Saturday, August 31, 2013

愛することは強制しない

ピレモンへの手紙15。18節、使徒パウロは、ピレモンにオネシモを取り戻すのは永遠に取り戻すためであった、と言います。それは、奴隷としてでなくて、永遠に続く神様の家族として取り戻すためであった、と言います。本当に人を得るとは救われた人として得ることです。しかし、パウロは奴隷としてオネシモがした過ちを彼が責任を取ると言います。それは、そこまで彼がしなくていいぶぶんを補うと言っているのです。主の許しと人間としてすべきことを負うパウロの姿があります。これこそ、リーダーの姿でないでしょうか?私はどうだろう、と思うと遠いとおいと思いました。しかし、愛することは強制でなくて、自ら進んで追うものです。パウロはリーダーとしての姿、愛を見せてくれます。今日、また主イエスの愛をもって強制でなくて、自ら従うリーダーになって行きたいと思います。

ただイエスの愛に結ばれて

ピレモンへの手紙:使徒パウロは、彼の愛する同労者へ手紙を書きます。目的は交わり、そして奴隷であったオネシモのことで彼を赦し、開放してもらうことでした。その中で、使徒パウロは
自分のことを「キリストの囚人」と紹介します。彼が犯罪を犯したのでないのは明らかです。政治的にも、社会的にも、おまけに宗教的にも罪を犯しませんでした。彼が縛られているのは、ただイエス・キリストの十字架によるものです。彼の人生を進めるのは、イエス・キリストの愛です。イエス・キリストの愛に結ばれて囚人になったのです。そのことを彼は誇ります。それは、強制でなくてイエスの愛に対して自ら選び、進んだ道でした。今日、主イエスの十字架の愛で結ばれる人生を歩んでいきます。主よ、そんな人生に導き、示してくださって、感謝します、賛美します。

Thursday, August 29, 2013

静まり待つとは、主を喜びながら待つ

ハバクク3;16,18節(QT本文11-19)16節「私は聞き,私のはらわたはわななき,私のくちびるはその音のために震える.腐れは私の骨のうちに入り,私の足もとはぐらつく.私たちを攻める民に襲いかかる惱みの日を,私は靜かに待とう.」18節「しかし,私は主にあって喜び勇み,私の救いの神にあって喜ぼう. 」 私たちは、どうやって自分をおとしめる、脅迫する、攻撃する人に対して「静かに待つ」ことができるでしょうか?①主の前に正しく祈り、訴えることです。それは決して自分を高慢に出来ません。なぜなら、全てをご存知な神様の前に嘘はつけないからです。それは非常に危ないことです。謙遜にありのままに神様の前に、いや十字架のイエスによって神様の前に出るしかないのです。②神様の民として生きるものに訴えこと、神様の救いがきます。神様のものでないなら自分たちはどれほど危険なことでしょうか。今までどれほど、神様が救いを私に下さったことでしょうか。神様に感謝し、賛美します。③そして、不必要なことをしないこと、人間に頼るのでなくて、神様に向かっていきます。④神様の偉大さ、救い、そして私のために闘ってくださる方であることを経験することです、その時に静まり、主を喜びながら待つことが出来ます。今朝、もう一度、ハバクク2;4「見よ. 心のまっすぐでない 者は 心高ぶる. しかし, 正しい 人はその 信仰によって 生きる.」にたっていきます。主よ、助け、導いてください。

Wednesday, August 28, 2013

神様の力強さに自分の人生をおけ。

ハバクク3;8節(QT本文1-10)「主よ. 川に 怒りを 燃やされるのですか. あなたの 怒りを川に向けられるのですか.それとも, あなたの憤りを海に向けられるのですか. あなたは,馬に乗り,あなたの救いの戦車に乗って來られます.」QTをしながら、ハバククって、カッコイイ、素敵な人だなと思いました。大変な中で、厳しい中で、人に文句を言うのでなくて、不平を抱いて人格がゆがむことなく、大変な時に堂々と、力強く主なる神様の前に祈ります。何よりも、神様を正しい意味で畏れ、その神様の前に訴えます、祈ります。今朝、思いました。私はどれほど、神様の力を知っているのか?過去になされた神様のみわざを覚えて、未来への約束に変えているのか?神様が必ずなされることを期待して祈っているのか?自分の感情や自分の正義感でない、全能なる神様のうえに自分の人生をおきたい、と思います。あなたに私の人生、奉仕、人間関係、おいていきます。それこそ、主の解決、答えをもらう人生だと思います。主の救いの戦車をまちます。主よ、みわざをなさってください、しもべは期待し待ちます。

Tuesday, August 27, 2013

水が海を覆うように

ハバクク2;14節「まことに, 水が 海をおおうように, 地は,主の榮光を知ることで滿たされる.」(QT聖書箇所9-20)
今日の聖書箇所は、恥と栄光、不正と暴虐により築いた都市やお金が虚しいこと、そしてそこで主の栄光、主の右の手の働きによる裁きが書かれています。今朝、思ったことなのですが「不正による富、お金、そしてそこで作っていたった人生」それが、どれほど危ういものなのか?そこへの神様の裁きがあることなのか?覚えているのか?主の栄光をどれほど現実的に考えているのか?思いました。預言書のQTは難しいです。しかし、必要だから神様が与えてくださることを覚えます。主の栄光に満たされているのでしょうか?地上での瞬間的なものだけを求めているのでしょうか?今日、主の栄光が地上で、私の人生に、教会に満たされるビジョンを見て、主の栄光を伝えていきます。自分が主の栄光を見て行きます。主よ、このLAに、北米、日本へ主の栄光が水が海を覆うような圧倒的な栄光、力で満たしください。

Monday, August 26, 2013

全ては主がなされることを知る人生

ハバクク2;4節(2-11)「見よ、彼の心はうぬぼれていてまっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によっていきる」信仰で生きる人とはどんな人でしょうか?それは、私の人生は最初から最後まで、すべてイエス・キリストによって成就する、完成することを信じる人です。その人は、待つことが出来ます。現実が難しくても、目に見える現実に変化が見えないとしても、神様の幻を宣言して、信じて歩みます。なぜなら、私の人生は、イエス・キリストの十字架によって救われたからです。今日のQT箇所で後半の部分である、バビロン(カルデヤ人)の罪への指摘は流して読むと他人事に聞こえますが、心の中で犯した思いや、感情は無いのか?というの私自身への問いかけでした。そんなにあなたは聖人なの?といわれたら、とんでもないです、私は本当に罪びとです。あなたに頼るしかないです。イエス・キリストの十字架に頼るしかないです、と告白するほかありません。ならば、私の人生も、ビジョン、教会もなされるのは主イエスのみです。現実的には難しいし、恥ずかしいけど、神様のビジョンを宣言して、信仰で歩んでいきます。主よ、あなたの十字架の勝利を、栄光を与えてください。しもべはまちます。

Saturday, August 24, 2013

神様に叫べ!祈れ!

ハバクク1:(1ー11)2節「主よ、私が助けを求めて叫んでいますのに」今日かQTは、ハバクク書です、バビロンのユダ侵攻以前に暴虐のあった頃の時代の預言者、エレミヤと同時代でないか(BC605年ごろ?)と言われています。暴虐がはびこっているのになぜ、神様はすぎに裁きをなさらないのだろうか?という疑問を持って彼は祈ります。人にとって苦難にであって難しいのは❶いつ、神様は私の祈りを聞いてくださるのだろうか?という疑問を持ちます。しかし、今朝思いました。いつって分かったら人は祈らないかも、と思いました。かえっていつかわからない方が感謝なことです。何よりも、時は神様のなさる時がベストタイミングです。次に苦難の頃時の疑問は❷なぜ、この悪いことが起こるのか?神様はいるのに、という疑問が起こります。すぐに裁きがなされるのなら、私の罪はどうでしょうか?大きなことでない、あの人やあのことに比べたら、大したことでないから、と思うのでしょうか?神様の義の前に誰も太刀打ちできません。もちろん、神様は義なる方で罪を受けいれる方でありません。必ず神様の裁きはあります。私たちに苦難の裁き、なぜ、起こるのか?どうして苦難があるのか私たちにはわからないものです。しかし、神様はご存知です、ならば、思い切って祈ってるでしょうか?思い切って叫んでいるでしょうか?それとも、苦難の不満を、暴虐があることを人の側にぶつけたり、していないでしょうか?なぜ、謙遜に神様の前に祈らないでしょうか?そんなに自分で解決できるのでしょうか?忙しい、というのでしょうか?今日、教会の奉仕、福音を伝えること、日本のために、アメリカのために、苦難の人々のために。自分の人生を神様の前に叫び、祈ります。ハバククは神様からの答えをもらいました。どんなに嬉しいことでしょうか?神様の前に祈り、答えをもらうことを期待して、確信して祈って行きます、主よ、祈りに答えてください、あなたの御心を信じます、何よりも、あなたを自身を信じます。

Friday, August 23, 2013

Actsのフィナーレは宣教は続くこと

使徒行伝28章(23-31)「そこで,彼らは日を定めて,さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た.彼は 朝から晩まで語り続た.神の国のことをあかしし, また,モ ― セ の律法と 預言者たちの 書によって, イエス のことについて彼らを說得しようとした.」
使徒行伝のフィナーレは唐突です、パウロがローマについて相変わらず伝道した、そしてイエスを伝え、教えた。その後の彼の人生は?書かれていません。その事は一番神様が伝えたい、ということでないからです。大事なことは何でしょうか?イエスの事を伝えたことです。それは、今も伝え続けられていることです。パウロは「朝から晩まで語り続けました」そのような情熱が私にあるでしょうか?そのように「おおぜいで」たずねてこられて福音を伝えるチャンスを生かして、伝道して、生きているでしょうか?まだまだだな、と思います。当時の中心であり、心臓部であり、盈虚力を持ったローマで伝道しました。私もこのLAで朝から晩までイエスを伝える情熱、伝道をしたい、大勢の人が尋ねてくるミニストリーをしたい、と思いました。神様の福音を伝えるためにローマへ苦難の中で来たパウロはその御心を行い、語ります。この語れたユダヤ人の中で、①イエスを信じたユダヤ人もいたし、②信じなかったユダヤ人もいました。そこで、パウロは27節「この 民の心は鈍くなり,その耳は遠く,その目はつぶっているからである. それは, 彼らがその目で見,その耳で聞き,その心で悟って,立ち返り,わたしにいやされることのないためである」28節「ですから, 承知しておいてください. 神のこの 救いは, 異邦人に 送られました. 彼らは, 耳を 傾けるでしょう. 」と宣言します、普通なら人間関係上、角が立つ、でないけど、言わないことです。なぜでしょう?それは、世界福音へ行く神様の心を宣言するためです。ACTSは世界宣教される、そこで、次世代の宣教師たち、クリスチャンたちがヨーロッパ、アジア、アメリカ、日本、韓国へ宣教し続けることで終わります私たちもACTSから宣教のバトンタッチを受けています。北米に日本人宣教に来て、2年半ほど、そこで使徒行伝のQTをするのに神様の恵みを感じます。思えば、神様に賛美と祈りの中でいただいた御言葉でした。LAで、北米にACTSのバトンを持って宣教していきます

Thursday, August 22, 2013

あなたはヴィジョンマップもっているか?!

使徒行伝28章15節「私たちのことを 聞いた 兄弟たちは, ロ ― マ から アピオ · ポロ と トレス · タベルネ まで 出迎えに來てくれた.パウロは彼らに会って,神に感謝し,勇氣づけられた.」 (QT本文11-22)とうとう、パウロがローマに到着しました。QTをしてきて感動しました。とうとうローマへついたんだ!神様の約束が成就した瞬間だった!と。そこで思ったことがありました。パウロがローマへつくのは神様の御心であった。でも、そのたどり着けるには、①神様の声を聞くこと、②神様の心に従うこと、③そして、神様の御心でありつつも、ありえない苦難がくる。そこでも、主を信じ続けること、それがなかったらココに到達できることはなかったのでないか?と思いました。私はどうだろうか?と思いました。つい先日、ある執事の人と話した時に人生のビジョンマップ、ファミリーマップを作ろう、教会のビジョンマップを造ろう、と話されたことを思い出しました。それも、人間は自然に祈りの課題や目標と言ったら、ビザや職業の事しか出てこない、御言葉を読ませてから出てくる祈りの課題、ビジョンマップは出てくるものが違う、という話をされました。1年後、3年後このように教会は成長する、御言葉を学ぶようになる、聖書を読むようになる、私の未信者の家族は数年後に救われるように、このように伝道しよう、聖書の前にクリスチャン小説を読んでもらおう、とか、人生を御言葉もってエキサイティングに生きよう、天国に呼ばれるまで、進んでいこうと言われました。本当にその通りだと思いました。パウロはまさに宣教、ビジョンマップのなかでとうとうローマに到達しました。涙が出てきます、感動です。私も、私の人生の中で、神様のビジョンマップもってローマに到達したでしょうか?また、パウロはローマがゴールではありません、通過地点です。主に一つ一つ、日ごとに従う中で、苦難の中でも、到達できたのです。今日、主にあって一つ一つ私に与えられた奉仕を喜んで、仕えさせていただきます。

Wednesday, August 21, 2013

専門外の人を動かすリーダーシップ

使徒行伝27章34、43節(本文27ー44)使徒パウロは、船が難破した時にリーダーシップを発揮します。それは、辛い時に、大変な時に、誰もが責任をいたくない時に、リーダーとして皆を元気付けたのです。彼の忠告に従ったらこんなことにならなかったのに、です。しかも、その中で彼は、自分の専門外の、領域外の、自分の経験の外でリーダーシップを発揮します。ローマの百人隊長に兵隊たちに、水夫が逃げることを伝え、止めさせます。また、船にいる人々、水夫など、自分の専門外の人々、他の人々を動かします。クリスチャンが、宣教師が、牧師がこのように外でも、危機の時にこんなになくてはいならないリーダーならどれほどいいでしょうか?!パウロのリーダーシップはどこから来るのでしょうか?彼は自分の専門外のことを勉強したのでしょうか?みるからにカリスマに満ちた人だったのでしょうか?かもしれませんが、それよりも徹頭徹尾主にしたがう人でした。信仰の人で、目に見えない現実も信仰の目で進む人でした。また、信仰をもって人々を主の心へ進ませる、励ます人でした。自分よりも他の人を祝福し、立てることを知っている人でした(使徒パウロって、人を立てますよね。)一人の神様の人が危険な船の中にいるだけで、救いがきます。神様の助けと心を聞けます。今日、主につかえるリーダーとして少しでも(遠すぎますが、キム・サムエル先生はそうだったな〜)仕えて行きます。また、神様は囚人を殺そうとする兵士たちを百人隊長を通して止めさせます。

人生の意味を悟らねば、奇跡も愛も

使徒行伝28;8節(本文1-10節)「たまたまポプリオの父が,熱病と下痢とで床に着いていた. そこでパウロ は, その人のもとに行き,祈ってから, 彼の上に手を置いて直してやった」10節「それで 彼らは, 私たちを 非常に 尊敬し, 私たちが 出帆するときには, 私たちに 必要な 品¿を 用意してくれた. 」パウロたちは、島にたどり着き、救われました。ところが、そこでパウロだけが蛇にかまれる、という事件があります。しかし、御言葉の約束どおりに(マルコ16;18)無事に守られました。また、その後で島の酋長の「ポプリオの父」の病を癒し、島の人々が病を治してもらいに来ます。島では、大きな助けと愛を受けました。苦難の中に神様の愛が待っています。しかし、今日、思ったことは「大きな奇跡も、苦難の中での愛」も、その意味を知らないと意味がないということです。人生の意味を、自分の神様に与えられた使命を果たさずに、奇跡だけにすごい!、愛に感謝ですね、で終わるのなら虚しいことなのです。島の人のようにパウロを尊敬するのは感謝ですが、パウロ自体が神ではありません。私たちは、してもらった愛に感謝して、答えて生きる人生を歩んでいるでしょうか?その背後におられる神様の愛にこたえる信仰者でしょうか?また、奇跡だけについて歩く人でないでしょうか?イベントや軌跡に感謝しても忘れるなら、意味がないといいませんが、きついものがあるでしょう。今日、主の前に私に与えられたACTS29ビジョンを持って主にある再スタートをとって生きたいと思います。主よ、人生の意味を深く刻んで、私も立ち上がらせてください。

Tuesday, August 20, 2013

主を信じるとはどういうことか?

使徒行伝27章27節「十四日目の 夜になって, 私たちが アドリヤ 海を 漂っていると, 眞夜中ごろ, 水夫たちは, どこかの陸地に近づいたように感じた.」
使徒パウロたちは海難に出会います。そこで、船が進まず、また暴風に出会い、流されるにまかせ、パウロを通しての神様の声(必ずローマで証しすることになり、他の人々は誰一人として失われることなく助かること)を聞きながら、進みました。しかし、何か目に見える状況は変わることなくあったときに、陸に近づいたことを感じたのです。そして、それが「少し進むと40メートル、30メーーとる」であったこと、少しずつ陸地に近づいていることを感じたのです。信仰ってこんなものでないか、と思いました。神様のみ言葉の約束はあるけど、すぐに具体的に、現実的に変わるものがないけど、信仰を持って反応する時に「目の前の現実が少しずつ、変わっていく」ことを体験します。それは、使徒行伝の時代も現代も差がなかったのです、使徒がいたとか、イエスがいたと言うかもしれませんが、そこにいる人々は信仰をもってパウロの言うことを信じれずに、信仰のSTEPを踏むことは出来なかったのです。イエスのいた時代さえもそうです。イエスが目の前で説教しても信じず、かえって逆恨みし、イエスを殺しさえしたのです。今日、主にある現実を信仰を持って反応し、歩んでいきます。主のみ言葉を持って深みに漕ぎ出します。

Monday, August 19, 2013

神様のリーダーは投げ出さない!

使徒行伝27章22節「しかし, 今,お勸めします.元氣を出しなさい.あなたがたのうち,いのちを失う者はひとりもありません.失われるのは船だけです. 23節「昨夜, 私の主で,私の仕えている神の御使いが,私の前に立って, 」24節「こう 言いました. 『恐れてはいけません. パウロ . あなたは必ずカイザルの前に立ちます. そして,神はあなたと同船している人々をみな, あなたにお与えになったのです. 』 25節「ですから, 皆さん.元氣を出しなさい.すべて私に告げられたとおりになると,私は神によって信じています.」使徒パウロの忠告を受け入れなかった人々は、船が進まず、さらにユーラクロンにあい、暴風によって船が進めず、積荷を捨て(自分の大事なものを投げ捨てて)、船具を捨て(自分で進むことを放棄したこと)食事(生きるの望みを置いて)もとりません。パウロにとってどんな思いだったでしょうか。しかし、パウロはこの状況ののなかで神様の声を聞き、人々を励まします。普通なら、私の助言を聞けばこのようなことにならなかった、とか。もはや彼らのせいでだめだ~とか思わないでしょうか?私ならそうです~しかし、彼は神様の声を聞き、「恐れるな!私が共にいる、そしてローマのカイザルの前に立つ」ことを宣言されます。それを人々に伝えて、食事を取り、元気をだせ!と励まします。目の前にある状況は未だに動いてません、具体的に何か動いているのでありません。しかし、信仰を持って動くのが、人々を諦めずに導くのが、勧めるのがリーダーです。そうでないと信仰でありませんし、面白くないでしょう。今日、投げ出さないリーダーに励ますリーダーになることを、歩んでいきます。主よ、恐れるな!という神様の言葉の上にたたせてください。

Sunday, August 18, 2013

あせると神様の言葉を逃す

使徒行伝27;9、11「」

使徒パウロは、ローマへ向かうことになります。ユリアスという百人隊長により親切に扱ってもらい、友人からのもてなしを受けることもありました。苦難にあっても、こういう出会いは感謝なことです。しかし、パウロたち一行の旅程は遅ととして進みませんでした。この中で、パウロは航海はするには、危険な時期にきていること、そして預言して「この航海で私たちに船や積み荷のみならず、命にも危険や損失を及ぼします」とアドバイスしまた。しかし、大多数の人とローマの百人隊長は「できれば、もう少しいい場所で冬を過ごしたい」という現実的な焦りから、目の前の問題を先に動かしたい、という思いからパウロの助言を退けます。私たちの人生にこういうことがないでしょうか?大事な神様のリーダーからの助言を、目の前にある問題を解決したい、具体的なことを優先して、神様のことを後する、に結果、大事なことを失敗します。神様のことよりも、聖書を読むよりも、礼拝よりも、奉仕よりも、自分の目の前のことを解決しようとしてますますしんどくなります。神様はこうしたらいい、と語ってくださるのに。今日、主の言葉を静まり返聞いて始めます。

Saturday, August 17, 2013

どんなタイプにも真摯に福音を語れ!

使徒行伝26章25節「するとパウロは次のように言った.「フェスト閣下、気は狂っておりません.私は,まじめな眞理のことばを話しています. 」
使徒パウロは、アグリッパ王と総督フェスとの前でイエスの福音を伝えた時に反応は①総督はフェスとは「博学が狂わせている」と(どう考えても、シンプルな福音しか語っていないのに博学のせいにするなんて、本当に日の顔色だけをみている、まじめに人生の問題にぶつかろうとしない)ことを感じます。②アグリップ王は、少しの言葉で「私をキリスト者にしようとする」と警戒し、気をつけます。しかし、少しは真摯な姿勢があります。そして、パウロは③相手がどんな反応であろうが、そして自分がどんな状態(無罪でありつつも、鎖につながれていようが)であろうが、イエスの福音を語り、真摯に福音を伝え続けようとします。果たして、私はいつも、どこでも、どんな相手にも真摯に福音を伝えようとしているでしょうか。この相手は難しいとか、パウロは言いませんでした。また、自分は監獄にいるから、とも言いませんでした。その結果、王に権威者に、そしてローマまで宣教することになったのです。今日、このみ言葉を持って行動したら祝福がありました。神様に栄光をささげます。

Friday, August 16, 2013

Sakanoueno Christ: 天からの啓示を見たら#links#links

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闇から光への人生を証しする

使徒行伝26;18「それは彼らの目を開いて, 暗やみから光に,サタンの支配から神に立ち返らせ,わたしを信じる信仰によって,彼らに罪の赦しを得させ, 聖なるものとされた人々の中にあって御國を受け継がせるためである. 』 使徒パウロはアグリッパ王たちの前で証します。それは、すごく正直な、ストレートな証でした。自分がイエス・キリストを迫害したものであったこと、そんな自分が天からの啓示によって「自分の罪に、自分の間違った方向への情熱」からまことの神様を迫害したことがわかったこと、そんな自分が救われて、イスラエルの民のために、異邦人のために救いを伝える人になったことを話します、果たして、私は、私たちは以前の自分の姿、罪ある自分の姿をも思う時に本当の謙遜さを持つのでないでしょうか。自分が苦難になう時に不平や不満を言える身分でないことを思うのでないでしょうか?そんな自分が聖なる者になって、神様の国を受け継ぐものになったことを思うなら、何が言えるでしょうか?賛美と喜びしかないのでないか、と確信します。私の感情は瞬間的に揺れます、しかし、闇から光の人生へ、神様の国を建てるもの、引き継ぐものになったことを感謝し、賛美して歩みます、神様の助けを得て、福音を証します。

Thursday, August 15, 2013

希望があると夜も昼もなく熱心になる

使徒行伝26;7-8「私たちの 十二部族は, 夜も昼 も熱心に神に仕えながら,その約束のものを 得たいと望んでおります.王よ.私は,この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです. 」今朝のQT箇所からの恵みは、①パウロがアグリッパ王に弁証をとしてイエスを証します。②夜も昼も熱心に神様に仕える、③約束のものを目指して生きる(神様がイエス・キリストを通して死者をよみがらせる、どんな過去があっても救われる)、です。私は昼も夜も熱心に主イエスに仕えているでしょうか?しかも、それが、目標のない、希望のない熱心でなくて、はっきりとして希望があるからこそ仕えているでしょうか?パウロは二年を待たされてアグリッパ王たちにか証をします。待たされたからこそ、3度目の証が出来ます。しかも、王様にです。考えたことがあるでしょうか?政治家、リーダー、社会的に影響のある人、芸能人などに証をしたことや証をすることを祈ったことがあるでしょうか?相手が聞く聞かないは別としてです。苦難を通して出なければ、時間をかけて出なければ、出来ない福音伝道もあります。今日、夜も昼も熱心に生きる神様の約束、希望を持って歩みます。

Wednesday, August 14, 2013

野外礼拝が8月25日にあります

ジュビリー教会のお知らせです
①来週の礼拝(8月18日)は、通常通り午後1時から205号室であります。 ②8月25日の礼拝は野外礼拝をします。 ●場所はDEL THORONE PARK (3401spencer st Torrance ca90503) https://maps.google.com/maps?ie=UTF-8&q=delthorne+park+torrance+ca+90503&fb=1&gl=us&hq=delthorne+park+torrance+ca+90503&hnear=delthorne+park+torrance+ca+90503&cid=0%2C0%2C8037802793183031182&ei=9KcKUqCDD-KYyAGAx4HACg&ved=0CKwBEPwSMAs ●時間は午前10時半から ●内容:礼拝(30分ほど)、BBQ、交わりの時間です。 ●費用:5ドル(小学以上は2ドル) 気持ちのいい季節、野外で礼拝と美味しいBBQで日曜日を過ごしてみませんか。 普段、礼拝だけでもてないゆっくりとした時間を持ちたいと思います。 ぜひ、いらしてください。
お問い合わせは 北野まで (CELL714-333-6011)
     

    神様の心を正確に読む

    使徒行伝25;25節「私としては,彼は死に当たることは何一つしていないと思います. しかし,彼自身が皇帝に上訴しましたので,彼をそちらに送ることに決めました」26節「ところが, 彼について, わが 君に 書き 送るべき 確かな 事がらが 一つもないのです. それで 皆さんの 前に,わけてもアグリッパ王よ,あなたの前に,彼を連れてまいりました.取り調べをしてみたら, 何か書き送るべきことが得られましょう.」今日の聖書箇所でやはり語られていることは「ユダヤ人のねたみ」からパウロは訴えられたこと、それは「無実である」ことです。しかし、総督フェスとは正しいことを知りつつも、無罪釈放しません。ユダヤ人の歓心を買うためです(世の中の歓心を買うためです、このようなことが私たちの中にないでしょうか?)もし、私がパウロなら、いらいらしたり、早く釈放されたい、もしくはローマへの証をしたい、 とか思わないかな?と思いました。しかし、そのようなことは聖書に書いていません。それは、一番大事なことでないからです、神様の語りたいことは他にあるからです。神様はこのような状況を通して、事件を通して、あなたはどのように、どんな霊的な目で事件を見ますか?状況を霊的に見れますか?そして、パウロのように福音を証しする場所、チャンスとして反応できますか?神様の心を読めますか?といわれる気がします。今日、神様の福音のチャンスの場所を見ていきます、主よ、私の目を開いてください。

    Tuesday, August 13, 2013

    最後には神様の御心がなることを信じると!?

    使徒行伝25;12「すると,パウロ はこう言った. 「私はカイザルの法廷に立っているのですから,ここで裁判を受けるのが当です.あなたもよくご 存じのとおり,私はユダヤ人にどんな惡いこともしませんでした.」パウロは総督フェリスのもとで、裁判を受けます。エルサレムから下ってきたユダヤ人が多くの重罪を訴えますが、彼の無罪を貶めることは出来ませんでした。(もともと)何も無いのですから(律法にも!宮にも、カイザル「ローマ帝国」にも)。そして、遊惰や陣の歓心を買おうとしたフェリスのためにエルサレムでさらに裁判をさせられそうになります。パウロはそこでローマ帝国に、カイザルに控訴することになります。今日思ったことは、今日の裁判は既に時間が2年過ぎており、パウロにとってどんな思いだったか?彼にとって時間がもったいなく感じなかった、しかも無実であるのに。さらにユダヤ人の歓心を買おうとして「エルサレムの裁判」を言われる始末、しかし、そのような中でパウロは正しく裁判を求めます、また、神様の御心であるローまでの証へ向かっていきます。私の今はなかなか成長しない、変化しないことに「いつ?」また「どのようにしたら?」という思いがあります。しかし、大事なのは「必ず神様の御心はなる!」という告白に立つことです。信じることです。その過程にいる時は難しいです。しかし、主の御心へ向かう今日をBESTを尽くして主イエスを信じて歩みたい、と思います。

    Monday, August 12, 2013

    恐れにいると自由が出てこない

    使徒行伝24;25「しかし, パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので,ペリクスは恐れを感じ,「今は帰ってよい.おりを見て,また呼び出そう.」と言った.
    今日の総督ぺリウスとパウロの会話は「キリストイエスを信じる信仰」について語られながらも、「正義と節制、やがてくる審判」を聞いたときに、恐れを感じて、また今度、と言ったのです。彼は、その後に①パウロにお金をもらいたい下心もありつつも、②ユダヤ人に恩を売ろうしました。今日感じたのは、大事なかみさまのメッセージを聞いても、もらっても「すぐに聞かないなら、また今度」ということなら回復がない、ということです。まして恐れを克服して、罪を告白して回復できる祝福が来ません。今日の総督ぺリウスも、フェストもそして宗教人のユダヤ人でさえも神様にある喜びや自由、開放、回復と言うKEY WORDがでてきません。何故でしょう?自分の罪が示される、太陽の元にさらされることに恐れがあるからです。人間誰しもそうでしょう。しかし、主イエスの十字架に会うなら、既に赦されているなら、イエスの愛に出会うなら、イエスの出て行けません。そこにしか解放はありません。自由はイエスの真理にしかありません。今日といチャンスを逃さないで下さい。今日、主イエスの愛をまっすぐに語ること、聞くことを大事にしていきます。

    Sunday, August 11, 2013

    さいぜんをつくすひとの

    使徒行伝24;14ー16、パウロは言います。神様の前にも、人の前にも責められることのない良心を保つために「最善を尽くして」生きてきたと。今日のQT箇所には、3種類の人が出てきます。①問題を起こし隠れているアジアからきたユダヤ人たち(18ー19節)これって驚くことですね、でも私たちの人生と無関係でしょうか?②問題を起こされても堂々と証できる最善を尽くすパウロ、❸そして、第三の人は総督ペリクスです。彼は問題を先延ばしにしました。問題に向かい合わない人です。私は、私たちはどうでしょう?どこに立っているでしょうか。神様の聖書を信じている人は、復活を信じる人は、最善を尽くして誰にも(神様の前にも、人の前にも)責められない人生を送ります、責められることのない人生を送ります。それがクリスチャンの人生で、証する人の人生です。私はどうでしょうか?まだまだだな、と思いました。また新しく、決心して行きます。今朝、最善を尽くして主の礼拝をささげていきます。生きます。

    恐るな!かれらはなにもできない!

    使徒行伝24:5ー6、大祭司アナニヤは、弁護士を雇います。それは、パウロを陥れるためでしたが、かえってそれは①自分たちが既存の権力であるローマ帝国に媚び諂っていること、それは宗教人として、ユダヤ人として恥ずかしいことがさらけだされ、②パウロがペストのような存在だから気をつけろ!という話にならない訴えにしかならないこと、❸結局は、彼らの訴えは彼らの不義を明らかにするだけでした。私は、私たちは何か人から言われたり、誤解されたり、もしくは不義を着せられたらどう反応するでしょうか?また、それがキリストのためであるなら。急いで誤解を解くか(もちろん、必要なことですが)問題解決に急ぐでしょう。またそれで終わらずに、怒ったり、感情的になったり、相手を批判したりしないでしょうか?しかし、今日のQTをしながら、必ず神様の義に立つ人は恐れなくていい。逆に、自分の妬み、いかりから行動するなら神様が却って不義を示すことを思いました。思います、恐るな!神様がいるのに相手は、何ができるのか?今日の奉仕に神様の勇気を持って歩んで行きます。

    Friday, August 9, 2013

    最も安全なところは主と共にいるところ

    使徒行伝23;29「その結果,彼が訴えられているのは, ユダヤ人の律法に関する問題のためで,死刑や投獄に当たる 罪はないことがわかりました. 」
    今朝のQT箇所をリビングライフは、「最も安全なところは主と共にいるところおられところ」とつけていました。本当にその通りで、とても気に入りました、何よりも励まされました。私たちは苦難にあると、人間的な計算で動きます。しかし、神様の御心を行う人を主は守られます。神様の人生を歩む人にとって大事なのは結果でなくて、プロセスです。主が苦難の中にも共におられる、その安全さを味わうことが出来ます。いつから、私たちは結果だけで生きるようになったのでしょうか?本当は、人生を味わうことは大変な時も、困難な時も、まだ前が見えていないときも、もちろん、楽しいときもそうでないでしょうか?神様は言い訳もせずに、神様の事を証し続けるパウロの無罪(国、社会、法律)、を証明され、かえってユダヤ人たちの宗教戦争(怒り、妬みから来る殺人さえ)明らかにされます。そして、ローマ人を動かし、緊急の守りを与えられます、主のみなは強き砦、駆け込むものは守られる!主を賛美します。

    Thursday, August 8, 2013

    神様がいる!

    使徒行伝23章16節「ところが,パウロの姉妹の子が, この待ち伏せのことを耳にし,兵營にはいってパウロにそれを知らせた. 」今日、QTの箇所はパウロを殺すために陰謀が、同盟が組まれた箇所です。そこで、パウロの姉妹子が聞いて、知らせてくれると言う箇所です。あきらにパウロへの命の危険が続いて迫り来る中、神様の救いが、守りが、何よりもローマへの証をさせてくださる神様の導きがあります。まさに、危険の中にいるけど、神様がしてくださった、神様が守ってくださった!私の神様は生きている!という瞬間です。私の人生の中で、神様がしてくださった、瞬間がどれほどあるでしょうか?危険があるけど、困難があるけど、しかし、神さまがいる、私の主は生きておられる、神様が働かれた!どれほど体験していることでしょうか?私たちの教会で、どれほど神様はいる!生きておられる!と体験し、告白していることでしょうか。今日のパウロは命の危険を信じられない助け、そして百人隊長、千人隊長と話が伝えられて守られることになって行きます。しかし、今日のQT箇所は物語の全部、結末を語っていません。結果を知っていれば信じることはやさしいです、結果を知りたいと思います、しかし、今日のみ言葉は今日で十分です、主が生きていることを信じ、私の人生、教会に生きておられる主を賛美します。

    Wednesday, August 7, 2013

    今、私がココにいる理由を知る

    使徒行伝23章11節「その 夜, 主が パウロ のそばに 立って, 「勇氣を 出しなさい. あなたは, エルサレム でわたしのことをあかししたように, ロ ― マ でもあかしをしなければならない. 」と 言われた」使徒パウロは千人隊長により、議会にたたされましたが、「いきなり打たれたり」不法な裁判にあいました。しかし、彼は恥じることのない完全な良心を持って証し続けました。打たれて「白い壁」と言ったら、大祭司であることを聞き、「指導者を悪くいっていはいけない」とあると書いてある、とすっとんきょうなくらいに簡単に認めます。正直です。彼らが間違っているのに、自分にもMISSがあると思えば認めます。神様はそのような状況のパウロに[勇気を出しなさい、私の証をエルサレムでしたように、ローマでもしないと行けない]と語られます、今朝、思いました。何故、パウロはこのような不法な裁判、そして苦しい状況、プレッシャーの中でもぶれずに、もういいや、と投げ出さずにいれたのか?それは、今何のためにここにいるのなか?神様の声を聞いたからです。だから投げださいのです。神様はパウロの宣教のたびに語られます。どれほど、大きな力でしょうか。今朝、TORRANCEにいる理由を、南加州で弟子を作っていくミニストリーをします。勇気を出して、今日を歩み続けます。

    Tuesday, August 6, 2013

    目に見えるものに頼ると目に見えないものこと

    使徒行伝22章22節「人々は,彼の話をここまで聞いていたが,このとき声を張りすると,上げて, 「こんな 男は, 地上から 除いてしまえ. 生かしておくべきではない. 」と 言った. 28節 千人隊長は, 「私はたくさんの 金を 出して, この 市民權を 買ったのだ. 」と 言った. そこで パウロ は, 「私は 生まれながらの 市民です. 」と 言った
    天国の福音を語って使徒パウロに向かって、①群集たちは「わめきちらし」生かしておくべきでない、と言いました。これって、個人ならいえることでしょうか?一人でこのような行動を人の前で出来るでしょうか?人を殺すとか、着物を放り投げ、チリを撒き散らし、など。それは社会の中の群集に紛れ込むからできることです、責任の無い人生、行動をとっていることです。②そして、市民権を買って手に入れたローマの千人隊長です。彼はパウロがローマ市民権をもっていると知らない前は裁判もせずに、「むちで打とう」としました。騒動が起こった、それだけで自分の責任をとらずに、困ったことが起こったから、というだけで人のせいにしました。かえって一方のパウロです。彼は既に天国の福音を語りました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、拒否することを決めていたのです。それは、自分の地上の生活、ポジションにだけ彼らが重きを置いたからです。そこに、彼らの人生を守るものがると勘違いしたのです、福音が語られたのに。群集に隠れていれば大丈夫と思ったのです。ローマ市民権を買ったから大丈夫、と思ったのです。今日パウロはローマ市民権に頼っていたのではありません。天国の市民であることに自分のアイデンティをもったからこそ、ローマ市民権者であることを語れたのです。私は、もしくは私たちは、何か目に見える部分で頼れる部分を探しやすいものです。しかし、これで安心と、目に見える部分(必要なものはありますが)にだけ頼るなら危ないものです。天国の価値観で今日私の価値観、教会の奉仕考えて生きます

    Monday, August 5, 2013

    律法を知っても神様に出会わない人生。


     
    使徒行伝22:12節、使徒パウロは自分がアナニヤを通して目が見えるように、自分の使命をエルサレムでいただいた証ををします。そこで、気になったのがアナニヤは①律法に厳格な人で、②敬虔な人で、③ユダヤ人全体に評判のいい人であったことです。いかにユダヤ人伝道のためにパウロが気を使って証をしようと、伝道しようとしていたのか?分かる話です。彼らがイエスに出会うために順序だてて証しました。しかし、いかに律法に精通しても、敬虔な人でも、評判が良くてもイエスに出会わないなら悲劇です。逆に、これでイエスに出会うなら最高です!パウロはその後でエルサレムに上り、異邦人伝道のCALLINGを主イエスの出会いの中で受けます。私は、私たちはどうでしょうか?聖書は読んでます、詳しいです、奉仕もしています、頭もいいです、しかし、神様の出会いなしであるなら、どんなに残念なことでしょうか。自分のすべき使命を自分で考えて、自分勝手にしているならどうでしょう、クリスチャンを以前に迫害したパウロのようです。加味差身に愛されていること、イエスが私のために十字架に掛かったことを知らなければ、使命を持って歩んでいけません。今日、神様を知る一日を過ごして生きたいと思います。

     

    Sunday, August 4, 2013

    神様の声を聞かない情熱

    使徒行伝22:7節「私は 地に 倒れ, 『サウロ , サウロ . なぜわたしを迫害するのか. 』という声を聞きました.」
    使徒パウロはユダヤ人の人々の前で①出身、②受けた教育(信仰教育)、③神様への情熱、④そして過去はクリスチャン(今風に言うとキリスト教徒)を激しく迫害したことを証言します!証言です!!長老や大祭司たちも証言できると過去の私は皆さんと同じだったと話します。しかし、その情熱は正しい方向へ行っていませんでした。情熱も方向を間違えると大変な結果、間違ったGOALへ自分の人生を導きます。それは、神様に熱心と言いつつも、神様の声を聞かない情熱の難しさ、いや無駄、もしくは過ちを犯すことにさえなります。神様からの声は裁きのことでなくて彼に「何故?」と聞いてくださる人格的な愛でした。神様の声を聞かないで行動すると「何故?」ときかれると自分でも出所が分かりません。一生懸命したんですけど、となってしまいます。光に倒れて人に手を引かれて歩むパウロの姿は私たちの人生のようかもしれません。彼はダマスコで10節「私が, 『主よ. 私はどうしたらよいのでしょうか. 』と 尋ねると, 主は 私に, 『起きて, ダマスコ に 行きなさい. あなたがするように 決められていることはみな, そこで 告げられる. 』と 言われました. 」とあるように、神様の声を聞くことからパウロの新たな、正しい方向への人生は始まりました、それはショックなことだったかもしれません、自分の人生、していることが否定されるような感じがあったかもしれません、しかし、神様に出会う時に、神様の声を聞くときに本当の幸福な人生をはじめれます。正しいGOALへ向かいます。今日、神様の声を謙遜に聞き、伝えていきます、主イエスの幸福をSHAREしていきます。

    Friday, August 2, 2013

    あなたは何のために、誰のために使うのか?!

    使徒行伝21章39節「パウロは答えた「私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で, れっきとした 町の市民です.お願いです.この人々に話をさせてください. 」
    使徒パウロは、ささげものをして7日目が終わろうとする時に「アジアからユダヤ人(ディアスポラ)たちの妬み」から「イスラエルの人々」まで巻き込んで、パウロは暴動を起こされて、死の危険にさらされます。まったくの誤解であり(29節)、宮から出され、殺されかけた時にローマの千人隊長がパウロを兵営に連れて行きます。そこで、パウロがギリシャ語で話しかけます。ギリシャ語を知っている自分の出身理由を話したパウロは、次に群集にヘブル語で話しかけます。何気に読み過ごすといけません、大変なことです。日本語を2世が流暢に話し、さらに英語を話します。でも、そのことを何のために使うかどうか?!です。アジアから来たユダヤ人は、その状況、条件を「パウロを殺すために、怒りのために」手を使いました。しかし、パウロは命の危険の中で、自分がどうなるのか分からない状況で、怒りや復讐のために使おうとしませんでした。私はどうでしょうか?私に何かあるわけでありませんが、自分のものを何のために、使おうとしているのでしょうか?今日、私の状況や人々がどうであろうと、愛し、ゆるし、祝福し、神様の栄光のために、使っていきます。

    宣教と証しある人生

    使徒行伝21章19[彼らにあいさつしてから, パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを, 一つ 一つ 話しだした.]20[彼らはそれを聞いて神をほめたたえ, パウロにこう言った.「兄弟よ.ご承知のように,ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが,みな律法に熱心な人たちです.]
    使徒パウロの宣教に人々は喜び、神様をほめたたえました。ところで、その反面、ユダヤ人クリスチャンの多くが使徒パウロの宣教の中身、人生の生き方で誤解をしている人がいました。また、わざわざ批判する人もいたと思います。自分たちの枠にはまらない、信仰生活、教会生活をする人に批判する、非難し、攻撃するのはいつの時代も変わらないと思います。果たして、今日の私へのメッセージは宣教することと、証を立てる人生です。それは、若い時には宣教師照ればいいと思って配慮することや、あかしする人生を生きることはなおざりだったり、結構難しいことかもしれません。しかし、聖書にははっきりと書いてあります。宣教し、証を立てるほうが神様から恵みを多く受けている人であること、かえって、批判する人よりも、強い人であるのです。これを思った時に、まだまだだなーと思ったのですが、同時に、神様私たちの教会を、私を守ってくださいと祈りました。福音のために誤解されたり、前進するのに障壁があっては困るのです。今日、主イエスを証しする宣教をしていきます。

    Thursday, August 1, 2013

    苦難があっても主の御心に従え

    使徒行伝21;13節「するとパウロ は, 「あなたがたは,泣いたり,私の心をくじいたりして, いったい何をしているのですか. 私は,主イエスの御名のためなら, エルサレム で 縛られることばかりでなく, 死ぬことさえも覚悟しています. 」と 答えた.
    はたして、私は?私たちは使徒パウロのようにこういえるでしょうか?逆にそれがいえるなら何も怖いものがありません。彼は苦難が待っていても、迫害が待っていても、プレッシャーが待っていても、死が待っていても、それが分かっていてもエルサレムに上ろうとするのです。主イエスを伝えようとするのです。主イエスの御心に従うとするのです。主のみ心従う人は誰も、何も止められません。もし自分なら考えると恐れや、いろんな考えが起こります。しかし、主に従う人に恐れは無いんだな、と思うと本当に自由だと思いました。QTするには、痛みがあります。なぜなら自我があるからです。しかし、本当に自由や幸福が神様の声を聞き、従う中にあります。今日、主のみ声にしたがって伝道していきます、主の御心に従う自由を与えてください。