12:40 こうして、二つの聖歌隊は神の宮でその位置に着いた。私も、私とともにいた代表者たちの半分も位置に着いた。
ネヘミヤは、ユダのつかさたちをオーガナイズして「聖歌隊」を編成します。それは、つかさだけでなくて(リーダーたち、捌きをする位置の人)祭司たちもともにラッパを持って賛美することになりました(35節)。祭司ゼカリヤと兄弟たちも、神の人のダビデの楽器を持って続きます(36節)それは、神様の人ダビデがしたように、礼拝がよみがえるときでした。バビロンであれほどまで夢見た、礼拝の復活でした。バビロンで、いかに豊かな生活をしても満たされない、霊的な祝福である礼拝の復活でした。まこと幸福は、礼拝をささげるときあります、いかに物質的に豊かでも、健康でも、霊的に不便なら苦しいものです。体が少し疲れても、霊的に自由なほうがいいのです(ちょっと気をつけて読んでください)。霊的な喜び、自由をうばれるつらさ、を乗り越えて、とうとう主の前に礼拝できるように、使えるように導かれたのです.ネヘミヤをQTしていて恵まれ、チャレンジを受けるのは、祭司も、ネヘミヤも、オーガナイズするだけでなくて、自ら奉仕をした、とうことです。人にさせるだけでなくて(悪い意味でなくて)神様の奉仕、礼拝をさせるようにすることはすばらしいです、でも、それにとどまらずに自分、自らも奉仕をした、ということです。そこには、奉仕をする人を喜ぶ人々の姿もありました(44節)。
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