4:15 主がヨシュアに、4:16 「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、
4:17 ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。
4:18 主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。
神様は、契約の箱を背負った祭司たちがずっと立ち続けてことを通して、奇跡をなされます。信仰は、神様の能力を受ける、流す、ものです。信仰自体が変な力ではなくて、また、信仰は神様に与えられたものです。今日、心に留まったことは、①祭司はずっとイスラエルの民が渡りきるまで立ち続けた、ということです、それは、霊的な責任を意味します、主が上がれ、といわれるまで、自分勝手な判断でなくて、とどまり続けないといけなかったのです。水が止まった、と勝手に盛り上がって一気にわたったのでなくて、主に言われるまでたち続けました、それは、もしかしてきつい時間だったかもしれません、長く待つことであったかもしれません、しかし、祭司たちは霊的な祝福、を一番受ける中で、奇跡を一番に体験する中、同時に責任があります。今日、霊的な責任という重荷を持って使えます。弱い、不足な私を助けてください。また、②また、この奇跡は、すべてが主のなされたことです、それは、主の契約の箱がとどまり続ける中、主権は主にあります。また、何よりも、絶対的に驚くことは「乾いた地を渡る」ということです。黙想しました、それは、川底のどろどろ、粘土質でも、岩があるところでなくて、かわいたちをわたるとは、主の絶対的な主権にある奇跡です。主が、私の人生を、教会を乾いた知をわたらせることを信じます、体験します。また、主にある祭司、仕えるものとして、主が上がれというまでつかえる、霊的な責任ある奉仕をします、アーメン。
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