Friday, July 15, 2016

自分の力でした、と勘違いするな!と聖絶(ヨシュア7;1-9)「これくらいばれないさ」

7:1 しかしイスラエルのらは、聖絶のもののことでユダ部族のゼラフのザブディのであるカルミのアカンが、聖絶のもののいくらかをったそこで、主りはイスラエルかってがった
7:2 ヨシュアはエリコからアイへ数人わし、「上ってってあの土地じたアイはベテルの東、ベト・アベンのくにあった。彼らはってってアイを7:3 ヨシュアのもとにってった。「アイをつのに全軍出撃するにはびません。二、三千人けばいいでしょう。取るにりぬ相手ですから、全軍をつぎむことはありません。」
今日のテーマは、①聖絶と②自分の力でした、できる、という高慢についてです。イスラエルの民は、1節「聖絶のことで罪を犯した、」とあります。聖絶とは、一部でも残したら聖絶でありません。一人でも聖絶をしないなら、少しでもしたのなら、聖く絶滅しませんから、聖滅でありません。それは、主の言葉への不従順です。また、聖絶しても100倍の千倍の、万倍の祝福を下さることを信じないことです。また、これくらいなら、自分ひとりくらいなら隠せる、という神様への不信、侮る態度です。罪への影響力への侮る態度、です。全員で守るべき聖絶をアカンがしなかったためにイスラエル全体に主の怒りが燃え上がりました。そして、もうひとつ、エリコを神様の奇跡で攻め落としたのに、AIを攻めるときには偵察を送るだけにします(人間的にはそれだけ十分ですが、)。神様に伺わずに、偵察の「2,3千人が行けばいい、取るに足りぬ相手」ということで自分たち、人間だけで決定して行動します。イスラエルは信仰共同体です。神様と聞いて話して決める共同体です。それは、自分がした、自分でこれくらいならできるだろう、という高慢です。そのために、大きな敗北をします。それは、エリコを征服したと思えない決定的な恐れ、挫折を持ってきました。このAIという町は、城は人数は少なくても、難攻不落の要塞であったことをONNURI教会のSEEKER SERVICEで聞いた覚えがあります、ここで、ヨシュアと長老たちは主のまえに悔い改めと、なぜこのようなことになったのか?聞くようにします。回復のために必要な態度です。大事な姿勢です。それにしても、わずかエリコの勝利の後に、人の目には小さいAIの敗北により、これほどまでに倒れるイスラエルはどうでしょうか。それは、人に頼る人の特徴です。成功には強くても、失敗、挫折には無残に倒れていき、人々はなれていきます。今日、これくらいばれないさ、という罪からはなれます、また共同体の与える影響力を考え、罪を犯させない霊的な緊張感、きよさ、指導をしていきます。また、主の奇跡によって生かされることを感謝します、また、高慢になるときには、主の前にでる回復を求めていきます。まずは、主に聞く、祈りをします。


 

No comments:

Post a Comment