ピレモンへの手紙15。18節、使徒パウロは、ピレモンにオネシモを取り戻すのは永遠に取り戻すためであった、と言います。それは、奴隷としてでなくて、永遠に続く神様の家族として取り戻すためであった、と言います。本当に人を得るとは救われた人として得ることです。しかし、パウロは奴隷としてオネシモがした過ちを彼が責任を取ると言います。それは、そこまで彼がしなくていいぶぶんを補うと言っているのです。主の許しと人間としてすべきことを負うパウロの姿があります。これこそ、リーダーの姿でないでしょうか?私はどうだろう、と思うと遠いとおいと思いました。しかし、愛することは強制でなくて、自ら進んで追うものです。パウロはリーダーとしての姿、愛を見せてくれます。今日、また主イエスの愛をもって強制でなくて、自ら従うリーダーになって行きたいと思います。
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