私の目は主イエスの救いを見たか?イエスを礼拝しに行っているか?!(ルカ2章22-28節)「さて、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちた時に、両親は幼子を主にささげるために、エルサレムに連れて行った。」22節、イエスの地上で任せられた両親であるヨセフとマリヤは、自分たちの町ナザレから、わざわざイエスをささげるために、エルサレムに礼拝に行きました。彼らは貧しく、大変な状況でした、なぜなら「山鳩ひとつがい、または家鳩のひな二羽」をささげる(LEV12;8)のような状態だからです、ここから学ぶべき教訓は、①貧しい、余裕がないからでなくて、主にしたがう心があるのかどうか?ということです。また、彼らは、②主の言葉どおりにしました、主の律法のとおり(23,24節)にしました、妥協せずに、自分勝手な解釈をせずに、メシアであるイエスご自身なのに、神様の言葉どおりにしたのです、そのように、聖書の言葉通りに生きているでしょうか?③それは、主が私に、私の人生を、時間を、全てを与えてくださった、という告白があるかどうかです。次に、シメオンという人がでてきます。彼の紹...介は「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた」25節、④このように紹介される人生を生きているでしょうか?正しい、敬虔、イスラエルの慰められることを待ち望み、(自分のためだけでなくて、救いのために、人々のために願う、生きる人でしょうか?!)また、シメオンについては、「聖霊に」ということばが3回も出てきます(25,26,27節)(1)聖霊に満たされて人生を生きて、(2)聖霊により神様の言葉をもらって、約束を受けて、(3)聖霊に導かれて生きているでしょうか?その時に、イエスの救いを見ました、多くの人々がいる神殿でイエスを見抜くことができたのは、このシメオンでした、宗教学者でなかったのです。神様の約束を受けて、成就を見て、主を賛美しましたのです。また、シメオンはアンナにイエスを紹介します(36-39節)アンナも主人をなくして、神様に多くの人生、時間を、祈りと断食を持ってささげた人生を生きた人でした。主人を亡くして一番慰めて欲しいはずの女性が、エルサレムの慰めを待ち望む人々にイエスを伝えました、イエスに出会った人は、イエスの救いを賛美し、伝えずに、いれません!自分のであったイエスを伝えずにいれません!今日、心からメリークリスマス!をささげます、ともに肉の家族でなくて、霊の家族とともにクリスマス礼拝をささげることを心から感謝します、主に感謝します。今日、出会う人に主の救いを伝え、証します、また、礼拝をささげます。
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