実を結びたいなら(詩篇1;1-6)年末QTの聖書を読みながら、一年を神様の言葉で振り返りました。誰もが実を結ぶ人生を歩みたいのでないでしょうか?でも、なぜ難しいのでしょうか?単純な霊的なゴールデンルールで歩まないためです。聖書は、神様は言います、BLESSED IS THE ONE WHO~と言います、最初の1節は「悪者のはかりごとに歩まず、罪びとの座に着かず、嘲るもののの座に着かなかった、その人」と言います、たとえ一瞬でも悪者のはかりごとにあゆまず、罪びとの座に着かず、嘲ることがなかったでしょうか?一年間、また今までの生涯を通してどうだったでしょうか?私自身とても恥ずかしいものです。しかし、主の前に悔い改めます。主は悪者の道の結果を言われます4節「まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ」と言われます。5節「悪者は裁きの中に立ちおおせず、罪びとは正しい者の集いに立てない」と言います、悪者の人生は、隠し、逃避し、確信の無い、一時的な成功のために生きます、しかし、その結果は、たつことの出来ない、軽い軽い、一瞬で吹き飛ばされる人生です。逆に、2節「主...の教えを喜びとして、昼も夜もその教えを口ずさむ」(NIVではIN THE LAW OF THE LORD)とあります、聖書の教えを、神様の教えをどれほど喜んでいるのでしょうか?神様の教えに従うときに来る祝福をどれほど期待しているのでしょうか?神様の愛が分からないと、これは難しいでしょう、でも、逆に、主の愛さえ分かれば、こっちのものです!主の愛さえあれば、主が味方なら、怖いものは無いのです。また、何よりも主の教えを喜ぶ、主のルールで生きることを喜び、ことを自ら選んでいるでしょうか?その人は何をして栄える(3節)時がくると実を結ぶ3節、とあります、これしてら成功で、あれは駄目、というのでないのです。ふと、この聖書を箇所を読みながら思い出したことがありました、それは、以前にいたオンヌリ教会の副教職者たちが、部署移動をするたびに、違う奉仕をしても祝福される、違う、知らないことをしても、消化して、自分のものとして、立派な奉仕をすることでした。私はどうでしょうか?どうだったでしょうか?難しいと思い中で、主の言葉を昼も夜もmEDIATEすることを思いました、祝福の権利は私にありません、主の中にあります。今日、2015年に向けて聖書を黙想し、献身してきたい、と思います、み言葉を通して、悔い改め、主に従って生きます。聖書通読、学び、QT,更にしていきます。
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