Thursday, July 14, 2016

乾いた地を渡らせる神様(ヨシュア4;15-24)

4:10 をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアにじてげさせたことがすべてわるまでヨルダン真中っていたすべてモーセがヨシュアにじたとおりであるそのいでった
4:15 がヨシュアに4:16 あかしのをかつぐ祭司たちにじてヨルダンからがってさせよ。」せられたとき
4:17 ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダンからがってなさい。」じた
4:18 契約をかつぐ祭司たちがヨルダン真中からがって、祭司たちのかわいたがったときヨルダンはもとのって、以前のようにそのいっぱいになった
神様は、契約の箱を背負った祭司たちがずっと立ち続けてことを通して、奇跡をなされます。信仰は、神様の能力を受ける、流す、ものです。信仰自体が変な力ではなくて、また、信仰は神様に与えられたものです。今日、心に留まったことは、①祭司はずっとイスラエルの民が渡りきるまで立ち続けた、ということです、それは、霊的な責任を意味します、主が上がれ、といわれるまで、自分勝手な判断でなくて、とどまり続けないといけなかったのです。水が止まった、と勝手に盛り上がって一気にわたったのでなくて、主に言われるまでたち続けました、それは、もしかしてきつい時間だったかもしれません、長く待つことであったかもしれません、しかし、祭司たちは霊的な祝福、を一番受ける中で、奇跡を一番に体験する中、同時に責任があります。今日、霊的な責任という重荷を持って使えます。弱い、不足な私を助けてください。また、②また、この奇跡は、すべてが主のなされたことです、それは、主の契約の箱がとどまり続ける中、主権は主にあります。また、何よりも、絶対的に驚くことは「乾いた地を渡る」ということです。黙想しました、それは、川底のどろどろ、粘土質でも、岩があるところでなくて、かわいたちをわたるとは、主の絶対的な主権にある奇跡です。主が、私の人生を、教会を乾いた知をわたらせることを信じます、体験します。また、主にある祭司、仕えるものとして、主が上がれというまでつかえる、霊的な責任ある奉仕をします、アーメン。

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