Wednesday, July 31, 2013

証できる人生は殉教者の生き方

使徒行伝20章25節「皆さん.御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を,あなたがたはもう二度と見ることがないことを, いま私は知っています.」
今日のQTは、使徒パウロがエペソの長老たちに教えと告別をしている箇所です。パウロは①神様の国を伝え、②神様の計画を余すところなく伝え、③自分が証し出来る生活をしました。そこには、誰にも恥ずることのない、イエスの血によって買い取られた群れに仕えた人生があります。普通、人が買い取ったものを扱う、任せられる、といったら大きな負担、神経を使うことになります。自分のものでないからです。しかも、自分みずからしゃしゃりでてやると言ったのでなくて、聖霊様に任命されたのなら、これを聞いて責任を感じ、重く感じなかったら、おかしい話です。どうしたら、この責任を全うできるのでしょうか?証できる人生を歩めるのでしょうか。それは、たった一つ殉教者の生きかたしかないと黙想しました。他に方法は無いのか、考えたのですが妥協案はありませんでした。どこか、イエスのために監獄に行きました、とか死刑になりました、とかだけが殉教でありません。生き方そのものをささげるのが、聖書のみ言葉通りにするのが、殉教であり、祝福であり、キリストの聖い花嫁の生き方です。祝福の人生の生き方です。今日私の歩みが、証できる人生、殉教できる人生になりますように、まだまだ遠いですが、イエスが近く歩いてくださることを、いや共に歩んでくださることを信じます。

Monday, July 29, 2013

夜が明けるほど御言葉を語るか?!

使徒行伝20章7節「週の初めの日に,私たちはパンを裂くために 集まった. そのとき パウロ は, 翌日出發することにしていたので,人々と語り合い,夜中まで語り続けた」11節「そして, また上がって行き,パンを裂いて食べてから,明け方まで長く話し合って,それから出發した. 」
今朝のQT箇所は、トロアス(現在のトルコ)での交わりです。そこで、明日の出発のために「長く話し合い、そのために青年が落ちてしまった、そこでパウロが癒しをした」という箇所です。普通はそこに目が行きますが、おもったよりはるかに簡単に癒しの部分を書いています。今日私が思った部分は、その癒しの跡に「さらに上っていって聖餐式をし、交わりをして、明け方近くまで話し合った」ということです。普通そういう事件があれば、中止とか、解散になってもおかしくないでしょう。しかし、彼らの聖餐式、礼拝、交わり、聖書のみ言葉の交わりははるかに大事であり、しっかりされた、ということです。そちらが本質であった、といことです。また、この学びの熱さにも注目しました。「夜中まで」学びをした後に、「明け方まで」話し合ったのです、こんな熱い交わり、学びをしてどれほどでしょうか?今朝私の適用は、熱いFELLOWSHIP、学び、奉仕を作っていこう問うことです。そこまで、熱く、みなが加わる学び、FELLOWSHIPもっているでしょうか?教会の中で作っていこうと思います。主の臨在の中でなされる、主の創造される学び、FELLOWSHIPもてるように祈ります。

Sunday, July 28, 2013

真理に捕らえられないと損得に捕られる

使徒行伝19章23節「」
デメトリオという人が、パウロの宣教に逆恨みをして職人たちを巻き込んで、」騒動を起こします。今朝の私の状況にぴったりでした。まさに、」ひとは損得で動きます。また、そのことで逆恨みさえして、人を陥れて、問題を起こして何も思いません。それは、イエス・キリストの真理に捉えられない人生そのものです。利益は必要です、大事な祝福です。しかし、真理に属する時にまことの祝福がきます。順番が逆です。きょう、神様の下さる真理に捉えられて歩みます。その中から判断し、行動します。主イエスよ、知恵の無い私を助け、弱い私を守り、導いて下さい。

Saturday, July 27, 2013

神様は何故この人を使うのか!?

使徒行伝19章11節「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた.」
パウロが悪霊を追い出し、病気を癒し、またてぬぐいをおくだけで癒された、という使徒行伝の奇跡が書かれています。なぜ、神様はパウロを使われたのでしょう?なぜ、神様はこの人を使うのか考えたことがあるでしょうか?①神様の絶対的な主権、選び、CALLINGによります、人の法に理由はありません。②神様と親しいかどうか?です。神様は仕事から始める方ではありません。③聖いかどうかです。これは重いイメージがありますが、聖いことは決して世の中で作れない、自分で作れないものです。聖いとは本当になりたい、渇望するほど、欲しいものである、という体験をしたら願います(私はそうです)④神様の心を正確に読み取る人です。そして、もちろん従う人です。私たちは人の比較で、使われることを考えます、そこで、悩んだり、くやんだり、比較して落ち込むのです。しかし、神様の用いられるのは神様の自由です。そして、風は吹きたいところに吹きます。神様の風が吹きやすい人になりたいと思います。

Friday, July 26, 2013

神様は侮られる方でない!あなたはイエスを知っているか?!

使徒行伝19章、13節「ところが, 諸國を 巡回している ユダヤ人の魔よけ祈祷師の中のある者たちも,ためしに、惡霊につかれている者に向かって主イエス の御名をとなえ, 「パウロの宣べ伝えているイエスによって、 おまえたちに命じる. 」と 言ってみた.14節「そういうことをしたのは, ユダヤの祭司長スケワという人の七人の息子たちであった. 」15節 「すると 惡が 答えて, 「自分は イエス を 知っているし, パウロ もよく 知っている. けれどおまえたちは 何者だ. 」と 言った. 16節「そして惡霊につかれている 人は, 彼らに 飛びかかり, ふたりの者を押えつけて,みなを打ち負かしたので,彼らは裸にされ、 傷を負ってその家を逃げ出した.」
神様は侮られる方ではありません、また神様の働きも決して侮る、不純な動機、自分のためにすることや、まして利用するようなことがあってはなりません、断じて。今日のQT箇所では、悪霊につかれている人々から、悪霊を追い出し、病を癒すパウロたちを見て、イエスを信じていないのにもかかわらず、からかい半分、利用でそのようなことをした人に、逆に悪霊から凝らしめが来ます。癒しや、悪霊の追い出しを他の宗教もするかもしれません、しかし、真の癒し、聖霊の臨在はまことのイエス・キリストを信じるものにしかできません。また、黙想しました。奉仕や神様のためにと言いつつも、不純粋なものや利用することがないのか?神様は決して侮られる方でないことを思いました。神様は決して人に利用されたり、試される方でありません。今日、主イエスを信じ、怖れを持って、喜んで仕えていきます。

聖霊のバプテスマを受けたのか?!

acts19;2節「信じたとき,聖を受けましたか.」と 尋ねると, 彼らは, 「いいえ, 聖の与えられることは,聞きもしませんでした. 」と 答えた. パウロがエペソにいた人々に「聖霊を受けたか?」とたずねました。彼らはバプテスマのヨハネのことしらしらず(悔い改めのバプテスマ)イエス・キリストのバプテスマを受けた時に、6節「パウロ が 彼らの 上に 手を 置いたとき, 聖が彼らに臨まれ,彼らは異言を語ったり, 預言をしたりした.」とあります。ここで私にとって聖霊のバプテスマは何だろうか?と思いました。昨日の聖書箇所はアポロが聖書を知っていたが大事な部分を知らなかったのでアクラとプリスキラの夫婦が教えた、という箇所です。ここに今日の内容は続いています。聖霊のバプテスマは「預言や異言」がとりざたされやすいですが、私にとって(QTですから)「神様の支配、コントロール、以前の私が主人でなくて、主イエスのみが私の主人」であるということでした。そこに、力があり、人の力でなくて、神様の力で歩んで、神様の心で、神様のミニストリーをしていきます。パウロはこの後、エペソにあるツラノ講堂で2年間イエスを伝えたために、アジアのユダヤ人、ギリシャ人が全てイエスを聞いたとあります。今日、祈ります。私を聖霊のバプテスマで満たし、TORRANCE,SOUTH BAY地域に いる日本人やアジア人、韓国人がイエスを聞く日が来ますように。また、私だけでなくてジュビリー教会のメンバーが全て聖霊のバプテスマを受けて力強く歩めますように。

Thursday, July 25, 2013

宣教チームが再生産される

使徒行伝18;18「パウロは,なお長らく 滯在してから,兄弟たちに別れを告げて,シリヤへ向けて出帆した.プリスキラとアクラ も同行した.パウロは一つの誓願を 立てていたので,ケンクレヤで髮をそった」パウロは、コリントでの宣教を終えて、宣教パートナーを得ます。アクラとプリスキラと言う大事パートナーです。また、パウロは「誓願」をして頭をそりました。神様への誓いと願いを持って献身してさらに仕えたのです。果たして、私は主への再献身を日ごとにしているでしょうか?日ごとに目標へ向かって、歩んでいるでしょうか。また、今日心に一番来たのは、宣教のパートナーを得た、ということです。彼らは移住地を変えてパウロについてきて、宣教に仕える人たちとなりました。果たした私は、私たちの教会はそのような宣教パートナーを得ているでしょうか。彼らを育てたパウロの働き、労苦は非常に大きいものがあったと思います。プリスキラとアクラ は、さらにアポロを見つけてイエスの事を正確に伝えるように導く奉仕をします、何と貴重な奉仕者を得たことでしょう。自分が輝くためでなくて、キリストを伝えるために他の人を立てます。私たちならどうでしょうか?今日、宣教チームを作って行く奉仕、主に栄光をたてる奉仕をしていきます。

Tuesday, July 23, 2013

恐れず、とどまれ

恐るな、語り続ける理由は何か。使徒行伝18:9使徒パウロは、コリント伝道しました。そこで、最初にあったのは①アクラとプリスキラというテントメーカーの夫婦でした。彼らは何とパウロと共に仕事し、共に生活までして教会を立てる開拓メンバーになりました。何とありがたいことでしょう。次にあったのは、②シラスとテモテの宣教チームでした。言うなれば、スタッフです。そういう彼らの宣教はコリントで反抗と暴言に出会いました。難しい局面でした。しかし、そんなパウロに主イエスは語られました。恐るな、私の民がいるから語りなさい。今日、主イエスの言葉を持って受けて恐れずに語ります、また宣教スタッフと開拓メンバーを育ててゆきます。

Monday, July 22, 2013

創造主はチャンスを下さる方

使徒行伝17章31節「なぜなら, 神は, お 立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため, 日を決めておられるからです. そして,その方を死者の中からよみがえらせることによって, このことの確證をすべての人にお与になったのです. 」
神様は創造主です、人の作られた偶像や人に支配されたり、侮られる方でありません。その方は、私たちに、住み時代、場所、人生を与え、決め、命、息、万物を与えられました。それは、求めれば神様を見出せる二様にチャンスを下さったのです(一般啓示)。感謝なことでないでしょうか?そして、それで終わることなくイエス・キリストを送ってください、十字架にかけて、そして3日目に復活されるようにされました(特別啓示)何と素晴らしいことないでしょうか!神様は私たちに、素晴らしいチャンスと愛のメッセージを下さっています。悔い改めのチャンスを下さっているのです。しかし、福音の反応は2つありました。①「またいつか聞くことに」②「付き従い、信仰に入ったもののいた」です。神様の下さるチャンスは愛です、人格的なものです。しかし、それはいつまでも無期限のものでありません、イエスを信じる時はいつでしょう?それは今です。主イエス・キリストが与えられたことを伝える日をいきます。

Sunday, July 21, 2013

使徒行伝17章17、2117節「そこでパウロは,会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」21節「アテネ人も,そこに住む外國人もみな,アテネ 人も, そこに 住む 外國人もみな, 何か 耳新しいことを 話したり, 聞いたりすることだけで, 日を 過ごしていた. パウロはとうとうギリシャのアテネに到着しました。そこの人たちは「 何か耳新しいことを話したり,聞いたりすることだけで,日を過ごしていた 」とあります、良い生活ですね、と一瞬思います。でも、パウロの生活はどうだったでしょうか?「会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ広場では每日そこに居合わせた人たちと論じた.」とあります、対照的な毎日の過ごし方です、イエス・キリストの福音に出会った人は「毎日」することがあります、忙しすぎます、燃えます。でも、福音に出会わない人生、真理に出会わない人生は、することがありません、それは人生をいきているといえません。私は「毎日」福音を伝えているでしょうか?私にとって「会堂」はどこでしょうか?「広場」はどこでしょうか?パウロは既に聖書を持っていたユダヤ人たちの会堂でイエスを伝えました。私も教会でイエスを伝えます。「広場」は聖書のBACK GROUNDあるかないか分からない場所です。出て行ってイエスを伝えます、キャンパスで、マーケットで、友人と、ハングル教室の中で伝えていきます。

Saturday, July 20, 2013

迫害されても聖書を伝えるか?!

使徒行伝17章2-3、11節「パウロ はいつもしているように,會堂にはいって 行って, 三つの 安息日にわたり, 聖書に基づいて彼らと論じた」 3節「そして, キリスト は 苦しみを受け, 死者の中からよみがえらなければならないことを說明し, また議論して,「私があなたがたに傳えているこのイエスこそ,キリスト なのです.」と言った.11節「ここの ユダヤ 人は, テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで, 非常に熱心にみことばを 聞き, はたしてそのとおりかどうかと每日聖書を 調べた.」
パウロは聖書に基づいてイエスの福音を伝えました。そこには救われる人もいました。 テサロニケでは、幾人かが分かって救われた、とあります。しかし、その中で迫害も起こり、避難することになります。そこで行ったペレやでも、聖書から教え、十字架にかかり復活されたのがイエスだと伝えます。ここでは、人々は非常に熱心に聴き、みずから毎日聖書を調べて救われた、とあります。しかし、ここでも迫害は妬みから起こります。今日心に留まったことは「聖書から教える」ことと「迫害が必ず起こる」ことです。それは福音を伝える時に必ず迫害もあり、「聖書からイエスを教える」時に、内部、同じ国民のユダヤ人から「いわれのない理由と拒否」からも迫害されることです。私は果たして迫害されるほどに、福音を伝えているでしょうか。また「聖書からイエスを伝えて」いるでしょうか。そのために拒否間のために、いわれのない迫害を受けるほど福音を伝えているでしょうか(迫害を受けたいではないですが)。北米でストレートな迫害は無いかもしれませんが、聖書からイエスを伝える時攻撃はあると思います。今日、イエスの事を聖書から伝えて生きます。

Friday, July 19, 2013

タイミングを逃すな!

使徒行伝16章33節「看守は,その夜,時を移さず,ふたりを引き 取り, その打ち傷を洗った.そして,そのあとですぐ,彼とその家の者全部がバプテスマを受けた.」パウロが福音を語った後で、看守と家族たちは「時を移さず」バプテスマを受けたとあります。普通考えれば、夜だから、とか牢獄だから、彼の立場は囚人だから、私は看守だから、とか職業的な、社会的な、人間的な立場を考えることがあります、しかし、彼らはそこに頼ったり、判断基準にすることがしませんでした。今朝の恵みは、タイミングを逃すな!です。今風に言えば、イエスを信じたけど、バプテスマ(洗礼)まで時間を置いてとか、役員の許可を得てとか(微妙?)聖書研究をしてからとか~と考えるかもしれません。でも、神様の下さる今日の恵みに、反応しないといけません。それは、今日と言う日は、2013年の7月何日は二度と来ないからです。2013年何月何日の礼拝を同じ気持ちで、同じ状態で受けれることは二度とありません。今、神様に与えられている恵みに、反応することは本当に大事だと思いました!31節「ふたりは,「主イエスを信じなさい.そうすれば,あなたもあなたの家族も救われます.と 言った.とあるように、神様に呼ばれたら、すぐに応答することが大事です。主イエスを信じなさい、と呼ばれたときに、「時を移さず」信じ、バプテスマを受けること大事です。主の恵みの声を聞いたら、今日、聖書の学びがあるよ、という時に、神様の恵みが注がれているのを感じたら、反応しないとすごく後に来るのか?もしかしたら、二度と来ないのです。今日の奉仕の中で、出会いの中で、主イエスの下さった恵みのチャンスに、勇気を持って、決断し、進んでいきます。主イエスの声に敏感でいさせてください。主だけに仕えれるように。他の何にも仕えないように祈ります。

Thursday, July 18, 2013

祈る人に、賛美する人に神の事件が起こる

使徒行伝16章16節「私たちが祈り場に行く途中,占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った. 」24節「この命令を受けた看守は,ふたりを奧の牢に入れ,足に足かせを掛けた.」25節「眞夜中ごろ,パウロとシラスが神に祈りつつ贊美のっていると,ほかの囚人たちも聞き入っていた.」
今朝、QTをした時に「祈り場に~」というところが心に留まりました。パウロたちは日常的に祈っていたんだな、と思わされました。日常的に神様と会話したんだな、と思いました。そういえば、最初のピリピでの伝道もテアテラ市の紫布商人ルデヤに出会って最初のピリピ伝道、教会のメンバーに合いました。祈る人に神様の事件が、出会いが、奇跡が起こるんだなと思いました。今日の聖書箇所は、祈り場に行くパウロに悪霊につかれた女がついてきて、悪霊を追い出し、癒します。ところが、そのために逆恨みした主人のために鞭打たれ、牢獄に入れられます。そこで、パウロとシラスは賛美をしました。日常でない賛美です。苦痛、侮蔑、いわれのない苦難、怒ってもおかしくない時に賛美しました。それは周りの囚人に影響を与えました。そこで地震が起こり逃げ出しても当たり前の状況で、逃げ出さなかったのです。それは、看守に感動を与えました、この世の中でない、常識はずれの人生に震えを感じるほど、そして「自分から救いを求める」ほど、影響を与えました。福音を伝えるところにサタンの攻撃もあります。しかし、祈る人に、’賛美する人に奇跡が起こること、神様の事件が起こることを期待し、信じ今日一日をいきます。

Wednesday, July 17, 2013

あなたの1PIECEは世界宣教戦略の大事な計画がある

使徒行伝16章7-10「こうしてムシヤに面した所に來たとき,ビテニヤのほうに行こうとしたが,イエスの御がそれをお許しにならなかった.」「それでムシヤを通って,トロアスに下った.」 「ある 夜, パウロは幻を見た. ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って, 「マケドニヤに渡って来て, 私たちを助けてください. 」と懇願するのであった. 」パウロ がこの 幻を 見たとき, 私たちはただちにマケドニヤ に 出かけることにした. 神が私たちを招いて,彼らに福音を 宣べさせるのだ, と確信したからである.」
パウロたちは宣教をする方向、戦略をはっきりと持っている人であった、と思います。非常に戦略的で、時間や奉仕を無駄にすることのない、プロ精神に溢れていた人であったと思います。しかし、その彼の宣教の方向性と願いと、神様の計画が違った時に「彼は従いました」それは、彼一人の従順だけでなくて、今日の世界宣教まで影響を及ぼしました。アジアに出なくて、ヨーロッパに宣教がシフトしたのです。そして、地球を逆周りにこんどはヨーロッパから宣教が来ました。パウロも従うのは簡単でなかったはずです。自分の考えもあったでしょう。しかし、信仰生活の基本は「神様の声を聞く→やってみる→祝福」です。私の従順はわたし一人で終わるのでなくて、神様の心をなし、全世界への祝福になります。逆に、私一人の不従順は、神様の計画がなりません、全世界へのMISSです。私のしていることは大事な神様の1PIECEです。決して小さいものでありません。今朝のMID WEEK SERVICEを神様の大事な1ピースとして仕え、奉仕し、したがって行きます。
使徒行伝16章3節「パウロは,このテモテを連れて行きたかったので,その地方にいる ユダヤ人の手前,彼に割礼を受けさせた.彼の父がギリシヤ人であることを,みなが知っていたからである. 」使徒パウロがテモテに出会って、彼を宣教に連れて行きたい、と思いました。そこで、パウロは割礼を受けさせます。聖書にははっきりと「ユダヤ人の手前」と書いてあります。今朝、思わされたのは福音が前進するためにのために譲って行けないこと、逆に、自分の自由や権威を自由に、福音のために譲る余裕、愛、恵みでした。心に余裕やゆとり、懐の深さがないといらないところで、自分の主張をし、ぶつかります。決して、成人であるテモテが割礼を受けるのはやさしいことでなかったでしょう。しかし、全てを福音のためにする人には、相手への余裕、心の深さ、配慮できる恵みがあります。今日、主イエスにある配慮、懐の深さ、信仰から人格を求めます。それは、主イエスの愛から来るものです。人の力、自分の力ではありません。主イエスにある配慮ができる人に(人間の力でなくて)、恵みによって変えられて行きたいと思います。

Tuesday, July 16, 2013

私は励ます人だろうか?!

使徒行伝15章32節「ユダもシラス預言者であったので,多くのことばをもって兄弟たちを励まし,また力づけた」41節「 パウロはシラスを選び,兄弟たちから主の惠みにゆだねられて出發した」今日の聖書箇所は、シリアのアンテオケ教会を訪問したことからスタートします。彼らの訪問は「異邦人の救い」の問題についての派遣でした。普通、こういう訪問だと事務的な、もしくは組織的な、かたい、役員会のような(私の経験した?)イメージですが、彼らの訪問は「多くの兄弟姉妹を喜ばせ、励ました」とあります。果たして、私は励ます人でしょうか?また、彼らの励ましは「神様のみ言葉」による励ましでした。異邦人の救いの問題解決のために、難しい、時に討論まで会ったのに、訪問は喜ばし、励ますものになりました。本当にGRACE MEEETINGだな、と思わされます。それだけでなくて、パウロの第二次宣教旅行に同労者となりました。組織的で、心のない、ような所と全然違うものを感じます。今日、主に会って励ましのみ言葉を伝えていきます。今日、私はナースリングホームの訪問がありますが、訪問が神様の言葉による励ましになるように祈りつつ、奉仕します。主よ助けてください。また、今の教会にもこのような恵みの会議、生きている組織、伝道するために仕える奉仕できるように目指していきます。
    
  

Monday, July 15, 2013

問題に立ち向かう教会であれ!

使徒行伝15章22節「そこで 使徒たちと 長老たち,また,全教会もともに,彼らの中から人を選んで,パウロやバルナバ といっしょに アンテオケへ送ることを決議した.選ばれたのは兄弟たちの中の指導者たちで,バルサバと呼ばれるユダおよびシラスであった.」
異邦人たちが救われたことをペテロが証しした後で、エルサレム教会のリーダー格であるヤコブが①ペテロを通しての異邦人たちの救い、②OT、預言者たちを通して異邦人の救いが神様の御心であること、③シンプルに(人道的なことですよね)異邦人たちが守るべき4つのルールを伝えることにしました。そして、ユダとシラスをバルナバとパウロにつけて⑤全教会の決議として伝えさせます。今朝、私の恵みは初代教会が正しく問題を扱い、個人的なことや、部分的なこと、地域的なことの扱いでなくて、全教会の決議として問題に正々堂々と立ち向かったことです。いうなれば、牧師先生だけが問題に立ち向かったのでなくて、熱心な人だけが立ち向かったのでなくて、全教会が問題に討議し、検討し、決議をしたのです。その結果、異邦人伝道、牧会のモデルとしてシリアのアンテオケ教会が建っていき、後にシラスたちも宣教に関わっていく伝道のパートーナーになったのです。主にある教会の決議は、組織的な関係に終わるのでなくて、後に、伝道、宣教に関わる関係になりました。今日、これから問題に立ち向かい、宣教していく教会を目指し、たてあげていきます。

Sunday, July 14, 2013

問題の根本を正しい場所で検討せよ

使徒行伝15;1節「さて,ある人々がユダヤ から下って來て,兄弟たちに,「モ ― セ の慣習に従って割礼を受けなければ,あなたがたは救われない.」と敎えていた. 2節「そして パウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論爭が 生じたので, パウロとバルナバ と,その仲間のうちの幾人かが, この 問題について使徒たちや長老たちと話し合うために, エルサレム に 上ることになった.
今日のQTは、異邦人に割礼を受けさせないと救われない、といういわゆる間違った律法主義を人々に押し付ける人がいた、というところです。そこで、激しい論争になった、というところで問題の解決方法に教えられることがありました。①教会の公同の場所で問題を会議することにした、ということです、いくらある地域で話を解決しても普遍的な解決がなければ、問題は続いたでしょう。公正に問題を解決をしました。②権威ある人々のもとへもっていきました。権威は悪いものでなくて(権威主義が行けないのであって)、私たちを守る大事なものです。③結果、最初に異邦人伝道をしたリーダーのペテロから「神様の計画」を伝えさせました、④パウロたちは異邦人に信仰の門を開いた、証をすることになりました、⑤私たちはイエスの恵みでないと救われない、ことをはっきり示す、グレースミーティングになりました。今日、また教会のミーティングに公同、そして恵みのミーティングをリーダーと共にしていきます。

Saturday, July 13, 2013

神様の恵みだけを報告しているか!?

使徒行伝14章26節、「そこから船でアンテオケに帰った.そこは,彼らがいま成 遂げた働きのために,以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった.」27節「そこに 着くと, 教会の人々を集め,神が彼らとともにいて行なわれたすべてのことと, 異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した.」
パウロたち一行は、無事に第一次宣教旅行を終えてシリアのアンテオケに帰ってきます。そこは、彼らが宣教師として祈りと断食を持って送り出されたところでした。彼らはアンテオケの教会の人々に宣教報告をします。それは、すごくシンプルなものでした。神様が異邦人に信仰の門を開けた、ということだけでした。使徒行伝を呼んでいてすごくシンプルで、人間的な感情や苦労を書いていないことに気がつきます。迫害にあっても、そこでの不満や不平を言うこともなく、福音のために前進し続けます。自分の話や感情が先でありません。そこには、純粋に神様になされたことだけが書かれています。神様のみわざだけを報告しています。果たして、私ならどうでしょうか?自分のことを先に語ったり、苦労を話して、慰めを求めたり、しないでしょうか?それが悪いとは言いません。しかし、純粋に神様のみわざ、心だけを話す姿勢があるのでしょうか?そのほうが、祝福なのです、栄光をささげるほうが恵み、祝福が神様に、人々にあるだけでなくて、自分にも一番来ます。今日、主イエスのことだけを、神様の心だけを話します。

Friday, July 12, 2013

何のためにしているのか分かっているのか?!

使徒行伝14章15節「言った. 「皆さん. どうしてこんなことをするのですか. 私たちも 皆さんと 同じ 人間です. そして, あなたがたがこのようなむなしいことを 捨てて, 天と 地と 海とその 中にあるすべてのものをお 造りになった 生ける 神に 立ち 返るように, 福音を 宣べ 傳えている 者たちです. 」パウロたちがルステラで生まれつき足の不自由な人の足を癒した時に、彼らを偶像し、また英雄にしようとした時にパウロは宣言しました。私も人間です、と。そして、私は「虚しいことを捨てて、神に立ち返るように福音を伝えているものです」と。私たちは、福音を伝えつつも、自分が褒められること、評価されること、大きな誘惑があるのでないでしょうか?でも、それこそまさに自分が何のためにやっているのか?神様を伝え、主の栄光のために、自分は誰なのか?自分は福音を伝えるもの、それ以上もそれ以下もありません。果たして、私は何のためにしているのか分かっているでしょうか?自分は誰か分かっているのでしょうか?今日、主イエスの福音のために、栄光のために生きるものとして歩みます。アーメン、ハレルヤ!

Thursday, July 11, 2013

それでも、喜びと聖霊に満たされる理由

使徒行伝13章;45節「しかし, この群衆を見たユダヤ人たちは,ねたみに燃え,パウロの話に反対して,口ぎたなくののしった.」46節「そこで パウロ と バルナバ は, はっきりとこう 宣言した.「神のことばは,まずあなたがたに 語られなければならなかったのです. しかし, あなたがたはそれを拒んで,自分自身を 永遠のいのちにふさわしくない 者と 決めたのです. 見なさい.私たちは, これからは 異邦人のほうへ 向かいます. 」51節「ふたりは, 彼らに對して足のちりを拂い落として,イコニオムへ行った」52節「弟子たちは 喜びと 聖に 滿たされていた」
使徒パウロたちの宣教は町中の人々にうわさになり、救われる人が起こされます。しかし、彼らは同胞のユダヤ人たちから迫害されます。これはイエスの時も同じでした。彼らの嫉妬と妬み、そして口汚くののしる、普通、現在の日本人、私たちクリスチャンがこんな待遇を受けたらどうでしょうか?きっと夜も眠れない、痛みや悩み、苦痛でないでしょうか。しかし、使徒パウロたちは違いました、ユダヤ人が永遠の命に相応しくない態度をとっていることを明らかにしながら、異邦人への福音伝道が進むことを喜びました、またそれが神様の計画であったことをはっきり宣言しました。私たちにとって迫害や攻撃、非難が大事な福音を伝えるのに、足かせになったり、倒れたりすることがないでしょうか。初代教会のクリスチャンよりはるかに弱い私たちです。何故、初代教会のクリスチャンはそれでも、「喜びと聖霊に満たされた」のでしょうか。それは、神様の御心に従うこと、何よりも福音を伝えることを一番の喜びとしたからです。非難されること、攻撃されることに時間をとられると、神経を持っていかれると、一番大事な福音を伝えることが難しくなります、その時間が取れれていきます、サタンも攻撃してきます、今日、福音を伝えることを自分の神経、考え、時間の優先にしていきます。本質にこだわる喜びを持ちます。非難、攻撃を沈めていきます。主よ助けてください

Wednesday, July 10, 2013

クリスチャンのアイデンティは証人

使徒行伝13章31節「イエス は, ご 自分といっしょにガリラヤ からエルサレムに上った人たちに,幾日もお現われになりました. きょう,その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています.」
今朝、使徒行伝のQTをしながら気がついたことは、福音を伝えた時に、自分たちの紹介をする段階になると、使徒たちのアイデンティは「いつも、どこでも、イエスの証人」だな、ということでした。それ以上もそれ以下もありません。イエス・キリストの救いをはっきりと伝えます。彼らはそれだけでなくて、しかも、イスラエルの指導者、そして民衆たちが旧約聖書の預言のとおり来られたイエスを十字架にかけたことをはっきりと言います。そして、その罪を示し、悔い改めを話します。いいにくいことでないでしょうか?自分の立場や社会的なことを考えると難しいことでないでしょうか。しかし、彼らのアイデンティはクリスチャン、イエスの証人です。ある意味で迫害がないのであれば、まともに信仰生活をしているのかどうか?自分自身試されることです。どこでも、いつでも、イエスの証人として①聖書の約束実現、②私に、あなたに救いの言葉来たこと、③悔い改めと罪の結果、④信仰の決心を伝えて生きます。

Tuesday, July 9, 2013

壮大な神様の計画には、神の涙がある

使徒行伝13章15節「律法と預言者の朗読があって後,会堂の管理者たちが,彼らのところに 人をやってこう言わせた.「兄弟たち.あなたがたのうちどなたか, この 人たちのために奨励のことばがあったら,どうぞお 話しください」23節「神は,このダビデの子孫から,約束に 從って,イスラエルに救い主イエスをお送りになりました」
パウロたちは一行は、さらに宣教旅行を進めました。途中、同行者のメンバーが帰っていくこともありました。それでも、何事もないように簡単な報告で済ませて、さらに宣教旅行を続けます。そして、ピシデヤのアンテオケ(シリヤでないですよ!そこは彼らの派遣教会)で会堂でユダヤ人へ、改宗者たちの外国人たちへ旧約聖書の(律法と預言者)の朗読から、イエス・キリストを送られるまでの神様の救いの壮大な計画を語ります、解釈し、説明します(今日のQTはここまでです)。あなたのがたの求めている、待っているメシア、救い主がこの人ですよ、と伝えようとしています(今日はまだ話してません)、今朝のQTをしながら思ったのは、壮大な神様の計画の驚くと共に、その根底にある愛、涙を思いました。一牧師として、魂の奉仕をして祈る時に、どれほどの涙、苦労、喜びがあるか分かりません。神様の忍耐、愛に比べたらどうでしょうか?パウロもたちもここで言及しないけど、途中で離れて一行への痛みがあったはずです。それでも、宣教し続けました。また、私を育ててくれた宣教師や牧師先生たちも、苦労があったはずです。それは、神様の計画と涙その心を持った人の働きです。今日、神様の救いの計画と涙を持った歩みます。

Monday, July 8, 2013

主に従う人の強さ

使徒行伝13章4節、「ふたりは聖霊に遣わされて,セルキヤに下り,そこから船でキプロスに渡った」8節「ところが, 魔術師 エルマ (エルマという 名を訳すと魔術師 )は, ふたりに 反對して, 總督を信仰の道から遠ざけようとした. 9節「しかし,サウロ ,別名でパウロ は, 聖に 滿たされ,彼をにらみつけて,」
聖霊様により、シリアのアンテオケ教会から送り出されたサウロたちは、キプロス島の総督が神様の言葉を聞こうとするのを邪魔する魔術師ににらみつけて、神様の裁きを宣言します。そこに感じるのは戦うキリスト教です、強いキリスト教です。残念ながら、日本で私が体験した教会は、そういうことが少ない場所でした。教会で説教の時に居眠りしている人がいても(いつも)何か言うことは無い、場所にも合いました。それはそれでもったいない話ですが、せっかく教会に来ているのに。元に戻しますが、主に使わされた人、教会から送り出された人、聖霊様により満たされた人、の強さを感じます、悪霊の攻撃、聖書のみ言葉を聞こうとする人への邪魔を断固として追い出します。福音を邪魔する人へ、断固とした態度があるでしょうか。私にその強さ、リーダーシップ、断固とした態度(それは聖霊の満たしによって)強く立つことがあるでしょうか?今日、シリアのアンテオケ教会をモデルにする教会の牧師として強くたちます。主よ、助けてください!

Sunday, July 7, 2013

信仰の反応をする人、そうでない人

使徒行伝12章15節;彼らは「あなたは気が狂っているのだ.」と言ったが,彼女は本当だと言い張った. そこで 彼らは「それは彼の御使いだ 」と 言っていた.」16節「 しかし,ペテロはたたき続けていた. 彼らが 門を 開けると, そこに ペテロ がいたので, 非常に驚いた」17節「しかし 彼は, 手ぶりで 彼らを 靜かにさせ,主がどのようにして牢から救い出してくださったかを, 彼らに 話して 聞かせた. それから,「このことを ヤコブと兄弟たちに 知らせてください.」と言って,ほかの所へ出て行った.
神様がペテロを救出されたことへの反応があります。①女中のロダのように純粋に良い心で反応するか?信仰で反応する人、②神様のみわざであることを証し、栄光を神様に返すペテロ、③救出されたと主張するロダに対して「御使いだ」こちらのほうが難しい、無理のある話です。神様がなされたことへ期待もなく、信じずに祈るのではもったいない話です。神様の無碍の祝福を「単にあったらいいな~あるかも、それは幻想的な話し」と言うのであれば、情けない話です。せっかくにクリスチャンになりながらも、体験できないのは残念な話です。私たちは進化論的な、理論的な思考形式になれています。ですから、そんなことはありえない話になるのでしょう。しかし、私たちが救われたこと自体が奇跡です。目に見えないけど、生きて働く神様がおられます、今日、起こることに、礼拝に、出会う人々に信仰の反応をしていきます。
 

とりなしの祈りを通して神様を体験したか?!

使徒行伝12章:5節「こうしてペテロは牢に閉じ込められて いた. 教会は彼のために,神に熱心に祈り続けていた. 6節「ところでヘロデ が彼を引き 出そうとしていた日の前夜,ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寢ており,戶口には番兵たちが牢を監視していた.」7節「すると 突然, 主の御使いが現われ, 光が牢を照らした.御使いはペテロのわき 腹をたたいて彼を起こし,「急いで立ち上がりなさい.」と 言った.すると,鎖が彼の手から落ちた.」
初代教会は、捕らえられたペテロのために熱心にとりなしの祈りをしていました。そこに、天使がペテロを救うと言う奇跡が起こりました。ハレルヤ!しかし、初代教会はこのことに反応できませんでした。何を信じて祈っていたのでしょう。誰に向かって祈っていたのでしょうか?でも、これはえてして私たちの現実にありうることでないでしょうか?ハ・ヨンジョ牧師先生が早朝気当会で言われた言葉を思い出します、あなたの祈った言葉を信じて今日一日を生きなさい。私の中にそんなことは無いでしょうか?奇跡は過ぎ去ります、奇跡はその事件だけに適用されます、しかし、その奇跡を起こす方に祈っていること、その神さまに出会うことが出来るならば、奇跡は当たり前になります。なぜなら、神様がなされる、生きておられる、私は、その神様に向かって祈っているからです。 今日とりなしの祈りを期待を持って祈ります。SJM(南カリフォルニアサラン教会日本宣教会)でのとりなしの祈りを期待して祈ります。主が聞かれます!アーメン!
   
  

Friday, July 5, 2013

あなたは良い意味で違いをもっているか?!

使徒行伝11章25節「バルナバはサウロを搜しに タルソヘ行き,」26節「彼に会って,アンテオケに連れて来た.そして,まる一年の間,彼らは教会に集まり,大ぜいの人たちを敎えた.弟子たちは,アンテオケで初めて,キリスト者と呼ばれるようになった.
異邦人の地、アンテオケで初めて「クリスチャン」と呼ばれるようになったキリスト者たち。それは、ユダヤ人の地であるイスラエルでなくて、外国人の地から始まったことでした。当時のアンテオケは、インターナショナルな都市でした。ローマ、アレキサンドリアに続く第三の都市でした。そこに、彼らのインパクトは強烈なものであったようです。他と違う、こいつらはキリスト者、キリス狂いだ!と。果たして、私は、私たちはどうでしょうか?  キリスト者、と呼ばれるほどに良い意味で他の人たちと違いをもっている人なのでしょうか。悪い意味で同じではいけないのないでしょうか?日曜日の過ごし方、礼拝への姿勢、仕事への姿勢、家族への態度、キリスト者と呼ばれる名誉、祝福、周りの人々から一目置かれる人生を歩んでいるでしょうか?それとも、違うことを恐れているでしょうか?クリスチャンと呼ばれることを恥ずかしがっていないでしょうか?他の人と違うことを恐れることはかえって、キリストの宝を隠し、かえって、魅力を失います。今日、クリスチャンであることを証しして歩みます。 
  

Thursday, July 4, 2013

信仰の基本技:神様の声を聞いて、行う

使徒行伝11章8節「しかし 私は,『主よ. それはできません. 私はまだ 一度も, きよくない 物や 汚れた 物を 食べたことがありません 』と言いました. 」9節「すると, もう 一度天から 聲がして,『神がきよめた物をきよくないと言ってはならない.』というお答えがありました. 10節「こんなことが三回あって後,全部の物がまた天へ引き 上げられました.   11節「すると, どうでしょう. ちょうどそのとき カイザリヤ から 私のところへ 遣わされた 三人の 人が,私たちのいた 家の前に来ていました.12節そして御霊は私に, ためらわずにその 人たちといっしょに 行くように,と言われました そこで, この六人の兄弟たちも 私に同行して,私たちはその人の家にはいって行きました.」13節「その 人が 私たちに 告げたところによると, 彼は御使いを見ましたが, 御使いは彼の家の中に立って, 『ヨッパに使いをやって, ペテロ と 呼ばれるシモンを招きなさい. 14節「その人があなたとあなたの家にいるすべての人を救うことばを 話してくれます.』と言ったというのです.
信仰の基本は、神様の声を聞いて行うこと、です。そこには、現実に生きて働く神様がおられます。 祈って気分がすっきりしましたから、もういいです、とか宗教的なものでないのです、主は生きておられ、私の人生を治め、変え、導かれる方です。主を体験することが出来るから何と人生は幸福なものになるでしょう、何とエキサイティングなものになることでしょうか?それを邪魔するものなんでしょうか?人間的な経験、論理的な思考形式、進化論的な思考形式、知識、理性、そして何よりも罪です。時に宗教的なかたちや形式だけで、心のないものが邪魔します。神様の心を聞く、知ることがクリスチャンの最高の喜びなのに、時に宗教と言う枠の中で安らぐ時に感知ががおこります。異邦人の人々は救いを待っていたのに、わずかな距離もユダヤ人クリスチャンは宣教することも出来ませんでした。ペテロは自分自身、①神様の声を聞いた証し、②実際に異邦人である彼らが尋ねてきて、彼ら自身も神様の声を聞いてきた証し(ここらへんで分かってもやよさそう)、③伝道し、聖霊が下り、命にいたる悔い改めを受けた、証をします。今日、神様の声を聞いた証しをします。また、人々に神様の声を聞く恵みをSHAREし、教えていきます。
主にあるエキサイティングな日々を体験します。
  
  

Wednesday, July 3, 2013

神様の御わざに反応せよ

使徒行伝10章45節「割礼を受けている信者で, ペテロ といっしょに 來た 人たちは, 異邦人にも聖霊の賜物が 注がれたので 驚いた. 46節「 彼らが異言を話し, 神を 贊美するのを 聞いたからである. そこで ペテロ はこう 言った. 47節「 この 人たちは, 私たちと 同じように, 聖を 受けたのですから, いったいだれが, 水をさし止めて この人たちに バプテスマ を 受けさせないようにすることができましょうか.」 48節「そして, イエス · キリスト の 御名によって バプテスマを受けるように彼らに命じた.彼らは,ペテロに数日間滯在するように願った.
神様は聖霊様を異邦人に下されました。ここで人間的な、民族的な偏見に閉ざされていたイスラエル人に、彼らが救われて聖霊に満たされることを体験、目撃しました。そこで、ペテロは洗礼を受け、神様の家族として歩むことを、イエスの弟子となることを決心させます。神様のみわざがなされた時に、私たちは、人間は素早く反応できるでしょうか?いやいや、洗礼クラスが必要ですとか、聖書のみ言葉を学ばないと(もちろん必要ですが)、と言ってタイミングを逃すことがないでしょうか?今日の主のみ技に素直に、自分の体験や方法を除いて奉仕します。
 
 
  

宣教すると、神様はどんなお方か体験する

使徒行伝10章34節「そこでペテロは,口を開いてこういった. 「これで 私は, はっきりわかりました.神はかたよったことをなさらず, 」35節「どの国の人であっても,神を恐れかしこみ,正義を行なう人なら,神に受け入れられるのです. 」 36節「 神は イエス · キリスト によって,平和を宣べ伝え, イスラエルの子孫にみことばをお 送りになりました. このイエス · キリストはすべての人の主です。
ペテロは言います、「はっきり分かりました」と。ペテロにとって大宣教命令をもらっていても、異邦人伝道は遠い道でした、彼の偏見がありました。しかし、イエスの事を伝える中で(伝えさせられる?!)神様がどのような方であるのか?はっきり分かったのです。彼にとってはイスラエルの神様であったのが、①偏ったことをしない(人と違う、民族優位主義でない)、②すべの主である、③神を恐れ、かしこみ、正義を行う人を受け入れる(逆に言えば、そうでないならイスラエル人でも受け入れない、と言うことです)、④イエス・キリストを送られる(人を送るのは犠牲です、愛があるからです),⑤平和を宣べ伝える、⑥御言葉を教える、⑦イエスに聖霊と力を送り、A良いわざ、B癒し、C悪霊からの自由を与えられました。果たして、私はどれほどイエスを知っているのでしょうか?宣教する中で、体験をするイエスを知っているのでしょうか?今日、主イエスを宣教して行きます。もっと、もっと自分をうちやうぶってイエスを知りたい、主よ導いてください。

  
  

Tuesday, July 2, 2013

証できる人生を歩んでいるか?!

使徒行伝10;22節「すると 彼らはこう 言った. 「百人隊長 コルネリオ という 正しい 人で, 神を 恐れかしこみ,ユダヤの全国民に評判の良い人が,あなたを自分の家にお 招きして, あなたからお話を聞くように, 聖なる 御使いによって 示されました. 」
今日のもう一つのポイントは、コルネリオが評判の良い人であり、素晴らしい信仰者であったことを証しできる人生を歩んでいたことです。①正しい人であった(赴任先で大事なことです)また、難しいことでないでしょうか?仕事先で親切でも、正しい人である強さ、穢れの無さを持つことは大変なことです。見習わないといけない部分です。また、②信仰者として、人生を歩む基準として、神様を恐れること、ココに人間的な恐れでない生き方が感じられます。何よりも、信仰者の証の部分です。③ユダヤの全国民に評判の良い、非常に影響力のある人であったこと、また政治的に難しいこの地域、赴任先で、外国人としても評判の良い人であったことが分かります。なかなかいないのないでしょうか。こういう信徒リーダー、クリスチャンビジネスマン、クリスチャン兵士がいた、というのは素晴らしい証でないでしょうか?何よりも、部下がそのような証できる、自慢の上司でないでしょうか?今日、証しで切る人生を内部でも外部でも出来ることを祈ります。
主よ、クリスチャンリーダーシップを与えてください。

自分のLIMIT超えてこそ神様の御心がなる

使徒行伝10章;19節「ペテロが幻について思い巡らしているとき,御霊が彼にこう言われた.「見なさい.三人の人があなたをたずねて来ています.」 20節「さあ,下に降りて行って,ためらわずに,彼らといっしょに行きなさい.彼らを遣わしたのはわたしです. 」
ペテロにとって異邦人と交わったり、食事をしたりは、律法でゆるされないことでした。しかし、それは 異邦人の意味(神様を知らない、信じない)を超えて、民族的な偏見、変な意味で、自分の価値観になってしまっていました。そんなペテロと異邦人であるコルネリオの両方に神様は幻を見せて、神様の御心を示します。異邦人にイエスが伝えられるなんて、とマタイの福音書28章19-20節に大宣教命令をもらっていながらも、サマリヤさえも行けなかったのです。今日、私が従うべき神様の御心は何でしょうか?自分の超えるべき概念、偏見は何でしょうか?今日、新しいミニストリーをして行こうと思います。神様の御心を確信し続けたペテロ、コルネリオたちのように主の御心が示された時には「ためらわず」進んでいきます。主よ、御心のままにすすみ、止まらせてください。

Monday, July 1, 2013

あなたは覚えられている

使徒行伝10章3節「彼は敬虔な人で, 全家族とともに神を恐れかしこみ,ユダヤの人々に 多くの施しをなし, いつも神に祈りをしていたが, 4節「ある 日の 午後三時ごろ,幻の中で,はっきりと神の御使いを見た.御使いは彼のところに来て 「コルネリオ  」と 呼んだ. 5節「彼は,御使いを見つめていると,恐ろしくなって,「主よ何でしょうか.」と 答えた. すると御使いはこう 言った.「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って,覚えられています .
ユダヤ人以外に、福音から離れていた、遠く離れていた異邦人(神様の御心はそうでありません)に、神様からの幻がありました。それは、「あなたの祈りと施しは」神様の前に覚えられている、という声でした、何と幸いなことでしょうか?私の祈りは主の前に覚えられているでしょうか?いや、覚えられているのです。しかし、神様が覚えてくださることを信じ、熱心に祈り、施し(今風に言うと同じ施しもあると思いますし、愛を注ぐことかと個人的に思いました)そのことを知り、目指して、日ごとの変わらないような現実に向かってチャレンジしているでしょうか?この幻は、同じころにペテロにも与えられました。イスラエル人伝道しても、未だに偏見や、民族的に乗り越えることの出来なかった宣教の壁を使徒のリーダーシップを持っていたペテロに神様は同じころに示されたのです。そのような中で、神様に宣教計画がスタートしたのです。私は、祈りと施しが覚えられていることを思って日ごとに伝道し、牧会しているのでしょうか?また、今日もう一つ黙想したことが、7節「御使いが 彼にこう 語って 立ち 去ると, コルネリオ はそのしもべたちの 中のふたりと, 側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ, 8節「全部のことを 說明してから,彼らを ヨッパへ遣わした.」とあります、コルネリオには「神様のビジョンを全部話す」ことのできる部下が、また敬虔なクリスチャンの兵士がいたのです。私はこのように何でも神様の計画を話し、信頼し、行ってもらうチームを持っているでしょうか? 今日、日ごとの祈り、奉仕、そして神様のチームを作っていきます。