Tuesday, May 31, 2016

ゼカリヤ11;12「人の命は天下より尊い

今日のリビングライフPLUSゼカリヤ11;12「人の命は天下より尊い」
11:13 主は私に仰せられた。「彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。」そこで、私は銀三十を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。
神様は言われます、「人一人の魂は天下よりも尊い」と。そんな私(たち)を愛されて、イエス・キリストは人としてこの世にこられて33年の生涯を送られました。そして、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられました。そんなイエスは12弟子の一人であったイスカリオテのユダに裏切られました。そのユダは裏切りの代価をいくら受け取ったでしょう?(マタイ26;15、ルカ22;3)26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。それは、何と銀貨30枚だったのです、特別価格でもなく、この額は奴隷が売り買いされる額で、または、牛が誤って奴隷を殺した場合の賠償額でした、神様の子を売ったにはあまりに安い額でないでしょうか?敵に売り渡すにも、特別な利益のある額と思えない額でした。イエスはまさに一番安い、奴隷の額で売られたのです。そうです、それは、私を愛して「あなたの魂は天下より尊い」と言われた愛の犠牲でした。
神様は、私たちのことを「あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」イザヤ43;4と言ってくださり、十字架で殺され、捨てられて、踏みつけられたのです、それは、私を救うために卑しくなれたのです。神様は、あなたが、私がどんな痛みがあろうが、過去があろうが、傷があろうが、あなたは高価で尊いと言われます。今日、私を救われたイエスの愛に感謝して、永遠の命なる主イエスの愛を伝えていきます。「あなたは高価で尊い」のです。

Thursday, May 26, 2016

今日のQT、平和と柔和、謙遜な王イエス・キリスト

ゼカリヤ9;9ー17、神様の好まれる人とはだれか?
OT(旧約聖書)ゼカリヤ書からのQTが続いています、
●ゼカリヤ書は全部で14章で、①1-6章までは「8つの幻」を通して神様の計画を語ります。②7-8章は「勧めの言葉」、③9-14章は「イエスについての預言」イエスの初臨、苦難、十字架、復活、再臨の預言があります。
一見、難しいイメージのあるOT,預言書ですが、ゼカリヤ書は、イエスについて語られて非常に面白い、希望のあるメッセージがあります。ともに楽しんでQTしていきましょう。
9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。...
神様の好まれる人はどんな人でしょうか?それは「謙遜な人」です、逆に神様から遠くある人は「高慢な人」です。人のいうことを聞かず、神様の言うことを聞かない人です。主イエスはもっとも謙遜な、柔和の王としてこの世に、私たちを愛して、天国の栄光を捨てて人の体をもってこられました。私たちを罪から、死から、捌きから救うために来られました。もっとも、そうならなくてもいいお方が低くなり、謙遜に、卑しくなられて来られました。その方は「ロバの子」に乗ってこられました。スピードのある馬でもなく、力のある牛でもなく、荷物や軽いものを運ぶろばに乗ってこられました(皆さんはろぼに乗ったことがありますか?私は小学生一年の時に乗りました)、そんな子供させ乗せる、ロバに、平和と柔和の王であるイエスは、私たちを愛してこの世に2000年前に来られました(今日のゼカリヤはBC520年ごろに書かれた、と言われ、新約聖書の4福音書全部に記録されている預言の成就です、マタイ21;1-9、マルコ11;1-10、ルカ19;29-38、ヨハネ12;12-15、イエスの十字架はAD30年ごろ)今日、主イエスにある謙遜な、柔和な、イエスの姿に習う人生を歩んでいきます。

Tuesday, May 24, 2016

今日のQT:人事を尽くして天命を待つ人

今日のQT:人事を尽くして天命を待つ人
ゼカリヤ10;1「後の雨の時に、主に雨を求めよ、主は稲光(いなびかり)を造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる」神様は祝福を下さるのが好きな方です。しかし、私たちはどれほどそれを知っているでしょうか?信じているでしょうか?期待しているでしょうか?人生の難しいこと、挫折が続いたこと、壁を乗り越えれないことに、期待ができないことがあるのでないでしょうか?今日の聖書の箇所を理解するために、聖書の舞台であるイスラエルには、雨季と乾季があります。雨季には、「初めの雨(秋の雨)」と「後の雨(春の雨)」があります。そして、秋の時期「初めの雨」が降って柔らかくなった地を耕し種をまきます。そして春の時期「後の雨」が’来るの待ちます。春に秋が降って植物が成長し、収穫を迎えるのです(イスラエル周辺5カ国を聖地旅行した時にガイドさんから聞いた話しです)この話を聞いたときに、イスラエルの気候はすごく信仰について教えることがあると思いました。私たちは信仰を持って100%BESTを尽くして、仕事をし、人生をいき、歩まないといけません。しかし、同時に100%神様の恵みなしに大収穫はありえません。後の雨が降らないとすべてが水の泡になります。今日、ベストを尽くして、奉仕をします。また、神様の後の雨を求めて、恵みを求めて歩みます。

Thursday, May 19, 2016

ゼカリヤ1;1-21 Living Life plus alpha

ゼカリヤ1;1-21
今週から、ゼカリヤのQTが始まりました、ちょっと難しいかな?と思い、何か助けるになるようにリビングライフプラスαをします
ゼカリヤは、旧約聖書の中の預言書です。...
◎いつごろ書かれた?:BC520年ごろに、
●どこで?:バビロンに滅亡させられてバビロン捕囚になって70年目になるころ、バビロンで
捕囚にされた後期に、神様の言葉が臨みました。
1:1 ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。
→M:主の言葉があった、とあります。ハングルでは臨んだ、臨在した、とあります。私たちの人生に、神様の言葉、が臨在したことがありますか?知識でも、文学の水準でもなく、生きている神様の言葉を体験したことがあるでしょうか?一度も、神様の言葉が私の人生に臨んだことを体験したことがないのなら、残念で、悲しい、もったいないことです。神様の言葉を自分の中で体験することを願います。今日、神様の言葉が私の中に、体験できるように、語られるように、私の人生の中で住まわれるように、心を開いて読み、求めましょう。
1:2 主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。
→M:主の臨在された言葉は、「激しく、怒られた!」です。そうすると、普通次に来る言葉は、裁きであったり、審判であったり、お前とは終わりだ、関係は終わる、離れる関係になります、しかし、
1:3 あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ。――そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。
→M:主の言われることは、「私に帰れ」です。普通は、離れる関係が戻ってきなさい、帰ってきなさい、です。逆です。ここから学ぶことは何でしょうか?神様の願いはともにいたい、ということです。そうでないイスラエルの民(神様を信じる民)が、不従順したり、偶像礼拝したり、罪を犯すことに、「帰れ」と言われます。そうすると「私もあなたがたに帰る」と言われます。私たちは、罪を犯したり、間違うときに、神様を避ける傾向や、神様のところに行かない部分がないでしょうか?神様はそうでない、と言われます。かえって、来なさい、帰れ、と言われます。罪を犯したら、逃避するのは宗教です。かえって、罪を犯せば犯すほど、もっと教会に来て、もっと祈りに来て、悔い改めればいいのです。ある人が、クリスチャンになる前に奥さんのRIDEのために早朝祈祷会に来ることになり、こんな相応しくない者が、来ていいのか?と思ったそうですが、そこで恵みを受けて、イエスを信じることになったそうです。罪を犯せば犯すほど、礼拝に来て、祈祷会に来て、早朝祈祷会に来て、悔い改めて、教会に来て、恵みのところに来ることを願います、ともに主の前に出ましょう。神様の審判のSIGNの時に、神様から「遠く離れてしまうのでなくて、逃げるの」(それは、変な宗教意識です)でもなく、神様の近くにいましょう。

1:6 しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた。」と。
→M:間違った預言の書へのイメージを、誤解を解くために、私たちは「決定された運命論」を語られているのでない、ということがあります。
ましてや、「占い」のような恐怖で縛るものでありません。人格的に「神様とともに生きる」ために願っておられ、神様の言葉を預けられます、語られます、未来の起こることを単に語る予言でなくて、神様の言葉を預かる、預言です。
ゼカリヤは8つの幻を(1;7~6;15)見せられます。
1:8 夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。
→M:、赤は、戦争をイメージする、と説教者の先生によると言われ、栗毛とは、混乱、白い馬とは、勝利をイメージするそうです。そして、ミルトス「日本では普通ギンバイカ(銀梅花)」とは、「折れても、たつ」という希望、回復をイメージするそうです。ミルトスは切られた後も生命力が強く、枯れにくいところから、干ばつにも耐える強木として、だそうです。
⇔M:、神様はイスラエルに回復、立ち直ることを幻を通して、語れます。私たちの現状が難しく、大変なときに、神様の回復の、折られても、立ち直る祝福があることを祈ります。
そして、
1:12 主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」
⇔M:と、地をめぐる天使が、報告します。それは、「いつまで、あわれみを施さないのですか?」というあわれみを求める報告でした。こんな報告があったら、どれほどいいことでしょうか!「あわれみ」を願う、主の使いの報告です。神様の裁き、戦争、怒りが、落ちそうなところで、70年たっています、というあわれみを願う報告、そして、神様の回復がとうとう来ます。
1:16 それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』
1:17 もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」
→M:神様は、とうとうバビロンに70年いた捕囚のイスラエル、南ユダに回復を、あわれみを、下されて、よいものが咲き乱れる、と祝福されます。神様に帰るものに、このような祝福が、回復が待っています。今日、主に帰る、祝福を持っていきます。神様の回復を心から祈り、あわれみを求めて、祈り、信じます。
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Wednesday, May 18, 2016

栄光のGOALを目指す人生(QT:第一ペテロの手紙5章1節)
5:1 さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。ペテロは、手紙の中で小アジア(現在のトルコなど)に散らばっている聖徒へ伝えます。クリスチャンには、今受けている苦難を通して受ける未来の栄光があります。クリスチャンにとって、①罪を許され、受けた救い(過去形)、②現在の苦難の中で救いを歩む(現在進行形)、③イエスの再臨のときに完成される救い(未来形)があります、主イエスにある私の苦難はイエスの救いを完成させます。私の人格を練りきよめます。そして、主イエスの再臨時に大きな栄光を(神様の栄光)受けさせます。今日、苦難の中でも主イエスにある栄光のGOALを目指して生きます。

Tuesday, May 10, 2016

悪に善で、祝福で返す人生(第一ペテロ2;15-16)

悪に善で、祝福で返す人生(第一ペテロ2;15-16)
2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、2:14 また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。2:15 というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
神様の言葉を信じる人は、悪い状況の中でも、悪い権威者の下でも神様に期待します。だから、悪に善で応答できるのです。祝福で返するのです。神様を信じる人は、悪に対して善で返します。こんな体験がないでしょうか?「失礼な人や悪い態度の人に、腹が立って悪く返したら、かえって自分に悪いものが残った、とか後味が悪い」というようなことが。そんな時(難しいのですが)に、世の中の流れに流されそうになります。悪だから悪でかえしそうになります。しかし、使徒ペテロは「悪に善を返す」逆の人生を歩め、それが、クリスチャンの生き方、だと言います。それがかえって、善を行い愚かな人の口を封じる、神様の力、栄光を現す、と言います。私の中に、肉がありそれが難しいときが感じます。また、できるときもあれば出来ないときもあります。しかし、今日もう一度、主の祝福に立って歩みます。(この写真、かわいくないですかつくったひとすごい)

Wednesday, May 4, 2016

純度の高い信仰をつくる苦難

第一ペテロの手紙:
1:1 イエスキリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエスキリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
「私の純度を高める苦難」今月からペテロの手紙がリビングライフが始まりました。ペテロは、第一の読者(最初に聖書がかかれた)ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤとは、現代のトルコ、小アジアに当たるところに住んでいる人々です。そこに住むキリストのゆえに選ばれた人々にかかれました。そして、彼らは大変な苦難の中、迫害の中にあったようです。そこで、ペテロはこう言います。「信仰の試練は火を通して精錬されてなおも朽ちていく金よりも尊い」いい、主イエスキリストの表れのときには賞賛と栄光が、光栄がある、と励ます。金の純度を表すK,という単位があります。私はぜんぜん知らなかったのですが、金の価値を決めるのは、ズバリ「純度」らしく、99パーセント(24/24)なら24K(24金)、75パーセント(18/24)なら18K(18金)と表示する、そうです。最低限24回は火を通して純度の高いものとするそうです。私たちが、現在、大変なことがあるなら、それは、私にとって意味のない、苦しみでなくて、また無駄なものでなくて、天国のゴールへ向かって、私の信仰の純度を高めるものです、私を本物とするものです。それは、大変な栄光をもたらすとあります。今日、主のゴールを目指して信仰の純度を高める人生を歩んで生きましょう。