Tuesday, July 5, 2016

働き人である前に礼拝者であれ(ネヘミヤ12:31-47)

12:31 そこでユダのつかさたちを城壁らせ、二つのきな聖歌隊編成した。一組城壁のほうにかってんだ
12:40 こうして、二つの聖歌隊でその位置いた。私、私とともにいた代表者たちの半分位置いた
ネヘミヤは、ユダのつかさたちをオーガナイズして「聖歌隊」を編成します。それは、つかさだけでなくて(リーダーたち、捌きをする位置の人)祭司たちもともにラッパを持って賛美することになりました(35節)。祭司ゼカリヤと兄弟たちも、神の人のダビデの楽器を持って続きます(36節)それは、神様の人ダビデがしたように、礼拝がよみがえるときでした。バビロンであれほどまで夢見た、礼拝の復活でした。バビロンで、いかに豊かな生活をしても満たされない、霊的な祝福である礼拝の復活でした。まこと幸福は、礼拝をささげるときあります、いかに物質的に豊かでも、健康でも、霊的に不便なら苦しいものです。体が少し疲れても、霊的に自由なほうがいいのです(ちょっと気をつけて読んでください)。霊的な喜び、自由をうばれるつらさ、を乗り越えて、とうとう主の前に礼拝できるように、使えるように導かれたのです.ネヘミヤをQTしていて恵まれ、チャレンジを受けるのは、祭司も、ネヘミヤも、オーガナイズするだけでなくて、自ら奉仕をした、とうことです。人にさせるだけでなくて(悪い意味でなくて)神様の奉仕、礼拝をさせるようにすることはすばらしいです、でも、それにとどまらずに自分、自らも奉仕をした、ということです。そこには、奉仕をする人を喜ぶ人々の姿もありました(44節)。
奉仕者がかえって、自ら奉仕者であるために、礼拝者であることを忘れること、できないことがありえます。時に難しいときもあります、しかし、ネヘミヤは奉仕者である前に、リーダーである前に、主の前に礼拝者として自ら使えました。今日、奉仕者である前に主の前に礼拝するものとして歩みます。その時に、12:43 こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげてった。神らをいにばせてくださったからである。女どももったのでエルサレムのびのははるかくまでこえた。とあります、私たちの教会、南カリフォルニアの教会の喜びの叫びが、はるか遠くまで聞こえることを祈ります。

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