないでなくて、信仰を持って進め!でした、強くあれ!BE STRONG,恐れるな!DO NOT BE TERRIFIED! LORD YOUR GOD WILL BEWITH YOU.教会をどうしたらいい、とどまるな!分からない、信仰もってすすめ!ノアは洪水が来ると聞いて箱舟を作ったのです。雨が降るまで待っていませんでした。主はおおせられる、この谷に溝を掘れ、掘れ、主はおおせられる、風も見ず、大雨も見ないのに、この谷に水が溢れる。私にとってドンピシャ!のみ言葉でした。おまけに、ヨシュア、エリシャという2代目のミニストリーのメッセージ、心に来ました。私が何を持っているかでなくて、相手が誰かでなくて、神様の水が溢れることを信じます!信仰もって歩みます!
20 The next morning, about the time for offering the sacrifice, there it was—water flowing from the direction of Edom! And the land was filled with water.
朝になって、ささげものをささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れてきて、この地は水で満たされた。アーメン。

まことのリーダーとは本当のはかりを持つ、

第一サムエル17章33節「サウルはダビデに言った、あなたはあのぺリシテ人のところにいって、あれと戦うことはできない、あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから」37節「ついで、ダビデは言った、獅子や、熊のつめから救いだしてくださった主は、あのぺリシテ人からも、私を救い出してくださいます」サウル王のはかりは、現実でした、目に見えることでした。当たり前のこと、経験だけでした。しかし、ダビデは信仰もって神様の救いを確信して、宣言しただけでなくて、立ち上がりました、私のはかりは何でしょうか?出来るかどうかは、自分が誰か?相手が誰かでなくて、神様が私を用いるかどうかです!神様の陣を侮る、ことはありえないことです。また、日本の教会が小さいとか関係なく、神様の泉を掘るかどうかです!ことをなさるのは神様です。雨を降らせることは、リバイバルは神様のなさること、です。自分のすることは信仰もって宣言することです。今日、主のみ技を信じて歩みます。

自分が何を持っているのか?相手が誰かでない

。第一サムエル17章25節「この割礼を受けてない」ぺリシテ人は何者ですか?生ける神の陣をなぶるとは」イスラエルの人々は巨人ゴリアテをみて恐れます。自分は何も出来ないと思います。誰も神様の名前を呼んで祈りません、賛美しません。サウル王さえも権威があるのに、信仰もってリーダーとして影響力がありません。しかし、何もない若者のダビデは違いました。自分が何もっているのか?誰か、関係がありませんでした。神様を侮ることをゆるしませんでした。相手が巨人でも、割礼を受けてない、と断言しました。昨日、一人で路傍伝道に行きました(実はほぼ毎日今週はしました)ある学校に言ったときにINTERNATIONAL PARTYをしていました。思わず、自分が小さく、弱い存在や、恥ずかしい、緊張に押し出されて、一度歩いて祈って戻ってきました。自分が誰かでなくて、なにを持っているのかでなくて、イエスがいるクリスチャンとして、教会として路傍伝道して声をかけてみました。主イエスを誇り、その力を信じて歩みます、まだまだですけど、もっとはっちゃけて伝道します。主イエスのみなを賛美します。

Thursday, March 6, 2014

GIANTに立ち向かえ!

乗り越えれれない壁を信仰もって勝利せよ!第一サムエル9.11「サウルとイスラエル人は、このぺリシテ人のことばを聞いたときl、意気消沈し、非常に恐れた」イスラエル人はぺリシテ人のゴリアテを見たときに勝てない、恐れます。負けた、乗り越えれない壁と感じます。無理だ、と思います。これを朝読んだ瞬間、私はどうか?と思いました。教会が壁を乗り越えれない、リバイバルなかなか出来ない、賛美礼拝を前にしてどれだけ人が集まるのか?恐れが起こります、乗り越えれない壁をいつ破れるのか?どうしたら良いのか分からない?と思っている自分の姿を見ました。そうじゃない!神様の民として、神様の人として立ち上がれ!信仰もって宣言しろ、クリスチャンが、日本の教会が、イエス・キリストの教会がなぶられていいわけがないのです!神様は侮られる方でないのです。今日、誰も、神様と言う単語を言う人がイスラエルにいませんでした、王様さえも!今日、主イエスのみなを呼びます、信仰もって勝利を宣言して歩みます!ハレルヤ!

Wednesday, March 5, 2014

次世代を準備される神様:

第一サムエル16章14節「主の霊はサウルを離れ、主からのわざわいの霊が彼をおびえさせた」23節「ダビデはたて琴を手にとって、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた」サウル王は神様に従わないときに「おびえました」そのために、ダビデが①賛美もし、②勇士であり、③言葉に分別もあり、④主が共にいる人を呼ばれました。何ということでしょう、退けられたサウル王のところにダビデが呼ばれたのです!これから、いろんな苦労がダビデの中に起こります。しかし、それはダビデを訓練する神様の計画でした。決して、サウル王と同じ道を歩まない、訓練のスタートでした。このような方法でなくて、別の方法で王になるのを人間は考えるかもしれません。しかし、これが神様の方法でした。はたして、私はこのように難しい、悪い王様の前に仕える訓練、計画があっても、よく仕えてきたでしょうか?よく仕えているでしょうか。神様は見ています、それは長い時間の後に自分が受ける結果、実となります。今日のLIVINGLIFEの例話を書いているのが金ナムジュン先生であるのがいろんなことを思い出した。金先生が神学校の講義で「悪いリーダーの下で学ぶこと、神様の訓練」を語ってくれたことを思い出した。あれから時間がたちました。今日、主にある計画、愛を心から信じて、仕えていきます。主よ、助けてください。あなたの謙遜な仕える姿に似せてください。

Tuesday, March 4, 2014

大事なのは、心!

第一サムエル16章7.13「人はうわべを見るが、主は心を見る」「サムエルは油の角をとり、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ、主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」神様が見るのは、①どんな心か?聖いのか?人はみかけや実力、権威、カリスマ、そういう外見を見ます。しかし、神様は神様と親しくあるのか?交わりをするのに邪魔なものが無いのか?見られます。何よりも、神様の国はKINGDOM OG BULIDERは、神様が王なのか?私はしもべなのか?人を支配するのでなくて、愛で仕え治めます。②健康な人なのか?体の意味だけ縛られているのでなくて、魂が健康な人なのか?です。そこで、③主の霊が激しく下ります!それでこそ、新しい働きが始まります。今日、主の前に自分を整理します、主の清めの中(誰が見ている出なくても、神様は見ています)歩んでいきます。人の目には小さいことからスタートします。主よ、きよめてください

Monday, March 3, 2014

悔いることの無い神様が悔いる、

第一サムエル15;35「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかし、サムエルはサウルのことを悲しんだ、主もサウルを王とされたことを悔やまれた」サウル王は、主なる神様が王として退けられたことを聞いて、謝りつつも「民を恐れた」とまだいい訳をします。そして、礼拝に行かせてください、人間的な問題へのアフターケアをしようとします。これこそ罪の自己防衛システムです。しかし、サムエルは神様の心をはっきり語ります。今朝、気がついた主のしもべの特徴は①罪に対して徹底的にNOと言います、アマレクの王をずたずたに切ります。戦士でもないのに!です②神様への徹底的な従順です、人より神様を畏れるからです。③それでいて、愛を持っていることです。はたして、私はどうでしょうか?神様が悔いるようなしもべにならないよう、祈りました。また、さっきの3つのうちの全部を同時に持つ、本当に難しいことです。義に立つと愛が欠けます。愛にたつのが情に変わったりします。神様、私を憐れんでください、きよい怖れをもいつも持たせてください。

Sunday, March 2, 2014

神様に従順する人は素直で、強い。従順しない人はいい訳、と人のせいにする

。第一サムエル15章11節「私はサウルを王に任じたことを悔いる、彼は私に背を向け、私の言葉を守らなかった、それで、サムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ」、15節「民は羊と牛の最も良いところを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました」サウル王は、神様の命令に従順しない時に「むなしい言葉」を言いました。守りました、しかし、それは部分的で、人間的に価値の無いものを聖絶したのです。サムエルが、問い詰めると「民が、惜しんだ」と言いわけしました。そして、そのほかの物を聖絶しました、と言いました。全部を聖絶しない、と神様は言われたのです。それでこそ、聖絶なのです。更に問い詰めるサムエルに「アマレクの王を聖絶した、残りのものをささげもの」とするために、残した、と更にいい訳を作ります。普通に人にものを捨ててきて頼まれた、いや、これはあなたに必要だから、と言って残した、としても気分の悪いものです。神様に従う人は素直で、正直に、たとえ王様が相手でも言うべきことを言える真の強さを持ちます。逆に、神様に従わない人は、いい訳をし、人のせいにして、最後には神様を侮ることになります。まさに、偶像礼拝、従っても良い、従わなくても良い、歩みをします。今朝、神様のみ言葉に従う素直で、神様の強さで主の礼拝に仕えていきます。

Saturday, March 1, 2014

100の議論にまさる一つの従順

、第一サムエル15:1「サムエルはサウルに言った、種は私を遣わしてあなたに油を注ぎ、その民イスラエルの王とされた。今主の言われることを聞きなさい」サウル王に神様は余れ区の聖絶を言われます。彼は、敵を討つところまではします。しかし、大事な略奪品(肥えた羊、牛の最もいいもの)は残します、そして価値の無いものを聖絶します。これ、なんて失礼な話でしょう。人の考えに合うものはして、自分の考えに会わないことをしない、しかも、価値の無いものを聖絶して、いいものは残す。もしも、全部聖絶するなら神様はもっといいものを、何倍にしても、何百にしても下さるのに。何のためにサウル王は油を注がれたのでしょう、業績を人間的に残すのでなくて、神様の心を最後まで、完全にするためです。今日、自分にとって自分の考えや、自分にとって価値のある、ものをおいて神様の心をなすために、歩みます。最後まで、100%混ぜ物しないで奉仕する、なんて自分には難しいことでしょう。しかし、神様の油そそぎを、選びにしたがって歩んできます