Saturday, January 31, 2015

どうしても聞いて欲しい!SHOUT TO THE NORTH AND SOUTH(ヨハネの福音書7;37-52)

どうしても聞いて欲しい!SHOUT TO THE NORTH AND SOUTH(ヨハネの福音書7;37-52)さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』人が大声を上げる時はどんな時でしょうか?まして、祭りの中で自らを高めて、宣伝するためでなくて、主の栄光のために、人にマニュピュレートされない方がされた方が、『立って、大声を上げた』のは、どうしても聞いて欲しい、どうしても伝えたい、非常事態、である。今でしか伝えれない、ことがあるのでないでしょうか!?それは、イエスを信じて、命の水の川が流れるように願うことです、魂を愛して、人を愛して、私を愛してこられたイエスの関心は、情熱は、魂の救いでした。(Q)私は、このようにイエスの愛を宣言しているのでしょうか?大胆に宣言しているのでしょうか?(Q-2)日ごとに、イエスから命の水を飲んでいるのでしょうか?渇いていないでしょうか?日ごとにイエスの水を飲むなら、聖霊に満たされるなら、イエスの愛を伝えずに入れません。日ごとに再生産が起こるはずです!今日、主イエスの愛を、明日も、叫んでいきます。EVERY DAY!主イエスのために生きます。
 

Friday, January 30, 2015

STOP TO GRUMBLE(ヨハネの福音書6章41-51節)41節「ユダヤ人たちは、イエスは私は天から下ってきたパンである、と言われたので、イエスについてつぶやいていた」イエスについて理屈を言ったり、偏見を言ったり、して神様の預言者の書を知りながらも、多くのユダヤ人たちがイエスが来られたのに、信じませんでした。それどころか、イエスについてつぶやき、迫害するようになりました、旧約聖書の預言を神様によって教えられるなら、NTの預言の成就であるメシアなるイエス・キリストが今現実におられるのを分かるはずです。イエスの教え、生き方、行動を見れば分かるのに、つぶやいたのです。47節「信じるものは永遠のいのちを持ちます」、と言われたイエスは 48節「いのちのパン」でした。神様が私たちを救うために、イエスを使わされたのです。神様を見たことがない私たちに見ることができるように、イエスは人間になられたのです。こう考えると、現在の私たちがイエスを見たことがない、とか、目で見える神様って言う議論が馬鹿らしくなります。彼らは見ていたのに、信じず、拒否し、迫害して、つぶやいたのですから。さて、神様は神の分からない私たちのために、イエスを送ってくださり、愛の分からない私のために愛であるイエスを人生をもって示してくださいました、何という愛でしょうか。今朝、イエスの愛を持って歩みます。また、自分がつぶやかずにイエスご自信を見るようにします。イエス様だけ満足であることを告白します。日ごとに、いのちのパンであるイエスをいただきます!満たされ、あふれることを信じ、告白し、宣言します
 

PUTTING GOD IN YOUR BOX(ヨハネの福音書7;25-36)

PUTTING GOD IN YOUR BOX(ヨハネの福音書7;25-36)群集のうちの多くの者がイエスを信じて言った。キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」31節、議員たち、祭司長たち、パリサイ人は「イエスを捕らえようとしました」また、殺そうとさえしました。そこに出てくるのは『ひそひそと話し合う』です。逆に、イエスは26節「公然と語っている」のです。主の心を行う人は恐れがありません。不信と脅かしの中で神様の心を宣言します。しかし、権力を持ちながらも、お金を持ちながらも、悪巧みの中にいる人は、罪の中にいる人は、(たとえ、それが宗教の中にいても)恐れ、隠れ、暗闇の中にいます。かえって、群集たちがイエスのことを見て、メシアだろうか、と考え、しるし(神様であることを示すサイン)をみて、これ以上の人がいるだろうか?と思い、イエスを信じていったのです。ところが、一番旧約性を知っているはずの宗教学者たちが、律法を一番生活の中で適用した人々が、イエスを見てわからなかったのです、というよりも、かえって迫害し、拒否する筆頭だったのです。私たちはどうでしょうか?宗教学者のようでなくても、イエスを迫害しなくても、①私の考えているイエス、神様を小さい箱に押し込めていないでしょうか?もっと、偉大な神様なのに、自分の考えに押し込めて、主が働きをされないようにしていないでしょうか?②環境が難しくて、大変な攻撃に、つかれていないでしょうか。その中でも、主なる神様は働いてくださるのに、もう無理だとか、神様の働きを期待しない、私の小さい考えに押し込めていないでしょうか?今日、手イエスにある大胆さを持って、主の心を行っていきます。もっと、すばらしい主の心を体験していきます(というか、体験しました!)ハレルヤ!

Thursday, January 29, 2015

イエスを第一にしているか?が行動の判断基準(ヨハネの福音書7章14-24節)

イエスを第一にしているか?が行動の判断基準(ヨハネの福音書7章14-24節)今日は、家の教会の学び、交わりがあり、UP DATEが遅れました。そこでも、本当に素敵なことがありました。祈りの課題が答えられれたり、ハレルヤ!さて、今日のQTですが17節「誰でも神の御心を行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、私が自分から語っているのかが分かります。」18節「自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません」イエスは、神の子であるにもかかわらず、自分の栄光を求めたり、自分の利己心で動いたり、自分のことを語ろうとしませんでした。自己のことでなくて、神様のことだけを語りました!私たちはどうででしょうか?神様のことも語りながら、自分のことも話したり、自分が労をとったとか、混ぜ物をしていないでしょうか?大切なことは、①自分から出ているのか?②知識でなくて、人から聞いた話でなくて、神様から、聖書から聖霊により交わり、聞いたことだけを語り、行うのか?です。そこに、神様の国の広がりがあります。自分の国を、自分の一国1城のあるしになるために、クリスチャンは生きるのでありません。神様の心を行い、それを通して、神様の国を広げていきます。神様の国は、壁がありません。どこまでも、OPENです。なぜなら、神様の無限の愛で愛されているから、下手に守りに入ったり、恐れて壁を作る必要がないからです。今日、主の御心を行うために、純粋に求めます。そのために、まず悔い改めます。もともと、人間には罪があります。自分に栄光を返したい、欲望があります。主の前に悔い改めて、自分をおいていき、もっと、神様を体験していきます。イエスの栄光のために、いや自分とか関係なく、どうでもよく、イエスの栄光を喜んで生きます。
 

ジュビリー教会セミナー 北野実牧師 良い指導者になるために 金ソンシック牧師先生 ジュビリー教会セミナー



ジュビリー教会指導者訓練
指導者とは?

良い指導者になる10戒
1.  人格が良い人.
     * 謙遜な人
     * 言葉と行いが一致している人


2. 従順な人.
15:22 するとサムエルはった。「うことほどに、のいけにえや、そののいけにえをばれるだろうか。よ。うことは、いけにえにまさり、けることは、雄羊脂肪にまさる(第一サムエル15:22)
ハンセンにかかったナアマン将軍、ヨルダン川で体を洗う


3. 尊敬される人.
言葉と行いに信頼されるほどの人でないといけない
パウロとバルナバはアンテオケ教会で信頼された
·        
良いご主人
·        
良い父親
·        
良い指導者になれる

4. 長所を知って発展させる(成長していく?).
Gallup 調査によると 130万名を対象にした調査
20%が自分の強い部分(長所)知っている。 
1.5%
だけが 強い部分(長所) Maximize する.
練習は完全を生み出す. 落ちる雨が降り続ければ、岩さえをつらくぬくように

5.情熱的열성적인 사람.
良い指導者は、自分の仕事に情熱的な人だ.
 すべてのことに情熱を持って、最善を尽くす姿を見せないといけない。
ルカ  17:5-10
17:9
しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」” (ルカ 17:9-10)
ペテロは失敗をたくさんしたけど、情熱がある指導者だった.
·        
イエスを三回否認した
·        
主はキリストです、神の子です/十字架にかからないように
·        
船から飛び降りて泳いでいく 熱心

6. 祈る人 .



7. 愛を実践する人.
  
   与える人生を生きないといけない.
  



8. 勇気のある人

Wednesday, January 28, 2015

私の時間は神様のタイムスケジュールで(ヨハネの福音書7;1-13)

私の時間は神様のタイムスケジュールで(ヨハネの福音書7;1-13)6節「そこでイエスは彼らに言われた。わたしの時はまだきていません。」イエスの(肉的な)兄弟たちさえイエスを信じておらずに、自分を表すためにエルサレムに上って、「自分を世に表しなさい」4節。この世は自分を表そうとします、しかも、自分の方法で、自分の時に、自分のタイムスケジュールで!それは、自分の栄光のためにです。それは、宗教です、単なるムーブメントです。でも、イエスはそうされませんでした。神様のときに行動されました。待つことを知っていました。また、自分の方法でしようとしたりしませんでした。神様がなされること、神様が高めてくださることを信頼していました。逆に、人に支配されたり、自分の名誉欲のためにマニュピュレートされたり、しませんでした。自分を見せる、誘惑に勝利されました。思ってみますと、神様のタイムスケジュールは完璧です。自分にとってもはや不可能と思ったときに、タイムアウトと思ったときに、神様は神様のタイムスケジュールでみわざをなされます。大事なのは、主への信頼であると思いました。最近、祈りが聞かれたことがありましたが、それも神様のタイムスケジュールでなされました。自分には、駄目と思った瞬間、感謝することで扉は開かれました!それは、自分の思いもかけない人、方法、時で来ます。神様のタイムスケジュールでいるときに一番自由です!人に支配されません、自分の弱さに埋没することもありません。今日、主にますます信頼して、神様の時間で歩みます。
 

Tuesday, January 27, 2015

REAL DISCIPLESHIPは告白にある(ヨハネの福音書6;60-71)

REAL DISCIPLESHIPは告白にある(ヨハネの福音書6;60-71)60節「これはひどいことばだ、そんなことを誰が聞いておられようか」66節「こういうわけで、弟子たちの多くの者が離れ去っていき、もはや家ストとも歩かなかった」イエスが私の肉を食べ、血を飲まないといけない、一つにならないといけない、という霊的な意味を理解できず、というよりもイエスをメシアとして受け入れずに、人々が(しかも、弟子たち)と書いています。どれほど、ショックなことでしょうか?私なら、大きな衝撃です。その時にイエスは12弟子たちに尋ねます。まさか、あなたがたも離れたい、と思うのでないでしょう。すると、そのペテロの答えがいかしてます!「主よ、私たちがだれのところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます」と言います。まったく、何でも自分が一番先に答えないと気がすまなくて、それでいて、ずばっとやってくれています。(時々失敗しますが、僕はもっとですね!)でも、今朝、思わされたのは真の弟子とは、失敗しない人でなくて、人格的な条件でもなくて、駄目な人でも、失敗する人でも、イエスをメシアとする告白にある、と思いました。それは、離れていった人々には優秀な人々や、すごい人がいたかも知れません。しかし、それよりも大事なのは、イエスを信じる信仰告白です、そこに、私の人生の土台、揺れないものがあります。今朝、いろいろ揺れる時にも、私の主イエスが永遠のいのちを持っておられることを告白し、賛美します、私の主は生きておられます。
 

信仰の指導者 金ソンシック牧師 ジュビリー教会 南部バプテスト連盟ミッションディレクター JUBIEE CH)北野実牧師





第一サムエル 17:40-50
40. ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。 41. そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。42. ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。 43. ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。44. ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」45. ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。46. きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。47. この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」48. そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。49. ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。50. こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。

Monday, January 26, 2015

宗教は人が昇ろうとする、キリストは降りてこられた(ヨハネの福音書6;58節)「これは、天から下ってきたパンです、あなたがたの父祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べるものは永遠に生きます」あるアーティクルを読みました、それは、宗教は人の力で、神に昇ろうとする。時に、お金や、よい行いで、哲学は真理を求めて、いろんな道を探す、でも真理の周りくるくる回っているだけだ!じゃ、キリストは?天から降りてきたのです!これは、他の宗教とすごく決定的に違うところだと思いました。皆さん、どう考えますか?(ぼくはキリスト教を宗教と思いませんが)でも、キリストは唯一天から降りてきた。神様から!これすごい違いです。降りてきた恵みに感謝します

WHOEVER(ヨハネの福音書6章52-59節)

WHOEVER(ヨハネの福音書6章52-59節)54節「NIVではWHOEVERがついています、私の肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日をその人をよみがえられます」普通に、人間的に聞いて難しく、聞こえる聖書箇所なのかもしれません。しかし、まずこの話はユダヤ人にカペナウムにあるシナゴーグで語られた神様のメッセージでした。それは、モーセの時代に荒野でマナを食べたことを知っている、旧約聖書を知っている人々に語られたのです。(予表といいます、これから来ることを予め、表す、という意味)マナを食べて荒野で神様のくださる食物で生きたことは、NTでは霊的な食べ物、天国の食べ物である、天国から来たイエス・キリストを食べて永遠に生きる、ことを意味して今す。わたしたちは、イエスにあって霊的に生きます、永遠に生きるとはイエスを食べると言う、神秘的な結合がないとできません、どうして、私たちに罪に打ち勝てないのでしょうか?古い自分に戻るのでしょうか?習慣的な罪から抜けだせないのでしょうか?イエスとの神秘的な結合、一致がないからです、毎日、イエスを食べ、REAL FOODであり、REAl DRINKを飲んでいないからです、自分の肉体的な力、現実、認めたない、自分の弱さで生きるからです、私にはイエス・キリストが必要です。主イエスは誰でも、わたしの肉をたべ、血を飲む者に、神様と一つにしてくださるために、神様に遣わされて来ました!ハレルヤ!しゅとともにきれることを感謝し、賛美します。私の汚い罪、弱さ、習慣的なこと、すべてを変えるために来てくださったイエスを賛美します、そのために、一部の人や特別な人のために、偏見で選ばすに、WHOEVER、誰でもイエスのところに行くなら、という招待を感謝します、賛美します、そのイエスを伝えます。
 

Saturday, January 24, 2015

サタンは不信(断絶する)イエスは信じ(つながる)ヨハネの福音書6;30-40節

サタンは不信(断絶する)イエスは信じ(つながる)ヨハネの福音書6;30-40節、35節『イエスは言われた「わたしがいのちのパンです。私に来る者は、決して渇くことが無く、私を信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」サタンの願うことは、不信です。神様の不信、信頼を壊すこと、一つにしないことです。逆に、イエスは信頼です、信じ、一つにさせます。イエスは神様を信じるゆえに(三位一体の神ですから、この表現微妙、難しいですけど)自分の願い、行いたいことをするのでなくて、神様の願いだけを(愛の神様の見せてくださったことだけを)なさいます。39節『私を遣わした方の御心は、私に与えてくださった全ての者を、私が一人も失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」神様の一人も失いたくない、愛の心で生きられました。今日、明日の奉仕、神様を信頼するほうを覚えたいと思います、主イエスに会って一つであること、信頼、信じて歩むミニストリーをしていきます。
 

Friday, January 23, 2015

再生産する人になるのか、消費者か?(ヨハネの福音書6;22-9節)

再生産する人になるのか、消費者か?(ヨハネの福音書6;22-9節)27節「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与えるものです。」CROWDが、イエスが食事を与えてくれたのをみて自分たちの王にしようとします。彼らはイエスをメシア、救い主と呼ばずに「先生、RABBI」と呼びます。イエスは26節「あなたがた私を探しているのは、しるしを見たからでなく、パンを食べて満足したからです」彼らは、一時的な、いつも同じように、満たしてくれ、という欲望、自分が主人です。でも、考えれば、いつまでなくならない永遠のいのちを求めるほうが良いのに!そうでないのです。どちらがいいでしょうか?①一時的で、いつも何かあったら、困って、また頼り、時につまずく人になるのか?主イエスを自分の救い主とせずに(関係を持たずに)、消費者にだけなるのか、それは自分が苦しいのです。②イエスに出会って、救い主として受け入れて、永遠の、なくならない食物を受け続けて、生きるのか?この人は次の人に恵みを受け継ぐ人になって行きます。うちの教会、私はどうでしょうか?どんなイベントをしても、主イエスは救い主であることを伝えないといけません、今週のリーダーシップセミナー、主イエスが私のリーダーであることを証します。
 

Thursday, January 22, 2015

嵐で進まないあなたの現実に主イエスをお迎えしたか?(ヨハネの福音書6;14ー21)

あなたの嵐で進まない現実に主イエスをお迎えしたか?(ヨハネの福音書6;14ー21)イエスが男性だけで5000人の人々の給食の奇跡をした後、人々はイエスを政治的、民衆的な王にしようとしました。しかし、イエスは人にマニュピュレートされたり、利用されたり、する方ではありません。また、イエスにとって意味のないSTARになることでなくて、主なる神様の栄光のために、神様の心を行うためだけ生きられました。そこで山に退かれました(15節)その後、弟子たちだけでガリラヤ湖を進んだときに、19節「こうして、4,5キロメートル漕ぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた」彼らはイエスのSIGNSを見ても、その奇跡にともにいても、共に奉仕させしたのに、イエスが来た時に恐れました。ここに大事な質問があります!①イエスは誰でしょうか?メシアなのでしょうか?それとも、単に群集のように預言者なのでしょうか?②また、イエスが神様、メシアであると知っていても、この反応はどうでしょうか?私(たち)自身、メシアなるイエスを信じているのに、目の前の現実に信仰持って、私の逆風のために進まない、嵐の中にある私のボートにイエスをおのせしているでしょうか?。③弟子のように私はイエスと分からずにいるのようでないでしょうか?④私の人生に、教会に、人々にイエスをお迎えしたい、と思います。20節「しかし、イエスは彼らに言われた「私だ、恐れることはない」21節「それで彼らは、イエスを喜んで迎えた、舟は程なく目的の地に着いた」イエスを喜んでお迎えした時に、ほどなく目的の地に舟は着きました。私の現実に、教会に、人々に、GOALさせてくださるイエスを迎えて今日を過ごします。偉大なメシアなるイエスに信頼して歩みます。
 

Wednesday, January 21, 2015

今朝の3つの感謝!①朝主に祈ること!②聖書の言葉を通してチャレンジをくださる主に感謝、③共に人々のためにとりなしの祈りを小さい私にさせてくださる偉大な主に感謝!
 

神様の手にあるなら、神様が小さい私を通して働くなら(ヨハネの福音書6;1-13)

神様の手にあるなら、神様が小さい私を通して働くなら(ヨハネの福音書6;1-13)5節ピリポに言われた「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」6節「もっとも、イエスはピリポを試してこう言われたのである」8節「弟子の一人シモンペテロの兄弟アンデレがイエスに言った」9節「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんな大勢の人では、それが何になりましょう」信仰者にとって、「自分が何をもっているのか?」また「どれだけ持っているのか?」のが重要ではありません!それじゃ、信仰のない人と同じです。誰の手にあるのか?誰の心、イエスの心が大事です!イエスの手にあるなら、小さい、少ない、相手にならない数は重要ではありません!主イエスの手にあるのか?主イエスはPHILIPにあえて質問されたのです!現実を考えたら、神様の奇跡を与えてください、と求めるように、信仰のチャレンジをできるように!群集たちはガリラヤから「しるし」みてついてきていたのです!主イエスはこんな小さい私を通して、大きいことをされようとして、また人間ではできない、神様の奇跡をあなたの人生の神様の軌跡を残したいのです。私にとって、少しチャレンジな、示されることがありました。人は笑うことでしょう、人間の前にすぐ答えがないと、いつ聞かれるの?というかもしれません。しかし、主が私(私たちの仕える教会の)の5つのパン、2匹の魚をもって、主に出るときに、感謝と分かち合い、腹いっぱいになるまで、LEFTOVERが12かごできるくらいまで用いてくださることを信じます。主は少年のささげものを何百倍、何万倍に用いられました、信じます!

Tuesday, January 20, 2015

SCRIPTURESは、神様の愛だ!(ヨハネの福音書5;39-47)

SCRIPTURESは、神様の愛だ!(ヨハネの福音書5;39-47)ユダヤ人たちは、39節「聖書の中に永遠の命があると思うので、聖書を調べています、その聖書が、私について証言しているのです」とあるのに、その永遠の命そのものであるイエスに会えないのです、目の前にいるのに!出会っているのに、拒否しているのです。40節「あなたがたいのちを得るために私のところへ来ようとしません」彼らは、聖書のOTをしっていても、モーセを知っていても、その預言の成就であるメシアに会っていないのです。それどころか、メシアなるイエスを拒否し、殺そうとさえしているのです。彼らは聖書を読んでも、調べても、「神様の愛」に出会わないのです。42節「あなたがたのうちには、神の愛がありません」これを読んでいて思いました。宗教は真理の周りをうろちょろ、するだけか?哲学はかっこいい言葉を言うだけか?異端ははたまた、違うゴールに言ってしまう、なんて、残念なことだろうか?聖書は、神様の愛に満ちて、私たちを呼んでおられるのに!神様の愛そののものとしてイエスが人間になってきてくださった。でも、受け入れない、かえって人間の栄光は受けても、神様の栄光そのものであるイエスは受け入れない!今朝、しっかり①聖書を教えたい、それは聖書は神様の愛想のもの、LOVE LETTERだ!と感じました。②しっかりと、聖書の教え、キリスト教教理(こう書くと堅いけど)を教えたい、それは健康な教え、神様の愛がもった分かる、体験できるように、と思いました、しっかり準備していきます。主よ、助けてください。あなたの愛の中で!
 

Monday, January 19, 2015

100%変わらないTESTIMONY(ヨハネの福音書5;30-38)

100%変わらないTESTIMONY(ヨハネの福音書5;30-38)イエスが神様であることは、100%の証です、なぜなら31節「もしわたしが自分のことを証言するなら、わたしの証言は真実ではありません。わたしについて証言する方が他にあるのです。その方のわたしについて証言される証言が真実であることを、私が知っています」人間の証言は、100%ということはありません、真実を言おうとしても、時によって変わることがあります。昨日はそうしようと思っていたのに、今日は出来ないから、ということがあります。また、自分の私心が入ります。自我があります。しかし、主イエスは30節「わたしは、自分から何事も行うことがありません。ただ聞くとおりに裁くのです。そして、私のさばきは正しいのです。私自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方の心を求めるからです」神様はまったく自分の自我がありません(もともとないか?!)。すべて捨てられたのです、神様としてあり方を捨てられたのです。自己実現でなくて、神様だけ実現です。私達人間ならどうでしょうか?神様のことを伝えながら、神様に仕えながら...、自分のことを混ぜたり、自分の意見が通らなかったら、気分が悪かったり、傷ついたりしないでしょうか?しかし、イエスは自らの決断を持って神様にゆだねられたのです。自ら選ばれたのです。なぜでしょうか?それは、神様の愛の関係から来ます。34節「~わたしはあなたがたが救われるために、そのこと言うのです」とあるように、すべては私たちの救いのためにあったのです。38年間ふせっていた人を安息日に癒したことで、論争し、イエスをねたみ、殺そうとした人たちの救いのために証し、伝道されたのです。神様の愛を伝えるために。神様の愛は自我を無くします、そこに100%TRUEなあかしがなされます、そこに神様の素晴らしいわざが起こります。主イエスが神様であることを知らせるために「THE VERY WORKS THAT I AM DOING」わざを見せてくださいました。神様のSIGNSとWONDERSを見せてくださったのです。そこまでしても、彼らは闇の中に、自分の罪の中に閉じこもったのです、自我が崩されたイエスと全く反対です、今朝、主イエスの自我が崩された人の模範を倣って生きます。また、神様の愛の関係の中で従って生きます。
 

21C健康な教会を目指して 嵐の中でも、コロサイ1;24、ローマ12;1 ジュビリー教会 北野実牧師



 
メッセージ第一ポイント
1. そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。   <ローマ人への手紙 12;1>

21. イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 22. 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。 23. しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24. 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」25. 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」26. イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
<ヨハネの福音書 4;21-26>

46. そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、47. 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
                                         <使徒行伝 2;46-47>

2. 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。  <使徒行伝 13;2>

メッセージ第二ポイント
29. だから、今、主よ、彼らの(わたし達に対する)おどかしをよく御覧ください。そして出来るかぎり大胆に御言葉を語る力を、(わたし達) あなたの僕どもにさずけてください。30. 御手をのばして、あなたの聖なる僕イエスの名のゆえに、癒しや徴や不思議なことを行わせてください。」31. こう彼らが祈りおわると、(たちまち) 集まっていた所が揺れ、だれもかれも聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語った。<使徒行伝 4:29-31>
40. 使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放した。41. そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。
42. そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。                 <使徒行伝 5:40-42>
24. ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。           <コロサイ人への手紙 1:24>

Sunday, January 18, 2015

今日終わっての感謝、①みんな大変だけど、一緒に神様の言葉聖書をQTして、SHAREすること、②その後の祈りが良い!、③風邪なのに頑張って通訳したKくんありがとう!でも、主に栄光!
 

神様の心だけを行う覚悟があるか?(ヨハネの福音書5;19-29)

神様の心だけを行う覚悟があるか?(ヨハネの福音書5;19-29)19節「~子は父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、同様に行うのです」父が子に見せたものは何でしょうか?それは、神様の愛です。どのように伝えられたのでしょうか?20節「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。」神様はご自分の計画、仕事をなさる時に、愛を持って伝えられます、愛する関係だから、神様のことを任せるのです、させるのです!神様の心だけをされるイエスは、神様に愛されていることを知り、愛によって行動されます。愛されていることが分からないと、従うことは難しいことです。愛されていることがわかってこし、ご自分のしたいことでなくて、神様の自分が体験した愛を、それだけを伝えたいと思うようになります。それは、強制でなくて、自らの心からの願いとなります、①はたして、私はそうでしょうか?21-21節「父が死人を生かし、命を与えるように、子もまた、与えたいと思うものに命を与えます。」「また、父は誰をも裁かず、...すべての裁きを子にゆだねられました」神様の心は誰も裁きたくない、父なる神様の愛です。しかし、父なる神様は義なる方!真理なる方です、なあなあに見のがすことはありませんそのために、子なるイエス・キリストを通して神様の愛を伝えました。24節「~私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きにあうことがなく、死から命に移っているのです」イエスを受け入れる者は、永遠の救い、命へ移っています。②イエスは神様の言葉、心だけを伝えるように完全に従順されました。私はどうでしょうか?人間である私は自分を伝えると、傷だらけの自分を伝えてしまいます。イエスとともに痛みや批判も伝えます。今日、再びイエスの愛に戻ってイエスの心だけを伝えます、イエスの愛を知るときに、神様の愛を知るときに、私のために命をかけてくれた父なる神様の愛を知ります、その犠牲、謙遜、ひげまで知ります、その時に、従う、従わないはなく、ただその愛を話したい、知りたい、伝えたい、行いたい、と思います。従順って顔をしかめっ面ですることでありません。神様の愛を知ったら、体験したら、喜んでしたくて仕方がなくて、することです!今日、父なる神様の愛に立って生きます。
 

Saturday, January 17, 2015

イエスにすれ違ったお二方たち(ヨハネの福音書5;10-18節)

イエスにすれ違ったお二方(ヨハネの福音書5;10-18節)38年ふせっていた人々の癒しをユダヤ人たちは、10節「今日は安息日だ、床を取り上げていけない」と言います。聖書を読んでいて、神様を知っていたら、そう言う言葉が出てくるでしょうか?少なくとも、安息の意味を知っていたら、誰のために安息が与えられたのか?知っていたら、こんなことは言わないどころか?喜んで、感謝したことでしょう!誰か、癒した人を違う意味で、探したでしょう。しかし、そんなことはありませんでした。①私は(私たちは)どうでしょうか?神様のわざを素直に感謝し、喜んでいるでしょうか?それとも、変な律法の解釈を持って宗教をしないでしょうか?考えてみたい、と思います、自分の思い、考えが主に勝っていないか?せっかく、聖書を持っていながら主イエスに出会っているのか?!一番大きな部分です。また、もう一人大事な今日の主人公がいます。それは、38年間ふせっていてのに、主イエスが癒した方です。彼は自分を癒した方が誰か知りませんでした。そこで、イエスは彼を宮で見つけてくださって、声をかけてくださったのです。1...4節「見なさい、あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから」イエスはわざわざ、彼に癒しだけでなくて、人生の転換点、を話してくれました。癒しだけ受けて、問題だけ解決して、それで終わりなら悲しいことです。38年間伏せっていた人はこの後、どうなったのか分かりません。ただ、15節「ユダヤ人たちに自分たちを治したのはイエスと告げた」とあります、今日のリビングライフは、「恵みを受けた後がもっと重要です」です。②私の人生は、イエスの恵みを受けた後どのように生きているのでしょうか?恵みを受けたとは、救われたこと、人生を変えられた、永遠の命をもらったこと、神様と共に生きることです。今日、恵みを感謝して、賛美していきます、大事な神様の命を伝えて奉仕します。単に問題が解決した、人間的に楽しいでなくて、命なるイエスに出会った奉仕をしていきます。
 

Friday, January 16, 2015

良くなりたいか!?(ヨハネの福音書5;1-9)

良くなりたいか!?(ヨハネの福音書5;1-9)べテスダの池で、天使が池をかき回すときに、最初に入ったもののが癒されることを信じて、待っている人々たちがいました。そこは、絶望の中で、いつ来るのか分からないことを待ちながら、それでも直されたい、という最後の漠然として希望を持っている人々外ましや。そこには、38年間病気でふせっている人がいました。イエスは6節「イエスが彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことを知って、彼に言われた。『良くなりたいか』当たり前のことに聞こえますが、絶望の時間が長ければ長いほど、体だけでなくて、心が病んでいきます、絶望という病気に、もう直らない、もう私の人生はすでに終わった、とマイナスだけで、自分を閉じ込めます。だからこそ、イエスは大事な質問をされたのです。38年と言えば、子供の頃に病気であっても、年齢は中年でしょうし、人生の大部分になります。大人の時なら、すでに既存世代になっているでしょう。もはや、すでに時間が過ぎ去った、と思うかもしれません。この人はストレートに答えずに、7節「自分を池の中に入れてくれる人がいません...」と言います、天使よりすごい「主」なるイエスのなのに、!イエスは言われます。「起きて、床を取り上げて歩け!」と癒されました。今朝、主イエスは私に(私たちに)言われます、GET UP! PICK UP YOUR MATT AND WALK!私の過去の挫折、経験、失敗、傷、いたみ、人間関係の難しさ、ミニストリー、なかなか動かないように見えてしまう(錯覚ですが!)祈りの課題、早く答えられない、ことに自分を閉じ込めていないでしょうか?リバイバルできない、難しい、といい訳を造ってしまわないでしょうか?主は偉大な方です、主がされます、主がリバイバルを起こされます。主が奇跡をされます、主イエスは言われます、立ち上がれ!と!過去を置いて、片付けろ!と。自分の痛みの中に留まらず、主イエスの癒し、回復、奇跡、栄光の中に進みます 、主のリバイバル、贈ってくださる人々に期待して歩みます。
 

Thursday, January 15, 2015

SIGNSよりも、WONDERSより大事なのはBELIEVE(ヨハネの福音書4;43-54)

SIGNSよりも、WONDERSより大事なのはBELIEVE(ヨハネの福音書4;43-54)イエスはカペナウムから病気で死にそうである息子を癒してもらうために来た王室の役人に、言います。48節、「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」一見きつそうに見えますが、SIGNSとWONDERSだけ求めるなら、問題が起こるたびに倒れます、つまずきます、イエスに出会わないなら、いつまでEVENTだけ追いかける人になります。問題を解決したSIGNSに頼るのでなくて、問題を解決できる方、神様を信じることができれば、もう勝利はこちらのものなのに!私たちは、目立つイベント、たくさん人が集まる集会など、に弱いのでないでしょうか?(それが悪いのでなくて、あってほしいものです!すごいことが)でも、すごいことを起こす神様、ご自身と一緒にいることがもっと、大事です。いくらでも、すごいことをおこせるのに、大変な中でも、苦難の中でも、たとえ死の中でも、逆転劇を起こし、生き返らせる、復活された主イエスを信じることが意味のある、価値のある、一番大事なことです。その...ことをイエスを言われたのです。でも、息子が死にかけなのですから、と思う人には、イエスは、50節「帰っていきなさい、あなたの息子は直っています。その人はイエスが言われたことばを信じて帰途についた」誰が、言葉を言うのか、信じるにはそれが大事です。イエスの言葉は、権威があります。天地のすべての権威、宇宙全ての権威です。神様の言葉の権威を信じること大事です。この王室の役員は目でSIGNを見ずに「主イエスの言葉を信じて」帰っていきました。帰っていく途中で王室の役員はしもべに出会って、息子が「昨日、第7時に熱が引いた」事を聞きます、カナからカペナウムまで40MILEくらいあるそうです(ナザレだったかな?)。LAからサンデェイゴの半分くらい?そこまで、信じていくのは行動、信じ続けることが、目の前に起こっていない、見えていない、帰ってしまったら、もう一度イエスを呼べない、とか思わなかったでしょうか。今日、私たちも目の前に現実が動かなくても、戻れなくても、信仰持って決断したら、主の言葉の権威に従って、信じ続けて歩みたいと思います、私たちの教会の上に、主のリバイバル、BELIEVEがあるときに、主の不思議、しるしもあることも信じます。何よりも、神様の言葉を受け取る、信じる祝福を持って生きます。