Wednesday, September 18, 2013

周りとの葛藤でも主に従う(士師記8章1-9)

士師記8章1-9、
8:1 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。8:2 ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。8:3 神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。
8:4 それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。8:5 彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」8:6 すると、スコテのつかさたちは言った。「ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。」8:7 そこでギデオンは言った。「そういうことなら、主が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。」8:8 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。8:9 それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。」
きょうのQT本文は、ギデオンに対して①エフライムの人々が言いがかりと言い訳をして自分たちを勝利から除外した、という箇所②300人で追撃を続けるギデオンたちに、スコテの人々はパンを与えず馬鹿にする、またペヌエルの人々も同じようにした、という内容です。今日の聖書本文で輝く場所は「神に従う三百人」で追撃を続けたことです。エフライムの人々も他の部族の人々も大事な戦いに犠牲をすることはありませんでした。また周りからは避難やバカにされたりしました。このような時にどのようにすればいいのでしょうか。それを今日の聖書箇所は語っています。まずは、それに惑わされて「主に従うこと、大事な使命を果たす」ことをおろそかにしてはいけないことです。また、周りの葛藤を意味なく作らないことです。何と難しいことでしょうか。それでいて、主の働き、実、結果を見せる必要があります。いま私のうちにも大事な神様の使命を果たすのに、まわりのかっとうやいろんなことがあります。しかし、まずに主に従い、使命に向かって行きます。また、葛藤を知恵を持って接します。主よ導いてください。

Tuesday, September 17, 2013

主の剣に力がある(士師記7章19…25節)

士師記7章19…25節、
7:19 ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。7:20 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び、7:21 それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。7:22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。7:23 イスラエル人はナフタリと、アシェルと、全マナセから呼び集められ、彼らはミデヤン人を追撃した。7:24 ついで、ギデオンはエフライムの山地全域に使者を送って言った。「降りて来て、ミデヤン人を攻めなさい。ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取りなさい。」そこでエフライム人はみな呼び集められ、彼らはベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。7:25 また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕え、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。

ギデオンと300人の勇姿は主の剣だ、さけびそしてつぼを打ち壊し、たまついをかかげました。それだけで、7年間イスラエルを圧政し、いじめたミデヤンの13万の兵士が崩れ始めたのです。彼らのしたことはこれだけで、彼らの人数は300人だけでした。それ以外にしたことも、それ以上の人数も入りませんでした。それは、いかに主の名前に、神様の名前に力があるのかを示すことでした。私たちは自分の力に、自分の経験に、知恵に頼りがちです。そこに自分の計画、計算をおきます。しかし、今日の事件は主の名前にいかに力があるのか示す事件でした。きょう、主イエスのみなを宣言して、主の戦いを宣言して行きます

Sunday, September 15, 2013

あなたの偶像を叩き壊せ!(士師記6;25-39)

士師記6;25-39
6:25 その夜、主はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。6:26 そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」
6:27 そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。6:28 町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。6:29 そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ。」と言った。6:30 ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」6:31 すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」6:32 こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい。」という意味である。
ギデオンは,主なる神様の命令によって偶像を壊すことにします,それは,何と彼の父の家にある偶像でした.私にとって偶像はなんでしょうか?また,彼は自分の父の家にある偶像を壊します.これは,下手をすると家族関係,父との関係が難しくなる部分でした.しかし,彼は人を恐れて夜に行動しながらも,主の命令に従順し,行動します.私にとって神様以上にて頼っている偶像はなんでしょうか?まちがっているとしりつつも除去していない偶像はなんでしょうか?クリスチャンにとってあってはならない文化を追放することはなんでしょうか?今日,主イエス以上に頼るものを追い出して行きたいと思います.イエスの命令にしたがい,自分の家族にあるものでも,他に頼るものがないことを宣言します

収穫のない人生,恐れのある人生(士師記6;1-10)

士師記6;1-10,
6:1 イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。6:2 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。6:3 イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。6:4 そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。6:5 彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすためにはいって来たのであった。6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は主に叫び求めた。6:7 イスラエル人がミデヤン人のために主に叫び求めたとき、6:8 主はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。6:9 わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。
6:10 それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
 イスラエルの民は自分のしたいようにきた結果,収穫をしようとしても,ミデヤン人にとられていく,それを守る力のない,弱い人に,恐れのある人生になりました.神様の声を聞かない,自分の好きに生きる人生は楽に見えても,実は恐れのある人生,弱い人生,守る人のいない人生,自分を守って,すべてのものを供給してくださる神様の中にある平安のない人生です,そんなイスラエルに,クリスチャンに,神様は預言者を遣わして警告のメッセ-ジ,そして悔い改めのチャンスをくださいます.感謝なことです,悔い改めのチャンスが差し伸べられているのですから.今日,神様の声を聞いて行く人生を回復して行きます.

神様のコ-リング(士師6;11-24,)

士師6;11-24,
6:11 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。6:12 主の使いが彼に現われて言った。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか。』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」6:14 すると、主は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」6:16 主はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」6:17 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。6:18 どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう。」と仰せられた。6:19 ギデオンはうちにはいり、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。6:20 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。6:21 すると主の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。主の使いは去って見えなくなった。6:22 これで、この方が主の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」6:23 すると、主はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」6:24 そこで、ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。
ギデオンを主なる神様が呼ばれます.それは,彼が隠れて 小麦を打っているときでした.隠れている人に,恐れていると時に,主が呼び出されます.それは,人間の状態や能力神様は左右されるかたでありません.まず,コ-リングは①神様があなたともにいる.これがないと何も始まりません.何もできません.②神様のメッセ-ジに,使命を受けます.③神様の使命に信仰を持って反応します.そこで,多くの人々は疑います,恐れます,確認をしたいと思います.神様はそんなギデオンに答えて,奇跡を見せてくださいました.奇跡は神様を示すサインです,そして,言われます.恐るな!と.今日,主のコ-リングに勇気を持って答えてきます.主がともにいます.私たちはそんな神様に,ギデオンのように礼拝を持ってこたえるしかありません.

生活のすべてが賛美の理由です(士師記5;19-31,)

士師記5;19-31,
5:19 王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。5:20 天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。5:21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。5:22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬はけりまくる。5:23 主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』5:24 女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。5:25 シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与え、高価な鉢で凝乳を勧めた。5:26 ヤエルは鉄のくいを手にし、右手に職人の槌をかざし、シセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し通した。5:27 ヤエルの足もとに彼はひざをつき、倒れて、横たわった。その足もとにひざをつき、倒れた。ひざをついた所で、打ち殺された。5:28 シセラの母は窓越しに、格子窓越しに外を見おろして嘆いた。『なぜ、あれの車の来るのがおそいのか。なぜ、あれの車の歩みが遅れているのか。』5:29 知恵のある姫君たちは彼女に答え、彼女も同じことばをくり返した。5:30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。めいめいひとりの勇士にひとりかふたりの娘を。シセラには染めた織物の分捕り物を。染めた織物の分捕り物、色とりどりに刺繍した織物。分捕り物として、首には二枚の刺繍した織物を。』5:31 主よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。」こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。
デボラとバラクは主の勝利のあとで歌います.主がどのよようなことをされたのか?信仰で導いてくださったのか賛美します.信仰の人は,自分の状況や,自分の周りの人々で起こっていることを霊的な目で見ます.信仰を持って,すべての状況で主イエスを賛美します.私はどれほど,自分の生活の中で,自分の状況を導かれる神様を賛美しているでしょうか.主なる神様の主権を認めているでしょうか. 不平や不満が消えて,心配がおさまり,主なる神様からの信頼を持って賛美が起こり,未来のへのビジョンが与えられることを信じます.今日,賛美を持って一日をstartします

信仰の勇士に神様の勝利がくださる(士師記7;1-8)

士師記7;1-8()7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。7:2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。7:4 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。7:7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった
ギデオンとイスラエルの3万2千人の民は,主から言われます.\このたみは多すぎるから,自分の力で自分を救ったと言ってはいけない,と言われ,恐れている人が帰されます.それは,3分の2の数二も登りました.そして,神様の最終的な選びがあります.口に手を当てて水を飲む300人と,ひざをついて水を飲む残りの者たちです.わずか,300人しか残されなかったのです.これでは,完全に人間的には勝てない状況まで追い込まれました.今朝,私の祈りと適用は,主よ,謙遜に人させてください.です.この3日間,3BOSTOにある大学の寄宿舎にある学生教会で,賛美の祈りの夕方という集会でみ言葉の奉仕をさせていただきました.私にとって3日間連続の奉仕ははじめてでした.金曜日,土曜日,までメッセージの奉仕を無事にさせていただきました.そして残り,今日の日曜日の礼拝奉仕が主が救われた,主イエスの勝利の中でさせてください,私でなくて,と祈りました.主の栄光だけが表されますように

Monday, September 9, 2013

主が与えるなら信じよ!(士師記4;11-24)

士師記4;11-24、
4:12 一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、
4:13 シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。4:14 そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。4:15 主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。
4:16 バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。4:17 しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。4:18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕にはいったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。4:19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。4:20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか。』とあなたに尋ねたら、『いない。』と言ってください。」4:21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。
4:22 ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。
4:23 こうして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。
4:24 それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。
 
 
 
今日の聖書箇所で「きょう、主があなたの手にシセラを渡される、主はあなたの前を出て行かれるではありませんか」14節とあるように、バラクとイスラエルにカナンの王様の将軍であるシセラを渡すと約束をくださいます。その主の約束を信じているでしょうか?神様は20年間もイスラエルを支配した戦車を倒し、乱し、すべてを剣に渡します、完全な勝利です。弱く、力のないイスラエルのゼブルン、ナフタリから一万人を選び勝利の栄光を与えます。しかし、将軍シセラを倒す栄光は、一人の女性にありました。神様は小さい、弱く見えるものを用います。神様にとって、力のあるないは重要でありません。重要なのは、神様の声に信仰で応答するかどうかです。今日、正直プレッシャーと恐れのあることがありました。しかし、神様の祝福の中で教会の礼拝がありました。感謝すると同時に、信仰がないな、と思わされました。主が与えるなら弱いものを、何も無いものを用いられる主を信じます。

Sunday, September 8, 2013

主に呼ばれたら行け!(士師記4;1-10)


士師記4;1-10、
4:1 その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。
4:2 それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。
4:3 彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。4:4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。4:5 彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。4:6 あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。4:7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」4:8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」4:9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。4:10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。
日のQTは女性の士師であるデボラを通して神様が「ゼブルン」と「ナフタリ」から一万人を選び、その中からバラクを呼びます。それは、イスラエルを20年間苦しめたカナンの王様ヤビンの将軍であるシセラと鉄の戦車990両を破り、「あなたの手に渡す」と言われた神様の召しをなすためでした。ところが、バラクは女性士師であるデボラが共に行くことを願います。彼には自信がなかったのか、不安であったためでしょうか?信仰の決断、反応がすんなりとできなかったようです。今までメジャーでなかった部族であったろうゼブルンとナフタリ、しかし、神様はこの部族を通して神様のために用いたい、神様の民を救いたい、と呼んでくださいました。私たちはそのような神様の召しに答えているのでしょうか?自分が小さい、自信がない、よりも神様の召し、神様が私を使ってくださる、そこに私は、私たちは焦点を合わせるべきでないでしょうか?今の私は大したことができていない、教会の奉仕が小さい、でなくて、神様の召しに答えて強く歩んでいく私になることを祈ります。アーメン。

Friday, September 6, 2013

神様の救出計画を実行せよ!

士師記3;15,27(12-31)今日は二番目の士師である左利きのエフデと言う人が出てきます。中近東では「左利き」というと、特別な意味か、珍しいか、あまり良くない意味で使われていると聞きます。その彼が主なる神様の前に悪を行ったことから18年間モアブ(ロトの子孫)に支配されたところから救助をします。18年間とは長い期間です。一人の子が音になる期間です。そこで、思ったことは偶像を礼拝するものは、仕える者は、罪を犯すものは逆に罪に知らないうちに支配される、逆に奴隷になる、ということです。エジプトから脱出して奴隷から解放されたのに、この約束の地で奴隷になりました。クリスチャンも神様の救いを受けて、新しい生活に入っても、罪のために逆に奴隷に戻る可能性があります。楽しい、快楽など目の前にあってもそこに誘惑されるなら、知らないうちに奴隷の生活になります。私は自由なクリスチャンでしょうか?その罪の結果の刈り取りは大きなものがあります。また、左利きのエフデですが、モアブの王様に貢物を納めるポジションにいました。間違いなく有力者か、でなくては国への裏切り者であったかもしれません。しかし、分かりませんが、そんな彼に神様の召しが会った時に勇気を持って王を殺し、人々に神様のビジョンを宣言し、人々を集め、実に今度は80年の祝福(神様の祝福ってすごいですね、奴隷は18年だったのに)を一人の神様のリーダーのためにもたられされたのです。今朝の私の黙想、適用は①私の打つべきモアブは、罪は何か?②勇気を持って倒すべき敵は、乗り越えるべきものは何か?③神様のビジョンを宣言して人々を集めることは何か?④リーダーシップもって仕えることは何か?⑤宣言するべきビジョンは何か?です。勇気を持って今日を過ごし、出会う人々に主の恵み、救いを語ります

Thursday, September 5, 2013

主のTRIALのとき

士師記3;4節(QT本文1-11)主なる神様が戦いを知らない世代に、神様の命令に聞き従うかどうか?試み、知るために「残されたカナンの民がいた」とあります。何故でしょうか?そのようなことをされたのでしょうか?本当なら、主に従って戦うなら、主がカナンの民を追い出してくださったはずなのです。しかし、信仰を持って彼らは出ようとしませんでした。そこで、神様のイスラエルへの、クリスチャンへのTEST2とTRIALが始まります。やはり、イスラエルの民はどうかしてはいけないカナンの文化、民と結婚をして、簡単に偶像礼拝、偶像に仕えることが始まります。私たちは、私はどうでしょうか?交わってはいけないラインを妥協していないでしょうか?簡単に入れてはいけない世の中の(悪い意味の)文化を自分の大事なところに入れてしまい、影響を受けて、気がついたら大変なことになった、ということはないでしょうか?この朝、私自身確認したいと思います。また、その中でイスラエルの民たちが叫び求めると「救う救助者、オテニエル」を起こした、とあります。その前にイスラエルの民が罪を犯した時に、「売り渡された」という表現があります、REDEEMERなる神様(贖い主)が売り渡す、という表現に驚きました。それでも、主は叫び求めると救う救助者を起こしてくださいます。私たちをもう一度贖いだしてくださいます。今日、主のTRIALに神様の救いを信じて応えて生きます。

Wednesday, September 4, 2013

言うことを聞かない人の人生

士師2(11ー23)19節、」今日の聖書箇所は、士師記の表題になるような聖書箇所です。これから学ぶ主題をつけたような箇所です。それは、①神様の声を聞かない頑迷な生き方、②ヨシュアが残した追い出すべきカナンの民を追い出さない(自分たちの中の不純物を追い出さない)その結果、彼らから逆に影響を受けて偶像礼拝をし、神様に従わなくなります。性の乱れも起こります。性のみだれは生き方の乱れです。頑迷とはよく言ったものです。頑固で迷っていて、しかも神様が声をかけて、さばきつかさを送って救ってもいうことを聞かないのです。今朝、黙想することがありました。神様の声を聞く謙遜さ、賢さは人はから尊敬される生き方でないか!?と。学生時代の友人たちが思い浮かびました。自分の中で悩み、さまようと人と、たとえ辛くて大変でも神様の声を聞いて生きる学生は、背ずじがぴんとのびて、骨の通った人だったと。それは、一目おかれる存在であったことを思い出しました。今日、主のみ声を聞くクリスチャンになっていきます。主のみ声を聞くクリスチャンを育てて行きます。この南カリフォルニアに尊敬されるクリスチャン、教会を主にあって立てて行きます。私でなくて、主のみがなされることを信じて。

Tuesday, September 3, 2013

主を知るとは?!

士師記2;10「その 同世代の 者もみな, その 先祖のもとに 集められたが, 彼らのあとに, 主を 知らず, また,主がイスラエルのためにされたわざも 知らないほかの世代が起こった.」 (QT聖書本文1-10)ヨシュアとヨシュアと一緒にいた長老たち(7節:主がイスラエルのためになされた大きなみわざをみた)が生きている間は、イスラエルは主に仕えました。しかし、彼らの後、主を知らず、主がなされたみわざを知らない人々が起こった、とあります。主を知らないとはどういうことでしょうか?神様を知らない、ということでしょうか?まったく信じていない、とか聞いてもいないということでしょうか?黙想しました。私は神様を唯一の私の主としない、と言うことでないか?と思いました。それは、人生の主人である神様以外に、快楽や自分の楽しみ、自分の力や他に頼るものを作ることでないか?と思いました。文字通りに神様を知らないわけがありません。聞いたはずですし、ヨシュア記でも、子孫のために信仰の記念碑を作っています。私にとって、主なる神様を知ること、主なる神様がイスラエルのために奇跡をなされたことを見たことがない、とはどういうことでしょうか?それは、人生の主人なる神様をお迎えしていないことです。また、その神様を次世代が人生の中で体験するように教え、伝え、証しすることです。主を知るとは、私の人生の主人であること、その方が私の人生の全てを満たし、奇跡をなされ、大きなみわざを体験することです。主を知る一日を体験していきます。義人は信仰によって生きる。神様の力、十字架によって歩んでいきます。主よ、導いてください。

Monday, September 2, 2013

不純物と同居していないか?

士師1;30(QT聖書箇所22-36節)ヨシュアの死後、イスラエルの民は約束の地をとり
に行きます。しかし、今日の聖書箇所では、ユダ部族以外のイスラエルの部族(エフライム、ゼブルン、ナフタリ、アシュルン)はカナンの民族を征服できず、彼らが住み通したり、彼らを苦役に服させても、カナンの民が残ることが起こります。ダンにいたっては彼らに圧迫されて山地へ追いやれます。何故、彼らは聖絶したり、他部族と協力してカナンの民を追い出せなかったのでしょう。また、追い出さず、聖絶しなかったことの結果は何でしょう?それは、イスラエルの民は受けてはいけない世の中の文化を受けて堕落したり、カナンの宗教の影響を受けて子供をささげたり、性的な堕落へ(アシュルなど、豊穣を意味する偶像の神殿では性的な堕落をもってきました)性の乱れは、生き方の乱れをもってきます。聖地旅行の中で偶像礼拝の危険さ、またそこへ神様の裁きをレクチャーを受けました。また、社会的、国家的にもイスラエルは支配されたり、攻撃され続ける影響を受けるようになります。時間が掛かっても、たとえ、現実的に難しくても、カナンの支配を追い出さないといけなかったのです。罪を不純物を除去しないといけなかったのです。そうでないと最終的に大変なことになるのです。今日、私が受けるべき霊的な教訓は何でしょうか?それは、私の中の不純物を同居しているのものを除去しろ、ということです。日ごとに追い出さないとすぐに影響を受けて、知らないうちに占拠されてしまいます。これくらいいいじゃないか?仕方ないじゃない、という誘惑があります。今日、主の助けをもらって不純物、人への人間な依存、罪を除去していきます。主イエス・キリストの十字架を見上げていきます。

Sunday, September 1, 2013

この地を与えてください

士師1;1ー3(QT聖書箇所1;1ー21)今日から士師記のQTです。イスラエルの民は、指導者ヨシュアの後に残された地がありました。神様の約束された地でありつつも、未だに征服されていない地、私たちがとりにいかないといけない地です。そこで、彼らは最初にどうしたらいいのか?まず、神様に聞きます。非常に大事な点です。私たちは何かをする時に、まず神様に聞いているのでしょうか?そして、神様の答えをもらっているのでしょうか?それとも、神様に聞かないで決めているのでしょうか?次に大事なのは神様の答えをもらったら、 従順しているのか?!ということです。時に神様の答えにできるのか?恐れや心配を持つことがあります。誰でも始めてのことは恐れがあります。それでも、神様を信じて進んでいるのでしょうか。また、ユダはシメオンに向かってパートナーを持って、戦友として戦いに伴うことを願います。今朝の私の祈り、適用はこうです。主よ、このちをtorranceを South Bayを、南カリフォルニアを私に与えてください。イエスの愛を伝えさせてください。そして、神様の戦友をパートナーを与えてください。カレブのようにあの日、主が約束してくださったことをなしてください、今日の礼拝は小さいことですが、神様への祈り、約束、適用がなされる主日でした、主のみなを賛美します。

Saturday, August 31, 2013

愛することは強制しない

ピレモンへの手紙15。18節、使徒パウロは、ピレモンにオネシモを取り戻すのは永遠に取り戻すためであった、と言います。それは、奴隷としてでなくて、永遠に続く神様の家族として取り戻すためであった、と言います。本当に人を得るとは救われた人として得ることです。しかし、パウロは奴隷としてオネシモがした過ちを彼が責任を取ると言います。それは、そこまで彼がしなくていいぶぶんを補うと言っているのです。主の許しと人間としてすべきことを負うパウロの姿があります。これこそ、リーダーの姿でないでしょうか?私はどうだろう、と思うと遠いとおいと思いました。しかし、愛することは強制でなくて、自ら進んで追うものです。パウロはリーダーとしての姿、愛を見せてくれます。今日、また主イエスの愛をもって強制でなくて、自ら従うリーダーになって行きたいと思います。

ただイエスの愛に結ばれて

ピレモンへの手紙:使徒パウロは、彼の愛する同労者へ手紙を書きます。目的は交わり、そして奴隷であったオネシモのことで彼を赦し、開放してもらうことでした。その中で、使徒パウロは
自分のことを「キリストの囚人」と紹介します。彼が犯罪を犯したのでないのは明らかです。政治的にも、社会的にも、おまけに宗教的にも罪を犯しませんでした。彼が縛られているのは、ただイエス・キリストの十字架によるものです。彼の人生を進めるのは、イエス・キリストの愛です。イエス・キリストの愛に結ばれて囚人になったのです。そのことを彼は誇ります。それは、強制でなくてイエスの愛に対して自ら選び、進んだ道でした。今日、主イエスの十字架の愛で結ばれる人生を歩んでいきます。主よ、そんな人生に導き、示してくださって、感謝します、賛美します。

Thursday, August 29, 2013

静まり待つとは、主を喜びながら待つ

ハバクク3;16,18節(QT本文11-19)16節「私は聞き,私のはらわたはわななき,私のくちびるはその音のために震える.腐れは私の骨のうちに入り,私の足もとはぐらつく.私たちを攻める民に襲いかかる惱みの日を,私は靜かに待とう.」18節「しかし,私は主にあって喜び勇み,私の救いの神にあって喜ぼう. 」 私たちは、どうやって自分をおとしめる、脅迫する、攻撃する人に対して「静かに待つ」ことができるでしょうか?①主の前に正しく祈り、訴えることです。それは決して自分を高慢に出来ません。なぜなら、全てをご存知な神様の前に嘘はつけないからです。それは非常に危ないことです。謙遜にありのままに神様の前に、いや十字架のイエスによって神様の前に出るしかないのです。②神様の民として生きるものに訴えこと、神様の救いがきます。神様のものでないなら自分たちはどれほど危険なことでしょうか。今までどれほど、神様が救いを私に下さったことでしょうか。神様に感謝し、賛美します。③そして、不必要なことをしないこと、人間に頼るのでなくて、神様に向かっていきます。④神様の偉大さ、救い、そして私のために闘ってくださる方であることを経験することです、その時に静まり、主を喜びながら待つことが出来ます。今朝、もう一度、ハバクク2;4「見よ. 心のまっすぐでない 者は 心高ぶる. しかし, 正しい 人はその 信仰によって 生きる.」にたっていきます。主よ、助け、導いてください。

Wednesday, August 28, 2013

神様の力強さに自分の人生をおけ。

ハバクク3;8節(QT本文1-10)「主よ. 川に 怒りを 燃やされるのですか. あなたの 怒りを川に向けられるのですか.それとも, あなたの憤りを海に向けられるのですか. あなたは,馬に乗り,あなたの救いの戦車に乗って來られます.」QTをしながら、ハバククって、カッコイイ、素敵な人だなと思いました。大変な中で、厳しい中で、人に文句を言うのでなくて、不平を抱いて人格がゆがむことなく、大変な時に堂々と、力強く主なる神様の前に祈ります。何よりも、神様を正しい意味で畏れ、その神様の前に訴えます、祈ります。今朝、思いました。私はどれほど、神様の力を知っているのか?過去になされた神様のみわざを覚えて、未来への約束に変えているのか?神様が必ずなされることを期待して祈っているのか?自分の感情や自分の正義感でない、全能なる神様のうえに自分の人生をおきたい、と思います。あなたに私の人生、奉仕、人間関係、おいていきます。それこそ、主の解決、答えをもらう人生だと思います。主の救いの戦車をまちます。主よ、みわざをなさってください、しもべは期待し待ちます。

Tuesday, August 27, 2013

水が海を覆うように

ハバクク2;14節「まことに, 水が 海をおおうように, 地は,主の榮光を知ることで滿たされる.」(QT聖書箇所9-20)
今日の聖書箇所は、恥と栄光、不正と暴虐により築いた都市やお金が虚しいこと、そしてそこで主の栄光、主の右の手の働きによる裁きが書かれています。今朝、思ったことなのですが「不正による富、お金、そしてそこで作っていたった人生」それが、どれほど危ういものなのか?そこへの神様の裁きがあることなのか?覚えているのか?主の栄光をどれほど現実的に考えているのか?思いました。預言書のQTは難しいです。しかし、必要だから神様が与えてくださることを覚えます。主の栄光に満たされているのでしょうか?地上での瞬間的なものだけを求めているのでしょうか?今日、主の栄光が地上で、私の人生に、教会に満たされるビジョンを見て、主の栄光を伝えていきます。自分が主の栄光を見て行きます。主よ、このLAに、北米、日本へ主の栄光が水が海を覆うような圧倒的な栄光、力で満たしください。

Monday, August 26, 2013

全ては主がなされることを知る人生

ハバクク2;4節(2-11)「見よ、彼の心はうぬぼれていてまっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によっていきる」信仰で生きる人とはどんな人でしょうか?それは、私の人生は最初から最後まで、すべてイエス・キリストによって成就する、完成することを信じる人です。その人は、待つことが出来ます。現実が難しくても、目に見える現実に変化が見えないとしても、神様の幻を宣言して、信じて歩みます。なぜなら、私の人生は、イエス・キリストの十字架によって救われたからです。今日のQT箇所で後半の部分である、バビロン(カルデヤ人)の罪への指摘は流して読むと他人事に聞こえますが、心の中で犯した思いや、感情は無いのか?というの私自身への問いかけでした。そんなにあなたは聖人なの?といわれたら、とんでもないです、私は本当に罪びとです。あなたに頼るしかないです。イエス・キリストの十字架に頼るしかないです、と告白するほかありません。ならば、私の人生も、ビジョン、教会もなされるのは主イエスのみです。現実的には難しいし、恥ずかしいけど、神様のビジョンを宣言して、信仰で歩んでいきます。主よ、あなたの十字架の勝利を、栄光を与えてください。しもべはまちます。

Saturday, August 24, 2013

神様に叫べ!祈れ!

ハバクク1:(1ー11)2節「主よ、私が助けを求めて叫んでいますのに」今日かQTは、ハバクク書です、バビロンのユダ侵攻以前に暴虐のあった頃の時代の預言者、エレミヤと同時代でないか(BC605年ごろ?)と言われています。暴虐がはびこっているのになぜ、神様はすぎに裁きをなさらないのだろうか?という疑問を持って彼は祈ります。人にとって苦難にであって難しいのは❶いつ、神様は私の祈りを聞いてくださるのだろうか?という疑問を持ちます。しかし、今朝思いました。いつって分かったら人は祈らないかも、と思いました。かえっていつかわからない方が感謝なことです。何よりも、時は神様のなさる時がベストタイミングです。次に苦難の頃時の疑問は❷なぜ、この悪いことが起こるのか?神様はいるのに、という疑問が起こります。すぐに裁きがなされるのなら、私の罪はどうでしょうか?大きなことでない、あの人やあのことに比べたら、大したことでないから、と思うのでしょうか?神様の義の前に誰も太刀打ちできません。もちろん、神様は義なる方で罪を受けいれる方でありません。必ず神様の裁きはあります。私たちに苦難の裁き、なぜ、起こるのか?どうして苦難があるのか私たちにはわからないものです。しかし、神様はご存知です、ならば、思い切って祈ってるでしょうか?思い切って叫んでいるでしょうか?それとも、苦難の不満を、暴虐があることを人の側にぶつけたり、していないでしょうか?なぜ、謙遜に神様の前に祈らないでしょうか?そんなに自分で解決できるのでしょうか?忙しい、というのでしょうか?今日、教会の奉仕、福音を伝えること、日本のために、アメリカのために、苦難の人々のために。自分の人生を神様の前に叫び、祈ります。ハバククは神様からの答えをもらいました。どんなに嬉しいことでしょうか?神様の前に祈り、答えをもらうことを期待して、確信して祈って行きます、主よ、祈りに答えてください、あなたの御心を信じます、何よりも、あなたを自身を信じます。

Friday, August 23, 2013

Actsのフィナーレは宣教は続くこと

使徒行伝28章(23-31)「そこで,彼らは日を定めて,さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た.彼は 朝から晩まで語り続た.神の国のことをあかしし, また,モ ― セ の律法と 預言者たちの 書によって, イエス のことについて彼らを說得しようとした.」
使徒行伝のフィナーレは唐突です、パウロがローマについて相変わらず伝道した、そしてイエスを伝え、教えた。その後の彼の人生は?書かれていません。その事は一番神様が伝えたい、ということでないからです。大事なことは何でしょうか?イエスの事を伝えたことです。それは、今も伝え続けられていることです。パウロは「朝から晩まで語り続けました」そのような情熱が私にあるでしょうか?そのように「おおぜいで」たずねてこられて福音を伝えるチャンスを生かして、伝道して、生きているでしょうか?まだまだだな、と思います。当時の中心であり、心臓部であり、盈虚力を持ったローマで伝道しました。私もこのLAで朝から晩までイエスを伝える情熱、伝道をしたい、大勢の人が尋ねてくるミニストリーをしたい、と思いました。神様の福音を伝えるためにローマへ苦難の中で来たパウロはその御心を行い、語ります。この語れたユダヤ人の中で、①イエスを信じたユダヤ人もいたし、②信じなかったユダヤ人もいました。そこで、パウロは27節「この 民の心は鈍くなり,その耳は遠く,その目はつぶっているからである. それは, 彼らがその目で見,その耳で聞き,その心で悟って,立ち返り,わたしにいやされることのないためである」28節「ですから, 承知しておいてください. 神のこの 救いは, 異邦人に 送られました. 彼らは, 耳を 傾けるでしょう. 」と宣言します、普通なら人間関係上、角が立つ、でないけど、言わないことです。なぜでしょう?それは、世界福音へ行く神様の心を宣言するためです。ACTSは世界宣教される、そこで、次世代の宣教師たち、クリスチャンたちがヨーロッパ、アジア、アメリカ、日本、韓国へ宣教し続けることで終わります私たちもACTSから宣教のバトンタッチを受けています。北米に日本人宣教に来て、2年半ほど、そこで使徒行伝のQTをするのに神様の恵みを感じます。思えば、神様に賛美と祈りの中でいただいた御言葉でした。LAで、北米にACTSのバトンを持って宣教していきます

Thursday, August 22, 2013

あなたはヴィジョンマップもっているか?!

使徒行伝28章15節「私たちのことを 聞いた 兄弟たちは, ロ ― マ から アピオ · ポロ と トレス · タベルネ まで 出迎えに來てくれた.パウロは彼らに会って,神に感謝し,勇氣づけられた.」 (QT本文11-22)とうとう、パウロがローマに到着しました。QTをしてきて感動しました。とうとうローマへついたんだ!神様の約束が成就した瞬間だった!と。そこで思ったことがありました。パウロがローマへつくのは神様の御心であった。でも、そのたどり着けるには、①神様の声を聞くこと、②神様の心に従うこと、③そして、神様の御心でありつつも、ありえない苦難がくる。そこでも、主を信じ続けること、それがなかったらココに到達できることはなかったのでないか?と思いました。私はどうだろうか?と思いました。つい先日、ある執事の人と話した時に人生のビジョンマップ、ファミリーマップを作ろう、教会のビジョンマップを造ろう、と話されたことを思い出しました。それも、人間は自然に祈りの課題や目標と言ったら、ビザや職業の事しか出てこない、御言葉を読ませてから出てくる祈りの課題、ビジョンマップは出てくるものが違う、という話をされました。1年後、3年後このように教会は成長する、御言葉を学ぶようになる、聖書を読むようになる、私の未信者の家族は数年後に救われるように、このように伝道しよう、聖書の前にクリスチャン小説を読んでもらおう、とか、人生を御言葉もってエキサイティングに生きよう、天国に呼ばれるまで、進んでいこうと言われました。本当にその通りだと思いました。パウロはまさに宣教、ビジョンマップのなかでとうとうローマに到達しました。涙が出てきます、感動です。私も、私の人生の中で、神様のビジョンマップもってローマに到達したでしょうか?また、パウロはローマがゴールではありません、通過地点です。主に一つ一つ、日ごとに従う中で、苦難の中でも、到達できたのです。今日、主にあって一つ一つ私に与えられた奉仕を喜んで、仕えさせていただきます。

Wednesday, August 21, 2013

専門外の人を動かすリーダーシップ

使徒行伝27章34、43節(本文27ー44)使徒パウロは、船が難破した時にリーダーシップを発揮します。それは、辛い時に、大変な時に、誰もが責任をいたくない時に、リーダーとして皆を元気付けたのです。彼の忠告に従ったらこんなことにならなかったのに、です。しかも、その中で彼は、自分の専門外の、領域外の、自分の経験の外でリーダーシップを発揮します。ローマの百人隊長に兵隊たちに、水夫が逃げることを伝え、止めさせます。また、船にいる人々、水夫など、自分の専門外の人々、他の人々を動かします。クリスチャンが、宣教師が、牧師がこのように外でも、危機の時にこんなになくてはいならないリーダーならどれほどいいでしょうか?!パウロのリーダーシップはどこから来るのでしょうか?彼は自分の専門外のことを勉強したのでしょうか?みるからにカリスマに満ちた人だったのでしょうか?かもしれませんが、それよりも徹頭徹尾主にしたがう人でした。信仰の人で、目に見えない現実も信仰の目で進む人でした。また、信仰をもって人々を主の心へ進ませる、励ます人でした。自分よりも他の人を祝福し、立てることを知っている人でした(使徒パウロって、人を立てますよね。)一人の神様の人が危険な船の中にいるだけで、救いがきます。神様の助けと心を聞けます。今日、主につかえるリーダーとして少しでも(遠すぎますが、キム・サムエル先生はそうだったな〜)仕えて行きます。また、神様は囚人を殺そうとする兵士たちを百人隊長を通して止めさせます。

人生の意味を悟らねば、奇跡も愛も

使徒行伝28;8節(本文1-10節)「たまたまポプリオの父が,熱病と下痢とで床に着いていた. そこでパウロ は, その人のもとに行き,祈ってから, 彼の上に手を置いて直してやった」10節「それで 彼らは, 私たちを 非常に 尊敬し, 私たちが 出帆するときには, 私たちに 必要な 品¿を 用意してくれた. 」パウロたちは、島にたどり着き、救われました。ところが、そこでパウロだけが蛇にかまれる、という事件があります。しかし、御言葉の約束どおりに(マルコ16;18)無事に守られました。また、その後で島の酋長の「ポプリオの父」の病を癒し、島の人々が病を治してもらいに来ます。島では、大きな助けと愛を受けました。苦難の中に神様の愛が待っています。しかし、今日、思ったことは「大きな奇跡も、苦難の中での愛」も、その意味を知らないと意味がないということです。人生の意味を、自分の神様に与えられた使命を果たさずに、奇跡だけにすごい!、愛に感謝ですね、で終わるのなら虚しいことなのです。島の人のようにパウロを尊敬するのは感謝ですが、パウロ自体が神ではありません。私たちは、してもらった愛に感謝して、答えて生きる人生を歩んでいるでしょうか?その背後におられる神様の愛にこたえる信仰者でしょうか?また、奇跡だけについて歩く人でないでしょうか?イベントや軌跡に感謝しても忘れるなら、意味がないといいませんが、きついものがあるでしょう。今日、主の前に私に与えられたACTS29ビジョンを持って主にある再スタートをとって生きたいと思います。主よ、人生の意味を深く刻んで、私も立ち上がらせてください。

Tuesday, August 20, 2013

主を信じるとはどういうことか?

使徒行伝27章27節「十四日目の 夜になって, 私たちが アドリヤ 海を 漂っていると, 眞夜中ごろ, 水夫たちは, どこかの陸地に近づいたように感じた.」
使徒パウロたちは海難に出会います。そこで、船が進まず、また暴風に出会い、流されるにまかせ、パウロを通しての神様の声(必ずローマで証しすることになり、他の人々は誰一人として失われることなく助かること)を聞きながら、進みました。しかし、何か目に見える状況は変わることなくあったときに、陸に近づいたことを感じたのです。そして、それが「少し進むと40メートル、30メーーとる」であったこと、少しずつ陸地に近づいていることを感じたのです。信仰ってこんなものでないか、と思いました。神様のみ言葉の約束はあるけど、すぐに具体的に、現実的に変わるものがないけど、信仰を持って反応する時に「目の前の現実が少しずつ、変わっていく」ことを体験します。それは、使徒行伝の時代も現代も差がなかったのです、使徒がいたとか、イエスがいたと言うかもしれませんが、そこにいる人々は信仰をもってパウロの言うことを信じれずに、信仰のSTEPを踏むことは出来なかったのです。イエスのいた時代さえもそうです。イエスが目の前で説教しても信じず、かえって逆恨みし、イエスを殺しさえしたのです。今日、主にある現実を信仰を持って反応し、歩んでいきます。主のみ言葉を持って深みに漕ぎ出します。

Monday, August 19, 2013

神様のリーダーは投げ出さない!

使徒行伝27章22節「しかし, 今,お勸めします.元氣を出しなさい.あなたがたのうち,いのちを失う者はひとりもありません.失われるのは船だけです. 23節「昨夜, 私の主で,私の仕えている神の御使いが,私の前に立って, 」24節「こう 言いました. 『恐れてはいけません. パウロ . あなたは必ずカイザルの前に立ちます. そして,神はあなたと同船している人々をみな, あなたにお与えになったのです. 』 25節「ですから, 皆さん.元氣を出しなさい.すべて私に告げられたとおりになると,私は神によって信じています.」使徒パウロの忠告を受け入れなかった人々は、船が進まず、さらにユーラクロンにあい、暴風によって船が進めず、積荷を捨て(自分の大事なものを投げ捨てて)、船具を捨て(自分で進むことを放棄したこと)食事(生きるの望みを置いて)もとりません。パウロにとってどんな思いだったでしょうか。しかし、パウロはこの状況ののなかで神様の声を聞き、人々を励まします。普通なら、私の助言を聞けばこのようなことにならなかった、とか。もはや彼らのせいでだめだ~とか思わないでしょうか?私ならそうです~しかし、彼は神様の声を聞き、「恐れるな!私が共にいる、そしてローマのカイザルの前に立つ」ことを宣言されます。それを人々に伝えて、食事を取り、元気をだせ!と励まします。目の前にある状況は未だに動いてません、具体的に何か動いているのでありません。しかし、信仰を持って動くのが、人々を諦めずに導くのが、勧めるのがリーダーです。そうでないと信仰でありませんし、面白くないでしょう。今日、投げ出さないリーダーに励ますリーダーになることを、歩んでいきます。主よ、恐れるな!という神様の言葉の上にたたせてください。

Sunday, August 18, 2013

あせると神様の言葉を逃す

使徒行伝27;9、11「」

使徒パウロは、ローマへ向かうことになります。ユリアスという百人隊長により親切に扱ってもらい、友人からのもてなしを受けることもありました。苦難にあっても、こういう出会いは感謝なことです。しかし、パウロたち一行の旅程は遅ととして進みませんでした。この中で、パウロは航海はするには、危険な時期にきていること、そして預言して「この航海で私たちに船や積み荷のみならず、命にも危険や損失を及ぼします」とアドバイスしまた。しかし、大多数の人とローマの百人隊長は「できれば、もう少しいい場所で冬を過ごしたい」という現実的な焦りから、目の前の問題を先に動かしたい、という思いからパウロの助言を退けます。私たちの人生にこういうことがないでしょうか?大事な神様のリーダーからの助言を、目の前にある問題を解決したい、具体的なことを優先して、神様のことを後する、に結果、大事なことを失敗します。神様のことよりも、聖書を読むよりも、礼拝よりも、奉仕よりも、自分の目の前のことを解決しようとしてますますしんどくなります。神様はこうしたらいい、と語ってくださるのに。今日、主の言葉を静まり返聞いて始めます。

Saturday, August 17, 2013

どんなタイプにも真摯に福音を語れ!

使徒行伝26章25節「するとパウロは次のように言った.「フェスト閣下、気は狂っておりません.私は,まじめな眞理のことばを話しています. 」
使徒パウロは、アグリッパ王と総督フェスとの前でイエスの福音を伝えた時に反応は①総督はフェスとは「博学が狂わせている」と(どう考えても、シンプルな福音しか語っていないのに博学のせいにするなんて、本当に日の顔色だけをみている、まじめに人生の問題にぶつかろうとしない)ことを感じます。②アグリップ王は、少しの言葉で「私をキリスト者にしようとする」と警戒し、気をつけます。しかし、少しは真摯な姿勢があります。そして、パウロは③相手がどんな反応であろうが、そして自分がどんな状態(無罪でありつつも、鎖につながれていようが)であろうが、イエスの福音を語り、真摯に福音を伝え続けようとします。果たして、私はいつも、どこでも、どんな相手にも真摯に福音を伝えようとしているでしょうか。この相手は難しいとか、パウロは言いませんでした。また、自分は監獄にいるから、とも言いませんでした。その結果、王に権威者に、そしてローマまで宣教することになったのです。今日、このみ言葉を持って行動したら祝福がありました。神様に栄光をささげます。

Friday, August 16, 2013

Sakanoueno Christ: 天からの啓示を見たら#links#links

Sakanoueno Christ: 天からの啓示を見たら#links#links

闇から光への人生を証しする

使徒行伝26;18「それは彼らの目を開いて, 暗やみから光に,サタンの支配から神に立ち返らせ,わたしを信じる信仰によって,彼らに罪の赦しを得させ, 聖なるものとされた人々の中にあって御國を受け継がせるためである. 』 使徒パウロはアグリッパ王たちの前で証します。それは、すごく正直な、ストレートな証でした。自分がイエス・キリストを迫害したものであったこと、そんな自分が天からの啓示によって「自分の罪に、自分の間違った方向への情熱」からまことの神様を迫害したことがわかったこと、そんな自分が救われて、イスラエルの民のために、異邦人のために救いを伝える人になったことを話します、果たして、私は、私たちは以前の自分の姿、罪ある自分の姿をも思う時に本当の謙遜さを持つのでないでしょうか。自分が苦難になう時に不平や不満を言える身分でないことを思うのでないでしょうか?そんな自分が聖なる者になって、神様の国を受け継ぐものになったことを思うなら、何が言えるでしょうか?賛美と喜びしかないのでないか、と確信します。私の感情は瞬間的に揺れます、しかし、闇から光の人生へ、神様の国を建てるもの、引き継ぐものになったことを感謝し、賛美して歩みます、神様の助けを得て、福音を証します。

Thursday, August 15, 2013

希望があると夜も昼もなく熱心になる

使徒行伝26;7-8「私たちの 十二部族は, 夜も昼 も熱心に神に仕えながら,その約束のものを 得たいと望んでおります.王よ.私は,この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです. 」今朝のQT箇所からの恵みは、①パウロがアグリッパ王に弁証をとしてイエスを証します。②夜も昼も熱心に神様に仕える、③約束のものを目指して生きる(神様がイエス・キリストを通して死者をよみがらせる、どんな過去があっても救われる)、です。私は昼も夜も熱心に主イエスに仕えているでしょうか?しかも、それが、目標のない、希望のない熱心でなくて、はっきりとして希望があるからこそ仕えているでしょうか?パウロは二年を待たされてアグリッパ王たちにか証をします。待たされたからこそ、3度目の証が出来ます。しかも、王様にです。考えたことがあるでしょうか?政治家、リーダー、社会的に影響のある人、芸能人などに証をしたことや証をすることを祈ったことがあるでしょうか?相手が聞く聞かないは別としてです。苦難を通して出なければ、時間をかけて出なければ、出来ない福音伝道もあります。今日、夜も昼も熱心に生きる神様の約束、希望を持って歩みます。

Wednesday, August 14, 2013

野外礼拝が8月25日にあります

ジュビリー教会のお知らせです
①来週の礼拝(8月18日)は、通常通り午後1時から205号室であります。 ②8月25日の礼拝は野外礼拝をします。 ●場所はDEL THORONE PARK (3401spencer st Torrance ca90503) https://maps.google.com/maps?ie=UTF-8&q=delthorne+park+torrance+ca+90503&fb=1&gl=us&hq=delthorne+park+torrance+ca+90503&hnear=delthorne+park+torrance+ca+90503&cid=0%2C0%2C8037802793183031182&ei=9KcKUqCDD-KYyAGAx4HACg&ved=0CKwBEPwSMAs ●時間は午前10時半から ●内容:礼拝(30分ほど)、BBQ、交わりの時間です。 ●費用:5ドル(小学以上は2ドル) 気持ちのいい季節、野外で礼拝と美味しいBBQで日曜日を過ごしてみませんか。 普段、礼拝だけでもてないゆっくりとした時間を持ちたいと思います。 ぜひ、いらしてください。
お問い合わせは 北野まで (CELL714-333-6011)
     

    神様の心を正確に読む

    使徒行伝25;25節「私としては,彼は死に当たることは何一つしていないと思います. しかし,彼自身が皇帝に上訴しましたので,彼をそちらに送ることに決めました」26節「ところが, 彼について, わが 君に 書き 送るべき 確かな 事がらが 一つもないのです. それで 皆さんの 前に,わけてもアグリッパ王よ,あなたの前に,彼を連れてまいりました.取り調べをしてみたら, 何か書き送るべきことが得られましょう.」今日の聖書箇所でやはり語られていることは「ユダヤ人のねたみ」からパウロは訴えられたこと、それは「無実である」ことです。しかし、総督フェスとは正しいことを知りつつも、無罪釈放しません。ユダヤ人の歓心を買うためです(世の中の歓心を買うためです、このようなことが私たちの中にないでしょうか?)もし、私がパウロなら、いらいらしたり、早く釈放されたい、もしくはローマへの証をしたい、 とか思わないかな?と思いました。しかし、そのようなことは聖書に書いていません。それは、一番大事なことでないからです、神様の語りたいことは他にあるからです。神様はこのような状況を通して、事件を通して、あなたはどのように、どんな霊的な目で事件を見ますか?状況を霊的に見れますか?そして、パウロのように福音を証しする場所、チャンスとして反応できますか?神様の心を読めますか?といわれる気がします。今日、神様の福音のチャンスの場所を見ていきます、主よ、私の目を開いてください。

    Tuesday, August 13, 2013

    最後には神様の御心がなることを信じると!?

    使徒行伝25;12「すると,パウロ はこう言った. 「私はカイザルの法廷に立っているのですから,ここで裁判を受けるのが当です.あなたもよくご 存じのとおり,私はユダヤ人にどんな惡いこともしませんでした.」パウロは総督フェリスのもとで、裁判を受けます。エルサレムから下ってきたユダヤ人が多くの重罪を訴えますが、彼の無罪を貶めることは出来ませんでした。(もともと)何も無いのですから(律法にも!宮にも、カイザル「ローマ帝国」にも)。そして、遊惰や陣の歓心を買おうとしたフェリスのためにエルサレムでさらに裁判をさせられそうになります。パウロはそこでローマ帝国に、カイザルに控訴することになります。今日思ったことは、今日の裁判は既に時間が2年過ぎており、パウロにとってどんな思いだったか?彼にとって時間がもったいなく感じなかった、しかも無実であるのに。さらにユダヤ人の歓心を買おうとして「エルサレムの裁判」を言われる始末、しかし、そのような中でパウロは正しく裁判を求めます、また、神様の御心であるローまでの証へ向かっていきます。私の今はなかなか成長しない、変化しないことに「いつ?」また「どのようにしたら?」という思いがあります。しかし、大事なのは「必ず神様の御心はなる!」という告白に立つことです。信じることです。その過程にいる時は難しいです。しかし、主の御心へ向かう今日をBESTを尽くして主イエスを信じて歩みたい、と思います。

    Monday, August 12, 2013

    恐れにいると自由が出てこない

    使徒行伝24;25「しかし, パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので,ペリクスは恐れを感じ,「今は帰ってよい.おりを見て,また呼び出そう.」と言った.
    今日の総督ぺリウスとパウロの会話は「キリストイエスを信じる信仰」について語られながらも、「正義と節制、やがてくる審判」を聞いたときに、恐れを感じて、また今度、と言ったのです。彼は、その後に①パウロにお金をもらいたい下心もありつつも、②ユダヤ人に恩を売ろうしました。今日感じたのは、大事なかみさまのメッセージを聞いても、もらっても「すぐに聞かないなら、また今度」ということなら回復がない、ということです。まして恐れを克服して、罪を告白して回復できる祝福が来ません。今日の総督ぺリウスも、フェストもそして宗教人のユダヤ人でさえも神様にある喜びや自由、開放、回復と言うKEY WORDがでてきません。何故でしょう?自分の罪が示される、太陽の元にさらされることに恐れがあるからです。人間誰しもそうでしょう。しかし、主イエスの十字架に会うなら、既に赦されているなら、イエスの愛に出会うなら、イエスの出て行けません。そこにしか解放はありません。自由はイエスの真理にしかありません。今日といチャンスを逃さないで下さい。今日、主イエスの愛をまっすぐに語ること、聞くことを大事にしていきます。

    Sunday, August 11, 2013

    さいぜんをつくすひとの

    使徒行伝24;14ー16、パウロは言います。神様の前にも、人の前にも責められることのない良心を保つために「最善を尽くして」生きてきたと。今日のQT箇所には、3種類の人が出てきます。①問題を起こし隠れているアジアからきたユダヤ人たち(18ー19節)これって驚くことですね、でも私たちの人生と無関係でしょうか?②問題を起こされても堂々と証できる最善を尽くすパウロ、❸そして、第三の人は総督ペリクスです。彼は問題を先延ばしにしました。問題に向かい合わない人です。私は、私たちはどうでしょう?どこに立っているでしょうか。神様の聖書を信じている人は、復活を信じる人は、最善を尽くして誰にも(神様の前にも、人の前にも)責められない人生を送ります、責められることのない人生を送ります。それがクリスチャンの人生で、証する人の人生です。私はどうでしょうか?まだまだだな、と思いました。また新しく、決心して行きます。今朝、最善を尽くして主の礼拝をささげていきます。生きます。

    恐るな!かれらはなにもできない!

    使徒行伝24:5ー6、大祭司アナニヤは、弁護士を雇います。それは、パウロを陥れるためでしたが、かえってそれは①自分たちが既存の権力であるローマ帝国に媚び諂っていること、それは宗教人として、ユダヤ人として恥ずかしいことがさらけだされ、②パウロがペストのような存在だから気をつけろ!という話にならない訴えにしかならないこと、❸結局は、彼らの訴えは彼らの不義を明らかにするだけでした。私は、私たちは何か人から言われたり、誤解されたり、もしくは不義を着せられたらどう反応するでしょうか?また、それがキリストのためであるなら。急いで誤解を解くか(もちろん、必要なことですが)問題解決に急ぐでしょう。またそれで終わらずに、怒ったり、感情的になったり、相手を批判したりしないでしょうか?しかし、今日のQTをしながら、必ず神様の義に立つ人は恐れなくていい。逆に、自分の妬み、いかりから行動するなら神様が却って不義を示すことを思いました。思います、恐るな!神様がいるのに相手は、何ができるのか?今日の奉仕に神様の勇気を持って歩んで行きます。

    Friday, August 9, 2013

    最も安全なところは主と共にいるところ

    使徒行伝23;29「その結果,彼が訴えられているのは, ユダヤ人の律法に関する問題のためで,死刑や投獄に当たる 罪はないことがわかりました. 」
    今朝のQT箇所をリビングライフは、「最も安全なところは主と共にいるところおられところ」とつけていました。本当にその通りで、とても気に入りました、何よりも励まされました。私たちは苦難にあると、人間的な計算で動きます。しかし、神様の御心を行う人を主は守られます。神様の人生を歩む人にとって大事なのは結果でなくて、プロセスです。主が苦難の中にも共におられる、その安全さを味わうことが出来ます。いつから、私たちは結果だけで生きるようになったのでしょうか?本当は、人生を味わうことは大変な時も、困難な時も、まだ前が見えていないときも、もちろん、楽しいときもそうでないでしょうか?神様は言い訳もせずに、神様の事を証し続けるパウロの無罪(国、社会、法律)、を証明され、かえってユダヤ人たちの宗教戦争(怒り、妬みから来る殺人さえ)明らかにされます。そして、ローマ人を動かし、緊急の守りを与えられます、主のみなは強き砦、駆け込むものは守られる!主を賛美します。

    Thursday, August 8, 2013

    神様がいる!

    使徒行伝23章16節「ところが,パウロの姉妹の子が, この待ち伏せのことを耳にし,兵營にはいってパウロにそれを知らせた. 」今日、QTの箇所はパウロを殺すために陰謀が、同盟が組まれた箇所です。そこで、パウロの姉妹子が聞いて、知らせてくれると言う箇所です。あきらにパウロへの命の危険が続いて迫り来る中、神様の救いが、守りが、何よりもローマへの証をさせてくださる神様の導きがあります。まさに、危険の中にいるけど、神様がしてくださった、神様が守ってくださった!私の神様は生きている!という瞬間です。私の人生の中で、神様がしてくださった、瞬間がどれほどあるでしょうか?危険があるけど、困難があるけど、しかし、神さまがいる、私の主は生きておられる、神様が働かれた!どれほど体験していることでしょうか?私たちの教会で、どれほど神様はいる!生きておられる!と体験し、告白していることでしょうか。今日のパウロは命の危険を信じられない助け、そして百人隊長、千人隊長と話が伝えられて守られることになって行きます。しかし、今日のQT箇所は物語の全部、結末を語っていません。結果を知っていれば信じることはやさしいです、結果を知りたいと思います、しかし、今日のみ言葉は今日で十分です、主が生きていることを信じ、私の人生、教会に生きておられる主を賛美します。

    Wednesday, August 7, 2013

    今、私がココにいる理由を知る

    使徒行伝23章11節「その 夜, 主が パウロ のそばに 立って, 「勇氣を 出しなさい. あなたは, エルサレム でわたしのことをあかししたように, ロ ― マ でもあかしをしなければならない. 」と 言われた」使徒パウロは千人隊長により、議会にたたされましたが、「いきなり打たれたり」不法な裁判にあいました。しかし、彼は恥じることのない完全な良心を持って証し続けました。打たれて「白い壁」と言ったら、大祭司であることを聞き、「指導者を悪くいっていはいけない」とあると書いてある、とすっとんきょうなくらいに簡単に認めます。正直です。彼らが間違っているのに、自分にもMISSがあると思えば認めます。神様はそのような状況のパウロに[勇気を出しなさい、私の証をエルサレムでしたように、ローマでもしないと行けない]と語られます、今朝、思いました。何故、パウロはこのような不法な裁判、そして苦しい状況、プレッシャーの中でもぶれずに、もういいや、と投げ出さずにいれたのか?それは、今何のためにここにいるのなか?神様の声を聞いたからです。だから投げださいのです。神様はパウロの宣教のたびに語られます。どれほど、大きな力でしょうか。今朝、TORRANCEにいる理由を、南加州で弟子を作っていくミニストリーをします。勇気を出して、今日を歩み続けます。

    Tuesday, August 6, 2013

    目に見えるものに頼ると目に見えないものこと

    使徒行伝22章22節「人々は,彼の話をここまで聞いていたが,このとき声を張りすると,上げて, 「こんな 男は, 地上から 除いてしまえ. 生かしておくべきではない. 」と 言った. 28節 千人隊長は, 「私はたくさんの 金を 出して, この 市民權を 買ったのだ. 」と 言った. そこで パウロ は, 「私は 生まれながらの 市民です. 」と 言った
    天国の福音を語って使徒パウロに向かって、①群集たちは「わめきちらし」生かしておくべきでない、と言いました。これって、個人ならいえることでしょうか?一人でこのような行動を人の前で出来るでしょうか?人を殺すとか、着物を放り投げ、チリを撒き散らし、など。それは社会の中の群集に紛れ込むからできることです、責任の無い人生、行動をとっていることです。②そして、市民権を買って手に入れたローマの千人隊長です。彼はパウロがローマ市民権をもっていると知らない前は裁判もせずに、「むちで打とう」としました。騒動が起こった、それだけで自分の責任をとらずに、困ったことが起こったから、というだけで人のせいにしました。かえって一方のパウロです。彼は既に天国の福音を語りました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、拒否することを決めていたのです。それは、自分の地上の生活、ポジションにだけ彼らが重きを置いたからです。そこに、彼らの人生を守るものがると勘違いしたのです、福音が語られたのに。群集に隠れていれば大丈夫と思ったのです。ローマ市民権を買ったから大丈夫、と思ったのです。今日パウロはローマ市民権に頼っていたのではありません。天国の市民であることに自分のアイデンティをもったからこそ、ローマ市民権者であることを語れたのです。私は、もしくは私たちは、何か目に見える部分で頼れる部分を探しやすいものです。しかし、これで安心と、目に見える部分(必要なものはありますが)にだけ頼るなら危ないものです。天国の価値観で今日私の価値観、教会の奉仕考えて生きます

    Monday, August 5, 2013

    律法を知っても神様に出会わない人生。


     
    使徒行伝22:12節、使徒パウロは自分がアナニヤを通して目が見えるように、自分の使命をエルサレムでいただいた証ををします。そこで、気になったのがアナニヤは①律法に厳格な人で、②敬虔な人で、③ユダヤ人全体に評判のいい人であったことです。いかにユダヤ人伝道のためにパウロが気を使って証をしようと、伝道しようとしていたのか?分かる話です。彼らがイエスに出会うために順序だてて証しました。しかし、いかに律法に精通しても、敬虔な人でも、評判が良くてもイエスに出会わないなら悲劇です。逆に、これでイエスに出会うなら最高です!パウロはその後でエルサレムに上り、異邦人伝道のCALLINGを主イエスの出会いの中で受けます。私は、私たちはどうでしょうか?聖書は読んでます、詳しいです、奉仕もしています、頭もいいです、しかし、神様の出会いなしであるなら、どんなに残念なことでしょうか。自分のすべき使命を自分で考えて、自分勝手にしているならどうでしょう、クリスチャンを以前に迫害したパウロのようです。加味差身に愛されていること、イエスが私のために十字架に掛かったことを知らなければ、使命を持って歩んでいけません。今日、神様を知る一日を過ごして生きたいと思います。

     

    Sunday, August 4, 2013

    神様の声を聞かない情熱

    使徒行伝22:7節「私は 地に 倒れ, 『サウロ , サウロ . なぜわたしを迫害するのか. 』という声を聞きました.」
    使徒パウロはユダヤ人の人々の前で①出身、②受けた教育(信仰教育)、③神様への情熱、④そして過去はクリスチャン(今風に言うとキリスト教徒)を激しく迫害したことを証言します!証言です!!長老や大祭司たちも証言できると過去の私は皆さんと同じだったと話します。しかし、その情熱は正しい方向へ行っていませんでした。情熱も方向を間違えると大変な結果、間違ったGOALへ自分の人生を導きます。それは、神様に熱心と言いつつも、神様の声を聞かない情熱の難しさ、いや無駄、もしくは過ちを犯すことにさえなります。神様からの声は裁きのことでなくて彼に「何故?」と聞いてくださる人格的な愛でした。神様の声を聞かないで行動すると「何故?」ときかれると自分でも出所が分かりません。一生懸命したんですけど、となってしまいます。光に倒れて人に手を引かれて歩むパウロの姿は私たちの人生のようかもしれません。彼はダマスコで10節「私が, 『主よ. 私はどうしたらよいのでしょうか. 』と 尋ねると, 主は 私に, 『起きて, ダマスコ に 行きなさい. あなたがするように 決められていることはみな, そこで 告げられる. 』と 言われました. 」とあるように、神様の声を聞くことからパウロの新たな、正しい方向への人生は始まりました、それはショックなことだったかもしれません、自分の人生、していることが否定されるような感じがあったかもしれません、しかし、神様に出会う時に、神様の声を聞くときに本当の幸福な人生をはじめれます。正しいGOALへ向かいます。今日、神様の声を謙遜に聞き、伝えていきます、主イエスの幸福をSHAREしていきます。

    Friday, August 2, 2013

    あなたは何のために、誰のために使うのか?!

    使徒行伝21章39節「パウロは答えた「私はキリキヤのタルソ出身のユダヤ人で, れっきとした 町の市民です.お願いです.この人々に話をさせてください. 」
    使徒パウロは、ささげものをして7日目が終わろうとする時に「アジアからユダヤ人(ディアスポラ)たちの妬み」から「イスラエルの人々」まで巻き込んで、パウロは暴動を起こされて、死の危険にさらされます。まったくの誤解であり(29節)、宮から出され、殺されかけた時にローマの千人隊長がパウロを兵営に連れて行きます。そこで、パウロがギリシャ語で話しかけます。ギリシャ語を知っている自分の出身理由を話したパウロは、次に群集にヘブル語で話しかけます。何気に読み過ごすといけません、大変なことです。日本語を2世が流暢に話し、さらに英語を話します。でも、そのことを何のために使うかどうか?!です。アジアから来たユダヤ人は、その状況、条件を「パウロを殺すために、怒りのために」手を使いました。しかし、パウロは命の危険の中で、自分がどうなるのか分からない状況で、怒りや復讐のために使おうとしませんでした。私はどうでしょうか?私に何かあるわけでありませんが、自分のものを何のために、使おうとしているのでしょうか?今日、私の状況や人々がどうであろうと、愛し、ゆるし、祝福し、神様の栄光のために、使っていきます。

    宣教と証しある人生

    使徒行伝21章19[彼らにあいさつしてから, パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを, 一つ 一つ 話しだした.]20[彼らはそれを聞いて神をほめたたえ, パウロにこう言った.「兄弟よ.ご承知のように,ユダヤ人の中で信仰にはいっている者は幾万となくありますが,みな律法に熱心な人たちです.]
    使徒パウロの宣教に人々は喜び、神様をほめたたえました。ところで、その反面、ユダヤ人クリスチャンの多くが使徒パウロの宣教の中身、人生の生き方で誤解をしている人がいました。また、わざわざ批判する人もいたと思います。自分たちの枠にはまらない、信仰生活、教会生活をする人に批判する、非難し、攻撃するのはいつの時代も変わらないと思います。果たして、今日の私へのメッセージは宣教することと、証を立てる人生です。それは、若い時には宣教師照ればいいと思って配慮することや、あかしする人生を生きることはなおざりだったり、結構難しいことかもしれません。しかし、聖書にははっきりと書いてあります。宣教し、証を立てるほうが神様から恵みを多く受けている人であること、かえって、批判する人よりも、強い人であるのです。これを思った時に、まだまだだなーと思ったのですが、同時に、神様私たちの教会を、私を守ってくださいと祈りました。福音のために誤解されたり、前進するのに障壁があっては困るのです。今日、主イエスを証しする宣教をしていきます。

    Thursday, August 1, 2013

    苦難があっても主の御心に従え

    使徒行伝21;13節「するとパウロ は, 「あなたがたは,泣いたり,私の心をくじいたりして, いったい何をしているのですか. 私は,主イエスの御名のためなら, エルサレム で 縛られることばかりでなく, 死ぬことさえも覚悟しています. 」と 答えた.
    はたして、私は?私たちは使徒パウロのようにこういえるでしょうか?逆にそれがいえるなら何も怖いものがありません。彼は苦難が待っていても、迫害が待っていても、プレッシャーが待っていても、死が待っていても、それが分かっていてもエルサレムに上ろうとするのです。主イエスを伝えようとするのです。主イエスの御心に従うとするのです。主のみ心従う人は誰も、何も止められません。もし自分なら考えると恐れや、いろんな考えが起こります。しかし、主に従う人に恐れは無いんだな、と思うと本当に自由だと思いました。QTするには、痛みがあります。なぜなら自我があるからです。しかし、本当に自由や幸福が神様の声を聞き、従う中にあります。今日、主のみ声にしたがって伝道していきます、主の御心に従う自由を与えてください。

    Wednesday, July 31, 2013

    証できる人生は殉教者の生き方

    使徒行伝20章25節「皆さん.御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を,あなたがたはもう二度と見ることがないことを, いま私は知っています.」
    今日のQTは、使徒パウロがエペソの長老たちに教えと告別をしている箇所です。パウロは①神様の国を伝え、②神様の計画を余すところなく伝え、③自分が証し出来る生活をしました。そこには、誰にも恥ずることのない、イエスの血によって買い取られた群れに仕えた人生があります。普通、人が買い取ったものを扱う、任せられる、といったら大きな負担、神経を使うことになります。自分のものでないからです。しかも、自分みずからしゃしゃりでてやると言ったのでなくて、聖霊様に任命されたのなら、これを聞いて責任を感じ、重く感じなかったら、おかしい話です。どうしたら、この責任を全うできるのでしょうか?証できる人生を歩めるのでしょうか。それは、たった一つ殉教者の生きかたしかないと黙想しました。他に方法は無いのか、考えたのですが妥協案はありませんでした。どこか、イエスのために監獄に行きました、とか死刑になりました、とかだけが殉教でありません。生き方そのものをささげるのが、聖書のみ言葉通りにするのが、殉教であり、祝福であり、キリストの聖い花嫁の生き方です。祝福の人生の生き方です。今日私の歩みが、証できる人生、殉教できる人生になりますように、まだまだ遠いですが、イエスが近く歩いてくださることを、いや共に歩んでくださることを信じます。

    Monday, July 29, 2013

    夜が明けるほど御言葉を語るか?!

    使徒行伝20章7節「週の初めの日に,私たちはパンを裂くために 集まった. そのとき パウロ は, 翌日出發することにしていたので,人々と語り合い,夜中まで語り続けた」11節「そして, また上がって行き,パンを裂いて食べてから,明け方まで長く話し合って,それから出發した. 」
    今朝のQT箇所は、トロアス(現在のトルコ)での交わりです。そこで、明日の出発のために「長く話し合い、そのために青年が落ちてしまった、そこでパウロが癒しをした」という箇所です。普通はそこに目が行きますが、おもったよりはるかに簡単に癒しの部分を書いています。今日私が思った部分は、その癒しの跡に「さらに上っていって聖餐式をし、交わりをして、明け方近くまで話し合った」ということです。普通そういう事件があれば、中止とか、解散になってもおかしくないでしょう。しかし、彼らの聖餐式、礼拝、交わり、聖書のみ言葉の交わりははるかに大事であり、しっかりされた、ということです。そちらが本質であった、といことです。また、この学びの熱さにも注目しました。「夜中まで」学びをした後に、「明け方まで」話し合ったのです、こんな熱い交わり、学びをしてどれほどでしょうか?今朝私の適用は、熱いFELLOWSHIP、学び、奉仕を作っていこう問うことです。そこまで、熱く、みなが加わる学び、FELLOWSHIPもっているでしょうか?教会の中で作っていこうと思います。主の臨在の中でなされる、主の創造される学び、FELLOWSHIPもてるように祈ります。

    Sunday, July 28, 2013

    真理に捕らえられないと損得に捕られる

    使徒行伝19章23節「」
    デメトリオという人が、パウロの宣教に逆恨みをして職人たちを巻き込んで、」騒動を起こします。今朝の私の状況にぴったりでした。まさに、」ひとは損得で動きます。また、そのことで逆恨みさえして、人を陥れて、問題を起こして何も思いません。それは、イエス・キリストの真理に捉えられない人生そのものです。利益は必要です、大事な祝福です。しかし、真理に属する時にまことの祝福がきます。順番が逆です。きょう、神様の下さる真理に捉えられて歩みます。その中から判断し、行動します。主イエスよ、知恵の無い私を助け、弱い私を守り、導いて下さい。

    Saturday, July 27, 2013

    神様は何故この人を使うのか!?

    使徒行伝19章11節「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた.」
    パウロが悪霊を追い出し、病気を癒し、またてぬぐいをおくだけで癒された、という使徒行伝の奇跡が書かれています。なぜ、神様はパウロを使われたのでしょう?なぜ、神様はこの人を使うのか考えたことがあるでしょうか?①神様の絶対的な主権、選び、CALLINGによります、人の法に理由はありません。②神様と親しいかどうか?です。神様は仕事から始める方ではありません。③聖いかどうかです。これは重いイメージがありますが、聖いことは決して世の中で作れない、自分で作れないものです。聖いとは本当になりたい、渇望するほど、欲しいものである、という体験をしたら願います(私はそうです)④神様の心を正確に読み取る人です。そして、もちろん従う人です。私たちは人の比較で、使われることを考えます、そこで、悩んだり、くやんだり、比較して落ち込むのです。しかし、神様の用いられるのは神様の自由です。そして、風は吹きたいところに吹きます。神様の風が吹きやすい人になりたいと思います。

    Friday, July 26, 2013

    神様は侮られる方でない!あなたはイエスを知っているか?!

    使徒行伝19章、13節「ところが, 諸國を 巡回している ユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも,ためしに、惡霊につかれている者に向かって主イエス の御名をとなえ, 「パウロの宣べ伝えているイエスによって、 おまえたちに命じる. 」と 言ってみた.14節「そういうことをしたのは, ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった. 」15節 「すると 惡が 答えて, 「自分は イエス を 知っているし, パウロ もよく 知っている. けれどおまえたちは 何者だ. 」と 言った. 16節「そして惡霊につかれている 人は, 彼らに 飛びかかり, ふたりの者を押えつけて,みなを打ち負かしたので,彼らは裸にされ、 傷を負ってその家を逃げ出した.」
    神様は侮られる方ではありません、また神様の働きも決して侮る、不純な動機、自分のためにすることや、まして利用するようなことがあってはなりません、断じて。今日のQT箇所では、悪霊につかれている人々から、悪霊を追い出し、病を癒すパウロたちを見て、イエスを信じていないのにもかかわらず、からかい半分、利用でそのようなことをした人に、逆に悪霊から凝らしめが来ます。癒しや、悪霊の追い出しを他の宗教もするかもしれません、しかし、真の癒し、聖霊の臨在はまことのイエス・キリストを信じるものにしかできません。また、黙想しました。奉仕や神様のためにと言いつつも、不純粋なものや利用することがないのか?神様は決して侮られる方でないことを思いました。神様は決して人に利用されたり、試される方でありません。今日、主イエスを信じ、怖れを持って、喜んで仕えていきます。

    聖霊のバプテスマを受けたのか?!

    acts19;2節「信じたとき,聖を受けましたか.」と 尋ねると, 彼らは, 「いいえ, 聖の与えられることは,聞きもしませんでした. 」と 答えた. パウロがエペソにいた人々に「聖霊を受けたか?」とたずねました。彼らはバプテスマのヨハネのことしらしらず(悔い改めのバプテスマ)イエス・キリストのバプテスマを受けた時に、6節「パウロ が 彼らの 上に 手を 置いたとき, 聖が彼らに臨まれ,彼らは異言を語ったり, 預言をしたりした.」とあります。ここで私にとって聖霊のバプテスマは何だろうか?と思いました。昨日の聖書箇所はアポロが聖書を知っていたが大事な部分を知らなかったのでアクラとプリスキラの夫婦が教えた、という箇所です。ここに今日の内容は続いています。聖霊のバプテスマは「預言や異言」がとりざたされやすいですが、私にとって(QTですから)「神様の支配、コントロール、以前の私が主人でなくて、主イエスのみが私の主人」であるということでした。そこに、力があり、人の力でなくて、神様の力で歩んで、神様の心で、神様のミニストリーをしていきます。パウロはこの後、エペソにあるツラノ講堂で2年間イエスを伝えたために、アジアのユダヤ人、ギリシャ人が全てイエスを聞いたとあります。今日、祈ります。私を聖霊のバプテスマで満たし、TORRANCE,SOUTH BAY地域に いる日本人やアジア人、韓国人がイエスを聞く日が来ますように。また、私だけでなくてジュビリー教会のメンバーが全て聖霊のバプテスマを受けて力強く歩めますように。

    Thursday, July 25, 2013

    宣教チームが再生産される

    使徒行伝18;18「パウロは,なお長らく 滯在してから,兄弟たちに別れを告げて,シリヤへ向けて出帆した.プリスキラとアクラ も同行した.パウロは一つの誓願を 立てていたので,ケンクレヤで髮をそった」パウロは、コリントでの宣教を終えて、宣教パートナーを得ます。アクラとプリスキラと言う大事パートナーです。また、パウロは「誓願」をして頭をそりました。神様への誓いと願いを持って献身してさらに仕えたのです。果たして、私は主への再献身を日ごとにしているでしょうか?日ごとに目標へ向かって、歩んでいるでしょうか。また、今日心に一番来たのは、宣教のパートナーを得た、ということです。彼らは移住地を変えてパウロについてきて、宣教に仕える人たちとなりました。果たした私は、私たちの教会はそのような宣教パートナーを得ているでしょうか。彼らを育てたパウロの働き、労苦は非常に大きいものがあったと思います。プリスキラとアクラ は、さらにアポロを見つけてイエスの事を正確に伝えるように導く奉仕をします、何と貴重な奉仕者を得たことでしょう。自分が輝くためでなくて、キリストを伝えるために他の人を立てます。私たちならどうでしょうか?今日、宣教チームを作って行く奉仕、主に栄光をたてる奉仕をしていきます。

    Tuesday, July 23, 2013

    恐れず、とどまれ

    恐るな、語り続ける理由は何か。使徒行伝18:9使徒パウロは、コリント伝道しました。そこで、最初にあったのは①アクラとプリスキラというテントメーカーの夫婦でした。彼らは何とパウロと共に仕事し、共に生活までして教会を立てる開拓メンバーになりました。何とありがたいことでしょう。次にあったのは、②シラスとテモテの宣教チームでした。言うなれば、スタッフです。そういう彼らの宣教はコリントで反抗と暴言に出会いました。難しい局面でした。しかし、そんなパウロに主イエスは語られました。恐るな、私の民がいるから語りなさい。今日、主イエスの言葉を持って受けて恐れずに語ります、また宣教スタッフと開拓メンバーを育ててゆきます。

    Monday, July 22, 2013

    創造主はチャンスを下さる方

    使徒行伝17章31節「なぜなら, 神は, お 立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため, 日を決めておられるからです. そして,その方を死者の中からよみがえらせることによって, このことの確證をすべての人にお与になったのです. 」
    神様は創造主です、人の作られた偶像や人に支配されたり、侮られる方でありません。その方は、私たちに、住み時代、場所、人生を与え、決め、命、息、万物を与えられました。それは、求めれば神様を見出せる二様にチャンスを下さったのです(一般啓示)。感謝なことでないでしょうか?そして、それで終わることなくイエス・キリストを送ってください、十字架にかけて、そして3日目に復活されるようにされました(特別啓示)何と素晴らしいことないでしょうか!神様は私たちに、素晴らしいチャンスと愛のメッセージを下さっています。悔い改めのチャンスを下さっているのです。しかし、福音の反応は2つありました。①「またいつか聞くことに」②「付き従い、信仰に入ったもののいた」です。神様の下さるチャンスは愛です、人格的なものです。しかし、それはいつまでも無期限のものでありません、イエスを信じる時はいつでしょう?それは今です。主イエス・キリストが与えられたことを伝える日をいきます。

    Sunday, July 21, 2013

    使徒行伝17章17、2117節「そこでパウロは,会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」21節「アテネ人も,そこに住む外國人もみな,アテネ 人も, そこに 住む 外國人もみな, 何か 耳新しいことを 話したり, 聞いたりすることだけで, 日を 過ごしていた. パウロはとうとうギリシャのアテネに到着しました。そこの人たちは「 何か耳新しいことを話したり,聞いたりすることだけで,日を過ごしていた 」とあります、良い生活ですね、と一瞬思います。でも、パウロの生活はどうだったでしょうか?「会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」とあります、対照的な毎日の過ごし方です、イエス・キリストの福音に出会った人は「毎日」することがあります、忙しすぎます、燃えます。でも、福音に出会わない人生、真理に出会わない人生は、することがありません、それは人生をいきているといえません。私は「毎日」福音を伝えているでしょうか?私にとって「会堂」はどこでしょうか?「広場」はどこでしょうか?パウロは既に聖書を持っていたユダヤ人たちの会堂でイエスを伝えました。私も教会でイエスを伝えます。「広場」は聖書のBACK GROUNDあるかないか分からない場所です。出て行ってイエスを伝えます、キャンパスで、マーケットで、友人と、ハングル教室の中で伝えていきます。

    Saturday, July 20, 2013

    迫害されても聖書を伝えるか?!

    使徒行伝17章2-3、11節「パウロ はいつもしているように,會堂にはいって 行って, 三つの 安息日にわたり, 聖書に基づいて彼らと論じた」 3節「そして, キリスト は 苦しみを受け, 死者の中からよみがえらなければならないことを說明し, また議論して,「私があなたがたに傳えているこのイエスこそ,キリスト なのです.」と言った.11節「ここの ユダヤ 人は, テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで, 非常に熱心にみことばを 聞き, はたしてそのとおりかどうかと每日聖書を 調べた.」
    パウロは聖書に基づいてイエスの福音を伝えました。そこには救われる人もいました。 テサロニケでは、幾人かが分かって救われた、とあります。しかし、その中で迫害も起こり、避難することになります。そこで行ったペレやでも、聖書から教え、十字架にかかり復活されたのがイエスだと伝えます。ここでは、人々は非常に熱心に聴き、みずから毎日聖書を調べて救われた、とあります。しかし、ここでも迫害は妬みから起こります。今日心に留まったことは「聖書から教える」ことと「迫害が必ず起こる」ことです。それは福音を伝える時に必ず迫害もあり、「聖書からイエスを教える」時に、内部、同じ国民のユダヤ人から「いわれのない理由と拒否」からも迫害されることです。私は果たして迫害されるほどに、福音を伝えているでしょうか。また「聖書からイエスを伝えて」いるでしょうか。そのために拒否間のために、いわれのない迫害を受けるほど福音を伝えているでしょうか(迫害を受けたいではないですが)。北米でストレートな迫害は無いかもしれませんが、聖書からイエスを伝える時攻撃はあると思います。今日、イエスの事を聖書から伝えて生きます。

    Friday, July 19, 2013

    タイミングを逃すな!

    使徒行伝16章33節「看守は,その夜,時を移さず,ふたりを引き 取り, その打ち傷を洗った.そして,そのあとですぐ,彼とその家の者全部がバプテスマを受けた.」パウロが福音を語った後で、看守と家族たちは「時を移さず」バプテスマを受けたとあります。普通考えれば、夜だから、とか牢獄だから、彼の立場は囚人だから、私は看守だから、とか職業的な、社会的な、人間的な立場を考えることがあります、しかし、彼らはそこに頼ったり、判断基準にすることがしませんでした。今朝の恵みは、タイミングを逃すな!です。今風に言えば、イエスを信じたけど、バプテスマ(洗礼)まで時間を置いてとか、役員の許可を得てとか(微妙?)聖書研究をしてからとか~と考えるかもしれません。でも、神様の下さる今日の恵みに、反応しないといけません。それは、今日と言う日は、2013年の7月何日は二度と来ないからです。2013年何月何日の礼拝を同じ気持ちで、同じ状態で受けれることは二度とありません。今、神様に与えられている恵みに、反応することは本当に大事だと思いました!31節「ふたりは,「主イエスを信じなさい.そうすれば,あなたもあなたの家族も救われます.と 言った.とあるように、神様に呼ばれたら、すぐに応答することが大事です。主イエスを信じなさい、と呼ばれたときに、「時を移さず」信じ、バプテスマを受けること大事です。主の恵みの声を聞いたら、今日、聖書の学びがあるよ、という時に、神様の恵みが注がれているのを感じたら、反応しないとすごく後に来るのか?もしかしたら、二度と来ないのです。今日の奉仕の中で、出会いの中で、主イエスの下さった恵みのチャンスに、勇気を持って、決断し、進んでいきます。主イエスの声に敏感でいさせてください。主だけに仕えれるように。他の何にも仕えないように祈ります。

    Thursday, July 18, 2013

    祈る人に、賛美する人に神の事件が起こる

    使徒行伝16章16節「私たちが祈り場に行く途中,占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った. 」24節「この命令を受けた看守は,ふたりを奧の牢に入れ,足に足かせを掛けた.」25節「眞夜中ごろ,パウロとシラスが神に祈りつつ贊美のっていると,ほかの囚人たちも聞き入っていた.」
    今朝、QTをした時に「祈り場に~」というところが心に留まりました。パウロたちは日常的に祈っていたんだな、と思わされました。日常的に神様と会話したんだな、と思いました。そういえば、最初のピリピでの伝道もテアテラ市の紫布商人ルデヤに出会って最初のピリピ伝道、教会のメンバーに合いました。祈る人に神様の事件が、出会いが、奇跡が起こるんだなと思いました。今日の聖書箇所は、祈り場に行くパウロに悪霊につかれた女がついてきて、悪霊を追い出し、癒します。ところが、そのために逆恨みした主人のために鞭打たれ、牢獄に入れられます。そこで、パウロとシラスは賛美をしました。日常でない賛美です。苦痛、侮蔑、いわれのない苦難、怒ってもおかしくない時に賛美しました。それは周りの囚人に影響を与えました。そこで地震が起こり逃げ出しても当たり前の状況で、逃げ出さなかったのです。それは、看守に感動を与えました、この世の中でない、常識はずれの人生に震えを感じるほど、そして「自分から救いを求める」ほど、影響を与えました。福音を伝えるところにサタンの攻撃もあります。しかし、祈る人に、’賛美する人に奇跡が起こること、神様の事件が起こることを期待し、信じ今日一日をいきます。

    Wednesday, July 17, 2013

    あなたの1PIECEは世界宣教戦略の大事な計画がある

    使徒行伝16章7-10「こうしてムシヤに面した所に來たとき,ビテニヤのほうに行こうとしたが,イエスの御がそれをお許しにならなかった.」「それでムシヤを通って,トロアスに下った.」 「ある 夜, パウロは幻を見た. ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って, 「マケドニヤに渡って来て, 私たちを助けてください. 」と懇願するのであった. 」パウロ がこの 幻を 見たとき, 私たちはただちにマケドニヤ に 出かけることにした. 神が私たちを招いて,彼らに福音を 宣べさせるのだ, と確信したからである.」
    パウロたちは宣教をする方向、戦略をはっきりと持っている人であった、と思います。非常に戦略的で、時間や奉仕を無駄にすることのない、プロ精神に溢れていた人であったと思います。しかし、その彼の宣教の方向性と願いと、神様の計画が違った時に「彼は従いました」それは、彼一人の従順だけでなくて、今日の世界宣教まで影響を及ぼしました。アジアに出なくて、ヨーロッパに宣教がシフトしたのです。そして、地球を逆周りにこんどはヨーロッパから宣教が来ました。パウロも従うのは簡単でなかったはずです。自分の考えもあったでしょう。しかし、信仰生活の基本は「神様の声を聞く→やってみる→祝福」です。私の従順はわたし一人で終わるのでなくて、神様の心をなし、全世界への祝福になります。逆に、私一人の不従順は、神様の計画がなりません、全世界へのMISSです。私のしていることは大事な神様の1PIECEです。決して小さいものでありません。今朝のMID WEEK SERVICEを神様の大事な1ピースとして仕え、奉仕し、したがって行きます。
    使徒行伝16章3節「パウロは,このテモテを連れて行きたかったので,その地方にいる ユダヤ人の手前,彼に割礼を受けさせた.彼の父がギリシヤ人であることを,みなが知っていたからである. 」使徒パウロがテモテに出会って、彼を宣教に連れて行きたい、と思いました。そこで、パウロは割礼を受けさせます。聖書にははっきりと「ユダヤ人の手前」と書いてあります。今朝、思わされたのは福音が前進するためにのために譲って行けないこと、逆に、自分の自由や権威を自由に、福音のために譲る余裕、愛、恵みでした。心に余裕やゆとり、懐の深さがないといらないところで、自分の主張をし、ぶつかります。決して、成人であるテモテが割礼を受けるのはやさしいことでなかったでしょう。しかし、全てを福音のためにする人には、相手への余裕、心の深さ、配慮できる恵みがあります。今日、主イエスにある配慮、懐の深さ、信仰から人格を求めます。それは、主イエスの愛から来るものです。人の力、自分の力ではありません。主イエスにある配慮ができる人に(人間の力でなくて)、恵みによって変えられて行きたいと思います。

    Tuesday, July 16, 2013

    私は励ます人だろうか?!

    使徒行伝15章32節「ユダもシラス預言者であったので,多くのことばをもって兄弟たちを励まし,また力づけた」41節「 パウロはシラスを選び,兄弟たちから主の惠みにゆだねられて出發した」今日の聖書箇所は、シリアのアンテオケ教会を訪問したことからスタートします。彼らの訪問は「異邦人の救い」の問題についての派遣でした。普通、こういう訪問だと事務的な、もしくは組織的な、かたい、役員会のような(私の経験した?)イメージですが、彼らの訪問は「多くの兄弟姉妹を喜ばせ、励ました」とあります。果たして、私は励ます人でしょうか?また、彼らの励ましは「神様のみ言葉」による励ましでした。異邦人の救いの問題解決のために、難しい、時に討論まで会ったのに、訪問は喜ばし、励ますものになりました。本当にGRACE MEEETINGだな、と思わされます。それだけでなくて、パウロの第二次宣教旅行に同労者となりました。組織的で、心のない、ような所と全然違うものを感じます。今日、主に会って励ましのみ言葉を伝えていきます。今日、私はナースリングホームの訪問がありますが、訪問が神様の言葉による励ましになるように祈りつつ、奉仕します。主よ助けてください。また、今の教会にもこのような恵みの会議、生きている組織、伝道するために仕える奉仕できるように目指していきます。
        
      

    Monday, July 15, 2013

    問題に立ち向かう教会であれ!

    使徒行伝15章22節「そこで 使徒たちと 長老たち,また,全教会もともに,彼らの中から人を選んで,パウロやバルナバ といっしょに アンテオケへ送ることを決議した.選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで,バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった.」
    異邦人たちが救われたことをペテロが証しした後で、エルサレム教会のリーダー格であるヤコブが①ペテロを通しての異邦人たちの救い、②OT、預言者たちを通して異邦人の救いが神様の御心であること、③シンプルに(人道的なことですよね)異邦人たちが守るべき4つのルールを伝えることにしました。そして、ユダとシラスをバルナバとパウロにつけて⑤全教会の決議として伝えさせます。今朝、私の恵みは初代教会が正しく問題を扱い、個人的なことや、部分的なこと、地域的なことの扱いでなくて、全教会の決議として問題に正々堂々と立ち向かったことです。いうなれば、牧師先生だけが問題に立ち向かったのでなくて、熱心な人だけが立ち向かったのでなくて、全教会が問題に討議し、検討し、決議をしたのです。その結果、異邦人伝道、牧会のモデルとしてシリアのアンテオケ教会が建っていき、後にシラスたちも宣教に関わっていく伝道のパートーナーになったのです。主にある教会の決議は、組織的な関係に終わるのでなくて、後に、伝道、宣教に関わる関係になりました。今日、これから問題に立ち向かい、宣教していく教会を目指し、たてあげていきます。

    Sunday, July 14, 2013

    問題の根本を正しい場所で検討せよ

    使徒行伝15;1節「さて,ある人々がユダヤ から下って來て,兄弟たちに,「モ ― セ の慣習に従って割礼を受けなければ,あなたがたは救われない.」と敎えていた. 2節「そして パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論爭が 生じたので, パウロとバルナバ と,その仲間のうちの幾人かが, この 問題について使徒たちや長老たちと話し合うために, エルサレム に 上ることになった.
    今日のQTは、異邦人に割礼を受けさせないと救われない、といういわゆる間違った律法主義を人々に押し付ける人がいた、というところです。そこで、激しい論争になった、というところで問題の解決方法に教えられることがありました。①教会の公同の場所で問題を会議することにした、ということです、いくらある地域で話を解決しても普遍的な解決がなければ、問題は続いたでしょう。公正に問題を解決をしました。②権威ある人々のもとへもっていきました。権威は悪いものでなくて(権威主義が行けないのであって)、私たちを守る大事なものです。③結果、最初に異邦人伝道をしたリーダーのペテロから「神様の計画」を伝えさせました、④パウロたちは異邦人に信仰の門を開いた、証をすることになりました、⑤私たちはイエスの恵みでないと救われない、ことをはっきり示す、グレースミーティングになりました。今日、また教会のミーティングに公同、そして恵みのミーティングをリーダーと共にしていきます。

    Saturday, July 13, 2013

    神様の恵みだけを報告しているか!?

    使徒行伝14章26節、「そこから船でアンテオケに帰った.そこは,彼らがいま成 遂げた働きのために,以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった.」27節「そこに 着くと, 教会の人々を集め,神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと, 異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した.」
    パウロたち一行は、無事に第一次宣教旅行を終えてシリアのアンテオケに帰ってきます。そこは、彼らが宣教師として祈りと断食を持って送り出されたところでした。彼らはアンテオケの教会の人々に宣教報告をします。それは、すごくシンプルなものでした。神様が異邦人に信仰の門を開けた、ということだけでした。使徒行伝を呼んでいてすごくシンプルで、人間的な感情や苦労を書いていないことに気がつきます。迫害にあっても、そこでの不満や不平を言うこともなく、福音のために前進し続けます。自分の話や感情が先でありません。そこには、純粋に神様になされたことだけが書かれています。神様のみわざだけを報告しています。果たして、私ならどうでしょうか?自分のことを先に語ったり、苦労を話して、慰めを求めたり、しないでしょうか?それが悪いとは言いません。しかし、純粋に神様のみわざ、心だけを話す姿勢があるのでしょうか?そのほうが、祝福なのです、栄光をささげるほうが恵み、祝福が神様に、人々にあるだけでなくて、自分にも一番来ます。今日、主イエスのことだけを、神様の心だけを話します。

    Friday, July 12, 2013

    何のためにしているのか分かっているのか?!

    使徒行伝14章15節「言った. 「皆さん. どうしてこんなことをするのですか. 私たちも 皆さんと 同じ 人間です. そして, あなたがたがこのようなむなしいことを 捨てて, 天と 地と 海とその 中にあるすべてのものをお 造りになった 生ける 神に 立ち 返るように, 福音を 宣べ 傳えている 者たちです. 」パウロたちがルステラで生まれつき足の不自由な人の足を癒した時に、彼らを偶像し、また英雄にしようとした時にパウロは宣言しました。私も人間です、と。そして、私は「虚しいことを捨てて、神に立ち返るように福音を伝えているものです」と。私たちは、福音を伝えつつも、自分が褒められること、評価されること、大きな誘惑があるのでないでしょうか?でも、それこそまさに自分が何のためにやっているのか?神様を伝え、主の栄光のために、自分は誰なのか?自分は福音を伝えるもの、それ以上もそれ以下もありません。果たして、私は何のためにしているのか分かっているでしょうか?自分は誰か分かっているのでしょうか?今日、主イエスの福音のために、栄光のために生きるものとして歩みます。アーメン、ハレルヤ!

    Thursday, July 11, 2013

    それでも、喜びと聖霊に満たされる理由

    使徒行伝13章;45節「しかし, この群衆を見たユダヤ人たちは,ねたみに燃え,パウロの話に反対して,口ぎたなくののしった.」46節「そこで パウロ と バルナバ は, はっきりとこう 宣言した.「神のことばは,まずあなたがたに 語られなければならなかったのです. しかし, あなたがたはそれを拒んで,自分自身を 永遠のいのちにふさわしくない 者と 決めたのです. 見なさい.私たちは, これからは 異邦人のほうへ 向かいます. 」51節「ふたりは, 彼らに對して足のちりを拂い落として,イコニオムへ行った」52節「弟子たちは 喜びと 聖に 滿たされていた」
    使徒パウロたちの宣教は町中の人々にうわさになり、救われる人が起こされます。しかし、彼らは同胞のユダヤ人たちから迫害されます。これはイエスの時も同じでした。彼らの嫉妬と妬み、そして口汚くののしる、普通、現在の日本人、私たちクリスチャンがこんな待遇を受けたらどうでしょうか?きっと夜も眠れない、痛みや悩み、苦痛でないでしょうか。しかし、使徒パウロたちは違いました、ユダヤ人が永遠の命に相応しくない態度をとっていることを明らかにしながら、異邦人への福音伝道が進むことを喜びました、またそれが神様の計画であったことをはっきり宣言しました。私たちにとって迫害や攻撃、非難が大事な福音を伝えるのに、足かせになったり、倒れたりすることがないでしょうか。初代教会のクリスチャンよりはるかに弱い私たちです。何故、初代教会のクリスチャンはそれでも、「喜びと聖霊に満たされた」のでしょうか。それは、神様の御心に従うこと、何よりも福音を伝えることを一番の喜びとしたからです。非難されること、攻撃されることに時間をとられると、神経を持っていかれると、一番大事な福音を伝えることが難しくなります、その時間が取れれていきます、サタンも攻撃してきます、今日、福音を伝えることを自分の神経、考え、時間の優先にしていきます。本質にこだわる喜びを持ちます。非難、攻撃を沈めていきます。主よ助けてください

    Wednesday, July 10, 2013

    クリスチャンのアイデンティは証人

    使徒行伝13章31節「イエス は, ご 自分といっしょにガリラヤ からエルサレムに上った人たちに,幾日もお現われになりました. きょう,その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています.」
    今朝、使徒行伝のQTをしながら気がついたことは、福音を伝えた時に、自分たちの紹介をする段階になると、使徒たちのアイデンティは「いつも、どこでも、イエスの証人」だな、ということでした。それ以上もそれ以下もありません。イエス・キリストの救いをはっきりと伝えます。彼らはそれだけでなくて、しかも、イスラエルの指導者、そして民衆たちが旧約聖書の預言のとおり来られたイエスを十字架にかけたことをはっきりと言います。そして、その罪を示し、悔い改めを話します。いいにくいことでないでしょうか?自分の立場や社会的なことを考えると難しいことでないでしょうか。しかし、彼らのアイデンティはクリスチャン、イエスの証人です。ある意味で迫害がないのであれば、まともに信仰生活をしているのかどうか?自分自身試されることです。どこでも、いつでも、イエスの証人として①聖書の約束実現、②私に、あなたに救いの言葉来たこと、③悔い改めと罪の結果、④信仰の決心を伝えて生きます。

    Tuesday, July 9, 2013

    壮大な神様の計画には、神の涙がある

    使徒行伝13章15節「律法と預言者の朗読があって後,会堂の管理者たちが,彼らのところに 人をやってこう言わせた.「兄弟たち.あなたがたのうちどなたか, この 人たちのために奨励のことばがあったら,どうぞお 話しください」23節「神は,このダビデの子孫から,約束に 從って,イスラエルに救い主イエスをお送りになりました」
    パウロたちは一行は、さらに宣教旅行を進めました。途中、同行者のメンバーが帰っていくこともありました。それでも、何事もないように簡単な報告で済ませて、さらに宣教旅行を続けます。そして、ピシデヤのアンテオケ(シリヤでないですよ!そこは彼らの派遣教会)で会堂でユダヤ人へ、改宗者たちの外国人たちへ旧約聖書の(律法と預言者)の朗読から、イエス・キリストを送られるまでの神様の救いの壮大な計画を語ります、解釈し、説明します(今日のQTはここまでです)。あなたのがたの求めている、待っているメシア、救い主がこの人ですよ、と伝えようとしています(今日はまだ話してません)、今朝のQTをしながら思ったのは、壮大な神様の計画の驚くと共に、その根底にある愛、涙を思いました。一牧師として、魂の奉仕をして祈る時に、どれほどの涙、苦労、喜びがあるか分かりません。神様の忍耐、愛に比べたらどうでしょうか?パウロもたちもここで言及しないけど、途中で離れて一行への痛みがあったはずです。それでも、宣教し続けました。また、私を育ててくれた宣教師や牧師先生たちも、苦労があったはずです。それは、神様の計画と涙その心を持った人の働きです。今日、神様の救いの計画と涙を持った歩みます。

    Monday, July 8, 2013

    主に従う人の強さ

    使徒行伝13章4節、「ふたりは聖霊に遣わされて,セルキヤに下り,そこから船でキプロスに渡った」8節「ところが, 魔術師 エルマ (エルマという 名を訳すと魔術師 )は, ふたりに 反對して, 總督を信仰の道から遠ざけようとした. 9節「しかし,サウロ ,別名でパウロ は, 聖に 滿たされ,彼をにらみつけて,」
    聖霊様により、シリアのアンテオケ教会から送り出されたサウロたちは、キプロス島の総督が神様の言葉を聞こうとするのを邪魔する魔術師ににらみつけて、神様の裁きを宣言します。そこに感じるのは戦うキリスト教です、強いキリスト教です。残念ながら、日本で私が体験した教会は、そういうことが少ない場所でした。教会で説教の時に居眠りしている人がいても(いつも)何か言うことは無い、場所にも合いました。それはそれでもったいない話ですが、せっかく教会に来ているのに。元に戻しますが、主に使わされた人、教会から送り出された人、聖霊様により満たされた人、の強さを感じます、悪霊の攻撃、聖書のみ言葉を聞こうとする人への邪魔を断固として追い出します。福音を邪魔する人へ、断固とした態度があるでしょうか。私にその強さ、リーダーシップ、断固とした態度(それは聖霊の満たしによって)強く立つことがあるでしょうか?今日、シリアのアンテオケ教会をモデルにする教会の牧師として強くたちます。主よ、助けてください!

    Sunday, July 7, 2013

    信仰の反応をする人、そうでない人

    使徒行伝12章15節;彼らは「あなたは気が狂っているのだ.」と言ったが,彼女は本当だと言い張った. そこで 彼らは「それは彼の御使いだ 」と 言っていた.」16節「 しかし,ペテロはたたき続けていた. 彼らが 門を 開けると, そこに ペテロ がいたので, 非常に驚いた」17節「しかし 彼は, 手ぶりで 彼らを 靜かにさせ,主がどのようにして牢から救い出してくださったかを, 彼らに 話して 聞かせた. それから,「このことを ヤコブと兄弟たちに 知らせてください.」と言って,ほかの所へ出て行った.
    神様がペテロを救出されたことへの反応があります。①女中のロダのように純粋に良い心で反応するか?信仰で反応する人、②神様のみわざであることを証し、栄光を神様に返すペテロ、③救出されたと主張するロダに対して「御使いだ」こちらのほうが難しい、無理のある話です。神様がなされたことへ期待もなく、信じずに祈るのではもったいない話です。神様の無碍の祝福を「単にあったらいいな~あるかも、それは幻想的な話し」と言うのであれば、情けない話です。せっかくにクリスチャンになりながらも、体験できないのは残念な話です。私たちは進化論的な、理論的な思考形式になれています。ですから、そんなことはありえない話になるのでしょう。しかし、私たちが救われたこと自体が奇跡です。目に見えないけど、生きて働く神様がおられます、今日、起こることに、礼拝に、出会う人々に信仰の反応をしていきます。
     

    とりなしの祈りを通して神様を体験したか?!

    使徒行伝12章:5節「こうしてペテロは牢に閉じ込められて いた. 教会は彼のために,神に熱心に祈り続けていた. 6節「ところでヘロデ が彼を引き 出そうとしていた日の前夜,ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寢ており,戶口には番兵たちが牢を監視していた.」7節「すると 突然, 主の御使いが現われ, 光が牢を照らした.御使いはペテロのわき 腹をたたいて彼を起こし,「急いで立ち上がりなさい.」と 言った.すると,鎖が彼の手から落ちた.」
    初代教会は、捕らえられたペテロのために熱心にとりなしの祈りをしていました。そこに、天使がペテロを救うと言う奇跡が起こりました。ハレルヤ!しかし、初代教会はこのことに反応できませんでした。何を信じて祈っていたのでしょう。誰に向かって祈っていたのでしょうか?でも、これはえてして私たちの現実にありうることでないでしょうか?ハ・ヨンジョ牧師先生が早朝気当会で言われた言葉を思い出します、あなたの祈った言葉を信じて今日一日を生きなさい。私の中にそんなことは無いでしょうか?奇跡は過ぎ去ります、奇跡はその事件だけに適用されます、しかし、その奇跡を起こす方に祈っていること、その神さまに出会うことが出来るならば、奇跡は当たり前になります。なぜなら、神様がなされる、生きておられる、私は、その神様に向かって祈っているからです。 今日とりなしの祈りを期待を持って祈ります。SJM(南カリフォルニアサラン教会日本宣教会)でのとりなしの祈りを期待して祈ります。主が聞かれます!アーメン!
       
      

    Friday, July 5, 2013

    あなたは良い意味で違いをもっているか?!

    使徒行伝11章25節「バルナバはサウロを搜しに タルソヘ行き,」26節「彼に会って,アンテオケに連れて来た.そして,まる一年の間,彼らは教会に集まり,大ぜいの人たちを敎えた.弟子たちは,アンテオケで初めて,キリスト者と呼ばれるようになった.
    異邦人の地、アンテオケで初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになったキリスト者たち。それは、ユダヤ人の地であるイスラエルでなくて、外国人の地から始まったことでした。当時のアンテオケは、インターナショナルな都市でした。ローマ、アレキサンドリアに続く第三の都市でした。そこに、彼らのインパクトは強烈なものであったようです。他と違う、こいつらはキリスト者、キリス狂いだ!と。果たして、私は、私たちはどうでしょうか?  キリスト者、と呼ばれるほどに良い意味で他の人たちと違いをもっている人なのでしょうか。悪い意味で同じではいけないのないでしょうか?日曜日の過ごし方、礼拝への姿勢、仕事への姿勢、家族への態度、キリスト者と呼ばれる名誉、祝福、周りの人々から一目置かれる人生を歩んでいるでしょうか?それとも、違うことを恐れているでしょうか?クリスチャンと呼ばれることを恥ずかしがっていないでしょうか?他の人と違うことを恐れることはかえって、キリストの宝を隠し、かえって、魅力を失います。今日、クリスチャンであることを証しして歩みます。 
      

    Thursday, July 4, 2013

    信仰の基本技:神様の声を聞いて、行う

    使徒行伝11章8節「しかし 私は,『主よ. それはできません. 私はまだ 一度も, きよくない 物や 汚れた 物を 食べたことがありません 』と言いました. 」9節「すると, もう 一度天から 聲がして,『神がきよめた物をきよくないと言ってはならない.』というお答えがありました. 10節「こんなことが三回あって後,全部の物がまた天へ引き 上げられました.   11節「すると, どうでしょう. ちょうどそのとき カイザリヤ から 私のところへ 遣わされた 三人の 人が,私たちのいた 家の前に来ていました.12節そして御霊は私に, ためらわずにその 人たちといっしょに 行くように,と言われました そこで, この六人の兄弟たちも 私に同行して,私たちはその人の家にはいって行きました.」13節「その 人が 私たちに 告げたところによると, 彼は御使いを見ましたが, 御使いは彼の家の中に立って, 『ヨッパに使いをやって, ペテロ と 呼ばれるシモンを招きなさい. 14節「その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを 話してくれます.』と言ったというのです.
    信仰の基本は、神様の声を聞いて行うこと、です。そこには、現実に生きて働く神様がおられます。 祈って気分がすっきりしましたから、もういいです、とか宗教的なものでないのです、主は生きておられ、私の人生を治め、変え、導かれる方です。主を体験することが出来るから何と人生は幸福なものになるでしょう、何とエキサイティングなものになることでしょうか?それを邪魔するものなんでしょうか?人間的な経験、論理的な思考形式、進化論的な思考形式、知識、理性、そして何よりも罪です。時に宗教的なかたちや形式だけで、心のないものが邪魔します。神様の心を聞く、知ることがクリスチャンの最高の喜びなのに、時に宗教と言う枠の中で安らぐ時に感知ががおこります。異邦人の人々は救いを待っていたのに、わずかな距離もユダヤ人クリスチャンは宣教することも出来ませんでした。ペテロは自分自身、①神様の声を聞いた証し、②実際に異邦人である彼らが尋ねてきて、彼ら自身も神様の声を聞いてきた証し(ここらへんで分かってもやよさそう)、③伝道し、聖霊が下り、命にいたる悔い改めを受けた、証をします。今日、神様の声を聞いた証しをします。また、人々に神様の声を聞く恵みをSHAREし、教えていきます。
    主にあるエキサイティングな日々を体験します。
      
      

    Wednesday, July 3, 2013

    神様の御わざに反応せよ

    使徒行伝10章45節「割礼を受けている信者で, ペテロ といっしょに 來た 人たちは, 異邦人にも聖霊の賜物が 注がれたので 驚いた. 46節「 彼らが異言を話し, 神を 贊美するのを 聞いたからである. そこで ペテロ はこう 言った. 47節「 この 人たちは, 私たちと 同じように, 聖を 受けたのですから, いったいだれが, 水をさし止めて この人たちに バプテスマ を 受けさせないようにすることができましょうか.」 48節「そして, イエス · キリスト の 御名によって バプテスマを受けるように彼らに命じた.彼らは,ペテロに数日間滯在するように願った.
    神様は聖霊様を異邦人に下されました。ここで人間的な、民族的な偏見に閉ざされていたイスラエル人に、彼らが救われて聖霊に満たされることを体験、目撃しました。そこで、ペテロは洗礼を受け、神様の家族として歩むことを、イエスの弟子となることを決心させます。神様のみわざがなされた時に、私たちは、人間は素早く反応できるでしょうか?いやいや、洗礼クラスが必要ですとか、聖書のみ言葉を学ばないと(もちろん必要ですが)、と言ってタイミングを逃すことがないでしょうか?今日の主のみ技に素直に、自分の体験や方法を除いて奉仕します。
     
     
      

    宣教すると、神様はどんなお方か体験する

    使徒行伝10章34節「そこでペテロは,口を開いてこういった. 「これで 私は, はっきりわかりました.神はかたよったことをなさらず, 」35節「どの国の人であっても,神を恐れかしこみ,正義を行なう人なら,神に受け入れられるのです. 」 36節「 神は イエス · キリスト によって,平和を宣べ伝え, イスラエルの子孫にみことばをお 送りになりました. このイエス · キリストはすべての人の主です。
    ペテロは言います、「はっきり分かりました」と。ペテロにとって大宣教命令をもらっていても、異邦人伝道は遠い道でした、彼の偏見がありました。しかし、イエスの事を伝える中で(伝えさせられる?!)神様がどのような方であるのか?はっきり分かったのです。彼にとってはイスラエルの神様であったのが、①偏ったことをしない(人と違う、民族優位主義でない)、②すべの主である、③神を恐れ、かしこみ、正義を行う人を受け入れる(逆に言えば、そうでないならイスラエル人でも受け入れない、と言うことです)、④イエス・キリストを送られる(人を送るのは犠牲です、愛があるからです),⑤平和を宣べ伝える、⑥御言葉を教える、⑦イエスに聖霊と力を送り、A良いわざ、B癒し、C悪霊からの自由を与えられました。果たして、私はどれほどイエスを知っているのでしょうか?宣教する中で、体験をするイエスを知っているのでしょうか?今日、主イエスを宣教して行きます。もっと、もっと自分をうちやうぶってイエスを知りたい、主よ導いてください。

      
      

    Tuesday, July 2, 2013

    証できる人生を歩んでいるか?!

    使徒行伝10;22節「すると 彼らはこう 言った. 「百人隊長 コルネリオ という 正しい 人で, 神を 恐れかしこみ,ユダヤの全国民に評判の良い人が,あなたを自分の家にお 招きして, あなたからお話を聞くように, 聖なる 御使いによって 示されました. 」
    今日のもう一つのポイントは、コルネリオが評判の良い人であり、素晴らしい信仰者であったことを証しできる人生を歩んでいたことです。①正しい人であった(赴任先で大事なことです)また、難しいことでないでしょうか?仕事先で親切でも、正しい人である強さ、穢れの無さを持つことは大変なことです。見習わないといけない部分です。また、②信仰者として、人生を歩む基準として、神様を恐れること、ココに人間的な恐れでない生き方が感じられます。何よりも、信仰者の証の部分です。③ユダヤの全国民に評判の良い、非常に影響力のある人であったこと、また政治的に難しいこの地域、赴任先で、外国人としても評判の良い人であったことが分かります。なかなかいないのないでしょうか。こういう信徒リーダー、クリスチャンビジネスマン、クリスチャン兵士がいた、というのは素晴らしい証でないでしょうか?何よりも、部下がそのような証できる、自慢の上司でないでしょうか?今日、証しで切る人生を内部でも外部でも出来ることを祈ります。
    主よ、クリスチャンリーダーシップを与えてください。

    自分のLIMIT超えてこそ神様の御心がなる

    使徒行伝10章;19節「ペテロが幻について思い巡らしているとき,御霊が彼にこう言われた.「見なさい.三人の人があなたをたずねて来ています.」 20節「さあ,下に降りて行って,ためらわずに,彼らといっしょに行きなさい.彼らを遣わしたのはわたしです. 」
    ペテロにとって異邦人と交わったり、食事をしたりは、律法でゆるされないことでした。しかし、それは 異邦人の意味(神様を知らない、信じない)を超えて、民族的な偏見、変な意味で、自分の価値観になってしまっていました。そんなペテロと異邦人であるコルネリオの両方に神様は幻を見せて、神様の御心を示します。異邦人にイエスが伝えられるなんて、とマタイの福音書28章19-20節に大宣教命令をもらっていながらも、サマリヤさえも行けなかったのです。今日、私が従うべき神様の御心は何でしょうか?自分の超えるべき概念、偏見は何でしょうか?今日、新しいミニストリーをして行こうと思います。神様の御心を確信し続けたペテロ、コルネリオたちのように主の御心が示された時には「ためらわず」進んでいきます。主よ、御心のままにすすみ、止まらせてください。

    Monday, July 1, 2013

    あなたは覚えられている

    使徒行伝10章3節「彼は敬虔な人で, 全家族とともに神を恐れかしこみ,ユダヤの人々に 多くの施しをなし, いつも神に祈りをしていたが, 4節「ある 日の 午後三時ごろ,幻の中で,はっきりと神の御使いを見た.御使いは彼のところに来て 「コルネリオ  」と 呼んだ. 5節「彼は,御使いを見つめていると,恐ろしくなって,「主よ何でしょうか.」と 答えた. すると御使いはこう 言った.「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って,覚えられています .
    ユダヤ人以外に、福音から離れていた、遠く離れていた異邦人(神様の御心はそうでありません)に、神様からの幻がありました。それは、「あなたの祈りと施しは」神様の前に覚えられている、という声でした、何と幸いなことでしょうか?私の祈りは主の前に覚えられているでしょうか?いや、覚えられているのです。しかし、神様が覚えてくださることを信じ、熱心に祈り、施し(今風に言うと同じ施しもあると思いますし、愛を注ぐことかと個人的に思いました)そのことを知り、目指して、日ごとの変わらないような現実に向かってチャレンジしているでしょうか?この幻は、同じころにペテロにも与えられました。イスラエル人伝道しても、未だに偏見や、民族的に乗り越えることの出来なかった宣教の壁を使徒のリーダーシップを持っていたペテロに神様は同じころに示されたのです。そのような中で、神様に宣教計画がスタートしたのです。私は、祈りと施しが覚えられていることを思って日ごとに伝道し、牧会しているのでしょうか?また、今日もう一つ黙想したことが、7節「御使いが 彼にこう 語って 立ち 去ると, コルネリオ はそのしもべたちの 中のふたりと, 側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ, 8節「全部のことを 說明してから,彼らを ヨッパへ遣わした.」とあります、コルネリオには「神様のビジョンを全部話す」ことのできる部下が、また敬虔なクリスチャンの兵士がいたのです。私はこのように何でも神様の計画を話し、信頼し、行ってもらうチームを持っているでしょうか? 今日、日ごとの祈り、奉仕、そして神様のチームを作っていきます。

    Sunday, June 30, 2013

    ただ主イエスに栄光をささげる人は奇跡行進をする

    使徒行伝9章33節「彼はそこで, 八年の 間も 床に 着いている アイネヤ という 人に出会った 彼は中風であった. 34節「ペテロ は 彼にこう 言った. 「アイネヤ . イエス · キリスト があなたをいやしてくださるのです.立ち 上がりなさい. そして 自分で 床を 整えなさい. 」すると 彼はただちに立ち上がった. 35節「ルダとサロン に 住む 人¿はみな, アイネヤを見て, 主に 立ち 返った. 」44節「そこで, ペテロ は 手を 貸して 彼女を 立たせた. そして 聖徒たちとやもめたちとを 呼んで, 生きている 彼女を 見せた. 45節「このことがヨッパ中に 知れ 渡り, 多くの 人¿が 主を 信じた. 」46節「そして, ペテロ はしばらくの 間, ヨッパ で, 皮なめしの シモン という 人の 家に 泊まっていた.
    ペテロは巡回伝道をします。これを読みながら、どこからその情熱、パワーが来るのだろうか?!私にも巡回させて下さい、このTORRANCEだけでなくて南加州に遣わしてください、と祈りました。また、ペテロはルダにいたアイネヤを癒します、しかし、ペテロの宣言は「神様の御心は」イエス・キリストに会ってです!?自分に栄光を返しません。その結果、アイネヤは癒されて、多くの人々が救われます。ここでも思うことは、奇跡に驚くのに終わったのでなくて、アイネヤやペテロに注目して大騒ぎになったのでなくて、イエスを信じた、ということです。
    次に、ドルカスという女の弟子が死んだときに、ペテロが呼ばれて「よみがえり」の奇跡を神様がされるのに用いられるところがあります。そこでも、ペテロは①主の憐れみを請い、②ひざまずづき、③主の御心を求めて、④神様の御心を確信して、奇跡を宣言します。私はどうでしょうか?私たちはどうでしょうか?主の栄光のために生きる人は、次々と呼ばれます、次々に救われる人が起こります、今日の現実は難しくても、主の栄光のために、救われる人のために、奇跡行進を歩んでいきます。

    Friday, June 28, 2013

    迫害されていないなら、どこかで従順をごまかしていないか?!

    使徒行伝9章
    サウロは、イエスを信じた後で、大胆にイエスを伝え続けました。そのために、ユダヤ教の人から迫害を受けました、すぐに殺されるかもしれない、という陰謀をもたれました。思わされました。伝道をしたら、イエスのためにまっすぐに歩んだら、迫害がついてくるのが当然でないか、と。逆に言えば、迫害が無いのは伝道しないか?主イエスに従順に従っていないからでもあります。サタンは福音が拡がるのを歯軋りして妬みます。教会が成長をするのを外部、内部からも攻撃します。何故、サウロはイエスを大胆に証し、宣教できたのでしょう。①イエスに出会ったからです、迫害したものが赦され、用いられることを知ったからです、いや、罪を赦されたことをまともに、知ったら伝道するしかありません。②一生懸命、聖霊様によって燃やされる人生を体験すること、③イエスに会って喜ぶことです、④バルナバのとりなし、証言です。私たちは一人で伝道できません、一人で教会もできません、信仰生活も出来ません。助けと愛が必要です。サウロを守ってくれた兄弟姉妹がいました。今日、主イエスに会って従順して、伝道していきます。主よ、あなたを喜びます、サタンの迫害や策略に載りません、弱い私を助けてください。

    祈りのトンネルの先には光がある

    使徒行伝9章11節、
    11節「さて, ダマスコ に アナニヤ という 弟子がいた. 主が 彼に 幻の 中で, 「アナニヤ よ. 」と 言われたので, 「主よ. ここにおります. 」と 答えた. 12節「すると 主はこう 言われた. 「立って, 『まっすぐ 』という 街路に 行き, サウロ という タルソ 人を ユダ の 家に 尋ねなさい. そこで, 彼は 祈っています.  」13節「彼は, アナニヤ という 者がはいって 來て, 自分の 上に 手を 置くと, 目が 再び 見えるようになるのを, 幻で 見たのです. 」 14節「しかし, アナニヤ はこう 答えた. 「主よ. 私は 多くの 人¿から, この 人が エルサレム で, あなたの 聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを 聞きました. 15節「彼はここでも, あなたの 御名を 呼ぶ 者たちをみな 捕縛する 權限を, 祭司長たちから 授けられているのです. 」 16節「しかし, 主はこう 言われた. 「行きなさい. あの 人はわたしの 名を, 異邦人, 王たち, イスラエル の 子孫の 前に 運ぶ, わたしの 選びの 器です.16節「彼がわたしの 名のために, どんなに 苦しまなければならないかを, わたしは 彼に 示すつもりです. 」   
    サウロは、衝撃的な神様との出会いの中で、祈りました。また同時に、アナニヤ も祈りました、神様の声を聞いたのです、幻を見ました。しかし、彼らには、最初自分たちの考えや今まで生きてきた生き方、価値観がありました。何と言っても、サウロは反クリスチャン、迫害者でした。多くの被害をもたらした人でした。サウロもそれが神のため、と思って生きてきました。しかし、それが間違いであることが示されました。サウロにとって大きな衝撃、そして目が見えない中で祈ったのです。また、サウロを助けるために使わされるアナニヤも同じでした、サウロが迫害者で未だにあるのに「神様の幻」があったのです。ここで、彼らの悩みや考えはあり、神様に話しました。しかし、神様の御心が示された時に、彼らは従ったのです。今日のQT箇所は前半の彼らと神様への交わり、祈りの聖書箇所が長く書かれていて、後半のイエスを力強く証ししたことが簡潔に書かれていることです。それは、主の御心を知り、従う時に時間がかかっても、その時をしっかりして、従うなら、大きな祝福がある、ということです。従うなら、大きな力が伴うと言うことです、今日、主への祈り、交わりの時間を強く持ち従います、主よ、力強く「イエスは神の子」であると証しさせてください。