Tuesday, August 6, 2013

目に見えるものに頼ると目に見えないものこと

使徒行伝22章22節「人々は,彼の話をここまで聞いていたが,このとき声を張りすると,上げて, 「こんな 男は, 地上から 除いてしまえ. 生かしておくべきではない. 」と 言った. 28節 千人隊長は, 「私はたくさんの 金を 出して, この 市民權を 買ったのだ. 」と 言った. そこで パウロ は, 「私は 生まれながらの 市民です. 」と 言った
天国の福音を語って使徒パウロに向かって、①群集たちは「わめきちらし」生かしておくべきでない、と言いました。これって、個人ならいえることでしょうか?一人でこのような行動を人の前で出来るでしょうか?人を殺すとか、着物を放り投げ、チリを撒き散らし、など。それは社会の中の群集に紛れ込むからできることです、責任の無い人生、行動をとっていることです。②そして、市民権を買って手に入れたローマの千人隊長です。彼はパウロがローマ市民権をもっていると知らない前は裁判もせずに、「むちで打とう」としました。騒動が起こった、それだけで自分の責任をとらずに、困ったことが起こったから、というだけで人のせいにしました。かえって一方のパウロです。彼は既に天国の福音を語りました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、拒否することを決めていたのです。それは、自分の地上の生活、ポジションにだけ彼らが重きを置いたからです。そこに、彼らの人生を守るものがると勘違いしたのです、福音が語られたのに。群集に隠れていれば大丈夫と思ったのです。ローマ市民権を買ったから大丈夫、と思ったのです。今日パウロはローマ市民権に頼っていたのではありません。天国の市民であることに自分のアイデンティをもったからこそ、ローマ市民権者であることを語れたのです。私は、もしくは私たちは、何か目に見える部分で頼れる部分を探しやすいものです。しかし、これで安心と、目に見える部分(必要なものはありますが)にだけ頼るなら危ないものです。天国の価値観で今日私の価値観、教会の奉仕考えて生きます

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