Wednesday, July 27, 2016

特別賛美 ‘私は巡礼者‘(ブロスバンド)- LAジ:ュビリー教会記念礼拝



私は巡礼者、
いつの日か、家に帰る日が来るだろう

暗い世の中、迷わずに、イエスとともに帰ろう

(繰り返し)
私は巡礼者、帰っていくだろう
私を待っている、明るいところへ、
必ず(もうすぐ)帰る、喜びの国へ’
イエスとともに道を歩む

二番
私は巡礼者、迷うけど
イエスが私の救い主、私を導かれる、
栄光のラッパの音を聞くとき
天使が私(のために)を探される

感謝があなたの人生に奇跡を起こす 第一テサロニケ5;16-18LAジュビリー教会 牧師 北野実



5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

ローマ9章19-24節 憐れみを受けた器,私:LAジュビリー教会 映像改定版 牧師 北野実



9:19 すると、あなたはこう言うでしょう。「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」9:20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。9:21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。9:22 ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。9:23 それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。9:24 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

ローマ人への手紙11章11-16節、人の失敗も神様の手にあると祝福になる LAジュビリー教会 北野実 (



11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。11:12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。11:13 そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。11:14 そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。11:15 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

ローマ人へ手の手紙11章1-10節 私が救われた、私が! LAジュビリー教会 牧師北野実



11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。
11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。11:6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。11:7 では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです。
11:8 こう書かれているとおりです。「神は、彼らに鈍い心と見えない目と聞こえない耳を与えられた。今日に至るまで。」11:9 ダビデもこう言います。「彼らの食卓は、彼らにとってわなとなり、網となり、つまずきとなり、報いとなれ。11:10 その目はくらんで見えなくなり、その背はいつまでもかがんでおれ。」

ローマ人の手紙12章14-21節:善を持って悪に打ち勝て祝福する LAジュビリー教会 北野実



12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

:愛を持って奉仕すると神様のことがおこる ローマ12章9-13節 Laジュビリー教会 牧師 北野実



12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

恵みのとおりに仕えましょう ローマ人への手紙12章3-8節 LAジュビリー教会 牧師 北野実



12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

私の心のチャンネルをイエスにあわせよ ローマ人への手紙12章1-2節 LAジュビリー教会 牧師 北野実



12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい

ローマ人への手紙11章30-36節 神様の奥義を知った人は賛美する LAジュビリー教会 牧師 北野実



11:30 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、

11:31 彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

11:32 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
11:35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ローマ人へ手紙12章1節、礼拝が生き方になる人生 LAジュビリー教会 牧師Kitano Minoru北野実




12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

LAジュビリー教会 牧師:北野実:ローマ人への手紙11章25-28節 神様の秘密を知る人は



11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。11:27 これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」11:28 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。
 

命の接木につながわれた私たち ローマ11章16-24節 LAジュビリー教会 北野実



11:16 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。11:24 もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

プライドを置くときに出会うイエス・キリスト マタイの福音書9章18-26節 LAジュビリー教会 牧師 北野実

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9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」9:19 イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。9:20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。9:21 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。9:22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。9:23 イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、9:24 言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。9:25 イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。9:26 このうわさはその地方全体に広まった。

Friday, July 15, 2016

任せられる人を育てる祝福、PART2

1:1 長老から、愛するガイオへ。私はあなたをほんとうに愛しています
1:2 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。1:3 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。1:4 私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。1:5 愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっているいろいろなことは、真実な行ないです。
1:6 彼らは教会の集まりであなたの愛についてあかししました。あなたが神にふさわしいしかたで彼らを次の旅に送り出してくれるなら、それはりっぱなことです。
1:7 彼らは御名のために出て行きました。異邦人からは何も受けていません。
1:8 ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。
  今日のテーマは、任せられる人を育てるです。使徒ヨハネは、ガイオという人に向かってヨハネの手紙第三を書きます。リビングライフの解説にも出てきますが、一人の人が福音を聞いて救われることは福音伝道者には大きな喜びです。しかし、更なる喜びは、その霊的に生まれ変わった子供が、真理に歩み、さらに次の人へ福音を伝える人になることです。今日でてくるガイオは、まさにそういう人で、福音ために旅(迫害のため町や国から追い出されたり、福音を伝えるために出て行ったり)をしている「教会の兄弟」をもてなし、宣教師の人々を送り出し、サポートし、真実な行いをして生きるようになっていました。これを聞いたヨハネはどれほどの喜び、やりがいを感じたことでしょう。人を育てることは難しいことです。まして、任せられる人を育てることはどれほどのことでしょう。自分がやったほうが早いし、気も使わずにすみます。人と作業すると口も挟みたくなります。しかし、神様の国は同労することです、協同です。オンヌリ教会のハ・ヨンジョ牧師がまさに任せることをされていました。私も人を育てること、任せることチャレンジしていきます。

自分の力でした、と勘違いするな!と聖絶(ヨシュア7;1-9)「これくらいばれないさ」

7:1 しかしイスラエルのらは、聖絶のもののことでユダ部族のゼラフのザブディのであるカルミのアカンが、聖絶のもののいくらかをったそこで、主りはイスラエルかってがった
7:2 ヨシュアはエリコからアイへ数人わし、「上ってってあの土地じたアイはベテルの東、ベト・アベンのくにあった。彼らはってってアイを7:3 ヨシュアのもとにってった。「アイをつのに全軍出撃するにはびません。二、三千人けばいいでしょう。取るにりぬ相手ですから、全軍をつぎむことはありません。」
今日のテーマは、①聖絶と②自分の力でした、できる、という高慢についてです。イスラエルの民は、1節「聖絶のことで罪を犯した、」とあります。聖絶とは、一部でも残したら聖絶でありません。一人でも聖絶をしないなら、少しでもしたのなら、聖く絶滅しませんから、聖滅でありません。それは、主の言葉への不従順です。また、聖絶しても100倍の千倍の、万倍の祝福を下さることを信じないことです。また、これくらいなら、自分ひとりくらいなら隠せる、という神様への不信、侮る態度です。罪への影響力への侮る態度、です。全員で守るべき聖絶をアカンがしなかったためにイスラエル全体に主の怒りが燃え上がりました。そして、もうひとつ、エリコを神様の奇跡で攻め落としたのに、AIを攻めるときには偵察を送るだけにします(人間的にはそれだけ十分ですが、)。神様に伺わずに、偵察の「2,3千人が行けばいい、取るに足りぬ相手」ということで自分たち、人間だけで決定して行動します。イスラエルは信仰共同体です。神様と聞いて話して決める共同体です。それは、自分がした、自分でこれくらいならできるだろう、という高慢です。そのために、大きな敗北をします。それは、エリコを征服したと思えない決定的な恐れ、挫折を持ってきました。このAIという町は、城は人数は少なくても、難攻不落の要塞であったことをONNURI教会のSEEKER SERVICEで聞いた覚えがあります、ここで、ヨシュアと長老たちは主のまえに悔い改めと、なぜこのようなことになったのか?聞くようにします。回復のために必要な態度です。大事な姿勢です。それにしても、わずかエリコの勝利の後に、人の目には小さいAIの敗北により、これほどまでに倒れるイスラエルはどうでしょうか。それは、人に頼る人の特徴です。成功には強くても、失敗、挫折には無残に倒れていき、人々はなれていきます。今日、これくらいばれないさ、という罪からはなれます、また共同体の与える影響力を考え、罪を犯させない霊的な緊張感、きよさ、指導をしていきます。また、主の奇跡によって生かされることを感謝します、また、高慢になるときには、主の前にでる回復を求めていきます。まずは、主に聞く、祈りをします。


 

Thursday, July 14, 2016

今日、主のみ言葉を100%実践せよ

6:16 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。
6:17 この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。6:18 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。6:19 ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」
みことばをそのまま行うときに、JERCHOの城壁は崩れる(ヨシュア6;15-27
イスラエルの民たちは、7日目に町を7度回り、ときの声を上げました。それは、「主がこの町をあなたがたに与え下さったからです」神様の民は、主の約束を宣言しました。
今日の聖書箇所で、イスラエルの民は、3つの言葉を守り、行います。①それは、町を7ど守り、「主が下さった」ことをSHOUTして、宣言したことです。それは、意すら得宇野民がしたことは何もありません、ただ6日間まわり、7日目に7度回り、叫んだだけです、しかし、主は信仰の従順に奇跡を起こされました。今朝、祈ります。→主よ、この信仰を私に与えてください、このTORRANCE,SOUTH BAYを与えてください。②そして、信仰を持って斥候をかくまい、助けた遊女ラハブと家族を守り、救ったことです。それは真実に誓いを守ることであり、何よりも、どのような罪びとさえも神様の前に頼るものは救われる、というメッセージです。今日、どんな出会いでも、イエスの救いを伝えます、自分の偏見でなくて、救いを伝えます。また、自分を助けてくださった人々にイエスの愛を伝えます、感謝して、その誠実な態度をもちます。③聖絶、というテーマが出てきますが、それは、経済的には略奪は古代中近東だけでなくて、戦争では大きな収穫、でした。それを捨てるのは非常に大きな損失とこの世の人は考えるでしょう。しかし、主の前に聖絶するなら、その百倍、千倍、万倍が与えられることを信じます。この聖絶は、悪い影響、罪の影響をいれてはいけない、ということです。それは、どこから入ってくるでしょうか?お金、経済的なこと、から入ってきます。お金、経済のこと自体は悪いことでありません、しかし、その生業を通してサタンの誘惑、罪はやってきます。また、文化を通して入ってきます、文化が悪いものでありません。文化自体悪ければ、わかりやすいでしょう、しかし、そうでないものを通して、徐々に影響を与えます。主は主の宮への礼拝以外に、影響を与えないもの意外とられませんでした。そこに、イスラエルの民は100%従順しました、全員がしたわけです。きょう、私が聖絶すべきことは、捨てるべきことは何でしょうか、主に喜ばれないもの、音楽、文化をすてます。おきます。このわざは、ヨシュアをうわさにしました、主ともにいるからです、今日、主とともにいます。主のみ言葉に従います、そこに主の勝利、祝福があることを信じます、アーメン、ハレルヤ!

私のJERCHO MARCH AROUND THE CITYをせよ(ヨシュア6;1-14)

6:2 はヨシュアにせられた。「見わたしはエリコとその王、および勇士たちをあなたのした6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを。町周囲一度回、六日、そのようにせよ
6:4 七人祭司たちが、七つの雄羊角笛って、箱、七日目には、七度町、祭司たちは角笛らさなければならない
6:5 祭司たちが雄羊角笛らしあなたがたがその角笛いたなら、民はみな、大声でときのをあげなければならない。町城壁がくずれちたなら、民はおのおのまっすぐってかなければならない。」
主なる神様は、①エリコの王と勇士たち、を渡した、と約束され、宣言されます。しかし、それは自動的にくるものでなくて、②町の周囲を6日間、1週回り、7日目に祭司たちがお羊の角笛を吹き鳴らすときに、城壁が崩れ落ち、そこで攻めいりなさい、ということでした。今日のリビングライフのテーマは、理性と常識を超えていても、信仰によって従います、でした。確かに、ありえない戦闘、戦術です、世の中では、笑いものです。しかし、これが神様の戦いです。よく見ると、この戦いですることは神様の奇跡だけです、イスラエルの人々がするのは、ただ従順です。今日のKEYは、主の臨在の中で、主の約束を持ってついていく、従う、ということです。黙想しました、以前にこの聖書を読んで町の霊を勝ち取るために、回って祈ることが、賛美することが必要といわれました。それもそうかもしれません、また昔、大学伝道をしていた先輩が毎日6回祈りながら、1周した
という話をしました。最後の7日目はバイクで回った、そうです(意味ないじゃん?!)。今日、私なりに黙想したことは、①神様の御心なら、主について、②理性と常識を外れても、神様に従うべき、だということです。また、6日間回ったイスラエルの人々はどう思ったことでしょうか?何も起こらなかったら、と思わなかったでしょうか?また、回りながら途中で何か、心配やふとした、軽い疑いは起こらなかっただろうか?と思いました。私なら、ありえるかも?と思いました。思わされました。人は、自分も含めて何か行動すること、何か結果を求めて、すぐに行動できない、結果の出ないことをするのは難しい、ということです。今朝も、ずっと、リバイバルを祈り続けて(昨日は、すばらしいことが2回もありました)なかなか、目に見える結果がいつも(2,日に一度は必ずあるのですが)あるわけでない時に、落ち込みます。しかし、リバイバルのために目に見えない、行動として見えにくい、主の働きをしていきます、従順をしていきます。私のJERCHO WALIKING<MARCHの適用をしていきます。今日、主のリバイバルのために、6日まちのまわりを歩みます、その6日がなければ、7日目のJERCHOの城壁がCOLLASPEDされないのす。今日、主に期待して奉仕します。

勝負は、聖さにかかっている(ヨシュア5;10-15)

5:10 イスラエルギルガルに宿営しているときその十四日夕方、エリコの草原らは過越のいけにえをささげた
5:11 過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその産物、「種れないパン、炒べたそののうちであった。5:13 さてヨシュアがエリコのくにいたとき、彼げてると、見ひとりのって、彼前方っていたヨシュアはそののところへって、言った。「あなたは、私たちの味方ですかそれともたちのなのですか。」5:14 するとった。「いやわたしはとして、今、来たのだ。」そこでヨシュアはにつけて、彼った。「わが、何をそのしもべにげられるのですか。」
5:15 すると、主はヨシュアにった。「あなたののはきものをあなたのっている場所なるである。」そこでヨシュアはそのようにした
 主は、戦いの前に①イスラエルのために、「過ぎ越しの祭り」と「種無しのパン」をたべさせます、それは、主にある救いを記念し、購いを覚えるときです。いよいよ、約束の地の前まで来たときに、入ったときに、エジプトから救い出された神様、を覚えます。また、種無しのパンは混ざっていないこと、純粋、きよさを意味します。イスラエルの民たちは、約束の地に入った瞬間に、神様の救いときよさを思わされたことでしょう。霊的な戦いは、神様の関係にかかっています。それは、聖さです。自我や罪との関係を切れて、主にある聖さの関係にあるかどうか?です。また、②ヨシュアに主の軍の将が現れます。そこで、ヨシュアは礼拝します。主に言われるように「聖なる場所」として自分の足の履物を脱ぎます。霊的な戦いの勝負は、聖さです、神様とわたしの関係がどうかなのです!神様を礼拝し、自分の自我を否定して、罪からの清めの中で、主の心、願いを行うかどうか?です。多くの人が、私も、わかっていても、先に行動することがどれほど多いことでしょうか?結果を先に求めることがどれほどあることでしょうか?しかし、勝利の秘訣は、神様の出会い、関係にかかっています、今日、主の前に関係を優先にしていきます。自分自も、早く結果、行動を求めることがあります。早く行動しないと、結果に関連しないと窮屈に感じます。しかし、まず主の礼拝、出会い、ヨシュアに主から出会ってくださったように、主の出会い、「私の足の履物をぬぐ」主の臨在される場所で生きて生きます。種の出会いの中で、奉仕します、主の出会いなしに、CALLLINGなしにいくのは、奉仕するのは意味がありません。今日、主の出会いの中で、使えます。主の出会いを求めます。主の臨在の中でつかえます。


戦闘の前に割礼を受けさせる神様(ヨシュア5;1-9)

5:1 ヨルダン西側にいるアモリたちと、沿岸地方にいるカナンたちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダンらして、彼らをらせたといて、心もはやイスラエルの人々かおうとするはいなかった
5:2 そのとき、主はヨシュアに、火打刃物もう一度イスラエルの人々割礼とおじになった
イスラエルの民がヨルダン川の乾いた地を渡ったことを聞いて、エモリ人、カナン人のすべての王たちはこころがしなえ、勇気がなくなった、とあります。普通の戦闘ならここで、一気に攻めわたりますが、戦のチャンスです!しかし、主なる神様はそうされません、それは、戦闘を前にして、何の?なんと、割礼を受けさせることでした、それは、戦闘を前に危険な行為もでもありました、割礼を受けた後に、攻撃されたら大変なことになります、無防備状態です。なぜ、神様は割礼を受けさせたのでしょうか?①霊的な戦いにおいて聖さが必要だからです、②カナンの約束の地に入るのに主の民として区別される必要があるからです。でないと、単なる同化、略奪する戦略戦争です、侵略になります。③神様の民として区別されて、主の声に聞き従う必要があります。エジプトから奴隷から解放されて、神様に導かれたはずの第一の、先祖の世代は、荒野で神様の声を聞かなかったために、全部が死に絶えました。しかし、イスラエルの次世代は、主の声にに聞き従い、先祖が恐れた同じ相手に立ち向かうことになります。しかし、そのKEYは主のみ声に聞き従う、でした。第一世代も出会ったカナンの民たちは同じ相手なのに、40年前は「巨人のように見え、ネフィリムのようにみえ、自分たちをイナゴのように見られる」民数12;40年後は、今度は相手がイスラエルを恐れます。今日、主の働きをする前に、主の約束の地へ進む前に、奉仕をする前に、主にある割礼を霊的に適用して、①自分自身をきよめます、罪からきよめます。②主との関係がきよいなかで、イエス・キリストの十字架の清めにより頼り、歩み、使え、奉仕します。

乾いた地を渡らせる神様(ヨシュア4;15-24)

4:10 をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアにじてげさせたことがすべてわるまでヨルダン真中っていたすべてモーセがヨシュアにじたとおりであるそのいでった
4:15 がヨシュアに4:16 あかしのをかつぐ祭司たちにじてヨルダンからがってさせよ。」せられたとき
4:17 ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダンからがってなさい。」じた
4:18 契約をかつぐ祭司たちがヨルダン真中からがって、祭司たちのかわいたがったときヨルダンはもとのって、以前のようにそのいっぱいになった
神様は、契約の箱を背負った祭司たちがずっと立ち続けてことを通して、奇跡をなされます。信仰は、神様の能力を受ける、流す、ものです。信仰自体が変な力ではなくて、また、信仰は神様に与えられたものです。今日、心に留まったことは、①祭司はずっとイスラエルの民が渡りきるまで立ち続けた、ということです、それは、霊的な責任を意味します、主が上がれ、といわれるまで、自分勝手な判断でなくて、とどまり続けないといけなかったのです。水が止まった、と勝手に盛り上がって一気にわたったのでなくて、主に言われるまでたち続けました、それは、もしかしてきつい時間だったかもしれません、長く待つことであったかもしれません、しかし、祭司たちは霊的な祝福、を一番受ける中で、奇跡を一番に体験する中、同時に責任があります。今日、霊的な責任という重荷を持って使えます。弱い、不足な私を助けてください。また、②また、この奇跡は、すべてが主のなされたことです、それは、主の契約の箱がとどまり続ける中、主権は主にあります。また、何よりも、絶対的に驚くことは「乾いた地を渡る」ということです。黙想しました、それは、川底のどろどろ、粘土質でも、岩があるところでなくて、かわいたちをわたるとは、主の絶対的な主権にある奇跡です。主が、私の人生を、教会を乾いた知をわたらせることを信じます、体験します。また、主にある祭司、仕えるものとして、主が上がれというまでつかえる、霊的な責任ある奉仕をします、アーメン。

神様の記念日を覚えよ、あなたの霊的な記念日を作り、伝えよ、(ヨシュア4;1-14

4:5 ヨシュアはらにった。「ヨルダン真中あなたがたの神、主ってってイスラエルのらの部族うように、各自、石一つずつを背負ってなさい4:6 それがあなたがたのしるしとなるためである。後になってあなたがたのどもたちが、『これらのはあなたがたにとってどういうものなのですか。』いたなら4:7 あなたがたはらにわなければならない。『ヨルダン、主契約でせきとめられた。箱がヨルダンるときヨルダンがせきとめられたこれらの永久にイスラエル記念なのだ。』」
イスラエルの民が、ヨルダン川を渡った後で、神様は記念の石を置くように言われます。それは、霊的な記念日を作れ、ということです。個人の中で、家族の中で、神様が私にこのようなことをなされた、という記念日、どれほど持っているでしょうか?次世代に信仰の記念碑を、遺産を引き続け、そのメッセージを語り継げよ、といわれたのです。
今はSUNDAY SCHOOL休んでいますが、日本語礼拝として次の世代に信仰を、ビジョンを継承していきます。忘れて、自分でやった、当たり前であった、にならないように
高慢にならないようにされるのです。思えば、アメリカに来るときに、R_VISA,EXTENSION,永住権、車、何も持ってこなかった、私を、私たちを主は祝福してくださいました。教会、という場所、メンバー、伝道する方々、出会い、友人をくださいました。私たちはどれほど、感謝を忘れずにしているでしょう、祈りをして、祈りが答えられたら、メモもせずに、祈りのノートを作っている人が、祈りをした日、答えられた日、祈りの答えを書いて、感謝を忘れないようにしている、と話してくれました。今日、感謝の記念日を過ごします、霊的な記念日に礼拝をささげます。霊的な日記に感謝と主の働きの日を記録し、あかしし、主に感謝を’伝えます。

私たちの神様への最高の信頼の表現である従順(ヨシュア3;9-17)

3:9 ヨシュアはイスラエルった。「ここにづきあなたがたの神、主のことばをきなさい。」
3:15 をかつぐがヨルダンまで、箱をかつぐ祭司たちのぎわにったとき――ヨルダンれの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
3:16 からはつっってはるかかなたのツァレタンのそばにあるアダムのところでせきをなしてアラバの海、すなわちのほうに完全にせきとめられた。民はエリコにするところをった
3:17 契約をかつぐ祭司たちがヨルダン真中のかわいたにしっかりとつうちにイスラエル全体かわいたついにはすべてヨルダンわった
ヨシュアとイスラエルの民たちが、ヨルダン川を渡る前にまず、「神様の声を聞かせます」昨日の、QT聖書箇所であるように「神様の奇跡」を聞き、そして今日は「神様の奇跡を体験」します、目撃します。それは、イスラエルの民たちが、①何をすべきか?(12人の部族の代表を選び、祭司たちが先頭になって契約の箱を担ぎ、それについていく)ことでした。それは、はっきり言って、イスラエルの民がすることはありません。すべきことは、信頼して従順すること、だけです。しかし、これが人間には難しいことです、敵には、馬鹿なことをしている、神様を信じていない人にはあざ笑いだったでしょう。しかし、イスラエルの民が従順すべきことをしたときに、奇跡は体験されます。②何をなされるべきか?(神様が!)奇跡、不思議、AMAZINGを約束として、与えることです。それは、これからのカナンの地を得に行くのは、約束の奇跡でした。信じて進む、ことです。
奇跡を体験したイスラエルの民たちは、どう思ったでしょう?どう、感じたことでしょうか?神様の言われたことを信じたら、従順したら、人は馬鹿にしても、半信半疑だったとしても、私たちも、神様の不思議を体験した、AMAZINGをいま生きている、興奮したことでしょう。また、ここには、葦の海を渡ってきた奇跡を体験したのはヨシュア、カレブ、だけで、それ以外の前の世代はすでに荒野で死んでしまったために、新世代しかいなかったのです。また、祭司たちはすべての民がわたるまでずっと、霊的なリーダーとして川の中に立ち続けたのです。それは、霊的な責任です。リーダーのみができる祝福、それは責任を伴います。また、ヨルダン川の水は祭司が川の中に立つまで、止まらなかったんです、それは、信頼を持って従順をするときに起こります、もう少し早く起こったら、楽なのに、と思いますが、それでは、信仰は必要ありません。今日、主を信頼して従順していきます。
 

リーダーシップを再度、強める神様(ヨシュア3;7

3:7 主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。
ヨシュアに、神様はモーセと同じようにともにいる、あなたを大いなるものにする、と予言され、宣言されます。それは、偉大な指導者、長く奉仕をしたモーセに比べて、ヨシュアの足りない部分、恐れ、また周りの人々の批判、非難、疑いを取り除き、神様の約束の地へ入れるリーダーシップの確立でした。それは、主の栄光のためでした。今朝、私の足りない部分、リーダーシップを祈り求めます。こういうことを祈るのは、非常に苦手でしたが、主の栄光のために、主の願いのために、御心がなされるために祈ります。私の足りないことで、主の御心がならないことがあってはいけないからです、高慢になるのでなくて、主の栄光のためだけに、主のみ心のなされるために、主が足りないもの、私を、立てるのであれば、用いてください、大いなる主の働きを足りないものにさせてくださいませんか、させてください。祈ります、主の栄光のためのリーダーにしてくださることを祈って。

あなたの行ったことのない道を先に歩まれる神様(ヨシュア3;1-8)

 3:3 じてった。「あなたがたはあなたがたの神、主契約見、レビ祭司たちがそれをかついでいるのをたならあなたがたのいるってそのうしろをまなければならない3:4 あなたがたととのには、約二千キュビトの距離をおかなければならないそれにづいてはならないそれはあなたがたのくべきるためであるあなたがたは、今までこのったことがないからだ。」
3:5 ヨシュアはった。「あなたがたのをきよめなさいあす、主あなたがたのうちで不思議なわれるから。」
ヨシュアは、ヨルダン川を前にして3日間とどまりました。それは、ヨルダン川を渡らないといけない問題があったからです。戦闘をする前に、難しい問題がありました。そこに、不思議な神様の言葉があります。神様の契約の箱を先頭にして進むようにいわれます。先頭には、祭司たちがすすみ、リーバイツがかつでいるのみたら、後ろを進みなさい、といわれます。戦争を前にして、戦士や川を渡る前の準備をする人々でなくて、祭司とリーバイツという宗教の働きを(いい意味で、神様と人の間のとりなしをする人)する人が、前に立つのです。戦闘放棄、といわれてもおかしくありません。しかし、これこそイスラエルの戦い方です、クリスチャンの戦い方、生き方です。神様の臨在が先にあり、神様の約束の言葉、契約の言葉(荒野で受けた契約)、を先にしてこそ、神様の約束の地が与えられます。私たちは、自分の力で何とかしようとしがちです。しかし、まずは神様の臨在と、約束の言葉、導きが先にあってこそ、すすめ、道が開かれるのです。行ったことのない道、体験したことのない人生は、恐れがあります。そういう時にこそ、私たちは具体的な助け、力を準備しがちです(それ自体が悪いものでありません)しかし、主が私の前に行かれることなしにヨルダン川に何も、「不思議:AMAZING」は起こりません。今日の聖書箇所では、いまだに何も起こっていません、ただ神様の約束、奇跡をなす、という言葉があるだけです。明日、何が起こるのか?私たちは具体的に知りたがります。しかし、今日の聖書のみ言葉だけで十分なのです。信じて、進むときに、神様の奇跡がまっています、私たちの想像できないAMAZINGが待っているのです。今日、主のみ言葉を信じて進み、準備して、歩みます、私の中にAMAZING,不思議をなされる、私の主なる神様に期待して。

Friday, July 8, 2016

信仰のサイン、赤いひも、あわれみを求めるところに救いがくる)ヨシュア2;15-24

2:18 たちがこのにはいってたならあなたは、私たちをつりろしたこのいひもをびつけておかなければならないまたあなたの母、兄弟、またあなたの家族全部、あなたのめておかなければならない
2:19 あなたの戸口からがあればそのはその者自身のこうべにする。私たちはいからかれるしかしあなたといっしょににいるをかけるならそのたちのこうべにする
2:20 だがもしあなたがたちのこのことをしゃべるならあなたがたちにわせたあなたのいからたちはかれる。」
2:21 ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。
​ヨシュアの出した斥候は、遊女ラハブの家に隠され、また逃亡して戻る方法まで教えられます。ラハブが身の危険まで冒して彼らをかくまったのは、イスラエルの神様がまことの’神様であること信じる以外にありませんでした。神様は神様を恐れて、信仰を持って救い求める人には、哀れみを持って救われます、遊女だったラハブ、そしてその家族までも、救われる神様、です。問題は何でしょうか?それは、罪を認めて、悔い改めないところにあります。ラハブはそうしました。救いのチャンスはある時間までです。エリコの人々は、イスラエルが来ることを聞いて恐れていたのに、悔い改めたのはラハブだけ(もしくは家族だけ)、だったのです。素直に悔い改めるときに悔い改める祝福をつかむことを祈ります。また、ヨシュア記を読みながら、なぜ、約束の地にイスラエルが入る前に異邦人の遊女ラハブ、この話が挿入されているのであろう、と思いました。それは、神様は単純に血統のみの(それも大事ですが)民族主義的なイスラエルの救いのみならず、罪びとを救いたい、異邦人をも救いたい、イスラエルの神様を信じる、イスラエルの民に加わるものを救いたい、と思われるのです。旧約聖書の世界宣教のメッセージです。神様は、信仰を持った神様の民を探しておられます。救ってくださいます。そこに、ヨシュアの送った斥候たちも。与えられた恵みに反応します。あわれみを求めるものに真実を尽くします。そこに、約束のサインとして「赤いひも」をつけるようにいいます。今日、神様の哀れみのサインを持って歩みます、あわれみの心を持って誠実に、真実を尽くします。反応するのは、相手次第です。私のすべきことはあわれみの心を持って誠実を尽くすことが私の仕事です。ラハブと家族が外に出たら、それは彼らの責任だったからです。主の前に誠実に、あわれみの心を持てるようにしてください。

Thursday, July 7, 2016

準備せよ、(ヨシュア2;1-14)

2:1 ヌンのヨシュアはシティムからひそかにふたりの斥候としてわして、言った。「行ってあのとエリコを偵察しなさい。」彼らはってラハブという遊女にはいりそこにまった
2:9 そのたちにった。「主がこのをあなたがたにえておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖われておりこの住民もみなあなたがたのことでえおののいていることを、私っています
2:10 あなたがたがエジプトからられたとき、主があなたがたの、葦をからされたことまたあなたがたがヨルダンこうにいたエモリのふたりのシホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちはいているからです
2:11 たちはそれをいたときあなたがたのために、心がしなえてもうだれにも、勇気がなくなってしまいましたあなたがたの神、主、上天、下においてであられるからです
2:12 どうか、私があなたがたに真実くしたようにあなたがたもまた真実くすと、今、主にかけてってくださいそして、私かな証拠さい
ヨシュアは、斥候を先に送ります。ヨシュアは、神様の下さる地を無作戦に攻めるのでなくて、準備をして、状況を求めます、情報を得て判断しようとします。、戦争において情報は金です。ヨシュアは準備をします。今日、主にある準備をして1週間を計画、奉仕、行動します。また、ヨシュアの送った斥候を遊女ラハブ待っていました。彼女はが信仰を持って彼ら斥候をかくまってくれ、助けました。それは、神様の用意された人でした。彼女は、40年前に神様がエジプトでパロにした軌跡を通して、主なる神様が天にも地にぽいて神様、であることを告白しました。そして、聖絶の意味も知り、主を恐れることを知っていました。彼女は、そこで斥候をかくまったのです。どこでも、神様である方を、主を恐れる人を、神様を知る人、信じる人、恐れる人を主は救い出されます。罪をひとつも受け入れない神様ですが、罪びとを愛し、救われる神様です、死にいたる罪以外は救われる方です。
また、主はヨシュアの準備に、期待以上に答える方です、聖書でギデオンの送った斥候の話もありますが、かえってイスラエルが敵国に恐れられる話で勝利を敵さえも予言するはなしで終わります。それは、神様が折られる、神様が偉大な方であるからです、今日、主にある勝利を期待して準備していきます。