復活の証人として走らせてください(ヨハネの福音書20章1-10節)十字架で死なれたイエスをLOVED(異性間のでなくて)してマグダラのマリヤたちは(女性たちは、弟子たちは行ってないのがすごいです)イエスの体を固有を塗りに行きます。ところが、そこには石がすでにREMOVEDされたENTRANCEがあり、空っぽの墓にしかりませんでした。女性たちのすばらしいところは、イエスを愛して「週の初めの日」に(待ちきれずに、)朝早く暗いうちに(危険も顧みず、)イエスを慕い求めたところです、弟子たちはそうしていません。もっとこの世の勢力、恐れ、計算の中にいたかもしれません。女性たちの信仰、愛に脱帽です。しかし、空っぽの墓を見たときに「イエスが復活した」とは思いませんでした。また、女性たちに呼ばれたシモンペテロも、イエスに愛された弟子も墓に走っていき、空っぽの墓を見ました。そこには、確かに7節『イエスの頭に巻かれた布切れは、亜麻布と一緒になく、離れたところに巻かれたままになっているのを』見ました。それは、万が一イエスを誰かが持っていったのなら『わざわざ脱がせることはし...ないはずです』無造作に、置かれていることころは、まさに復活のイエスを証拠立てます。しかし、9節『彼らはイエスが、死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである』とおり、弟子たち、女性たちは心が閉ざされていました。人間がよみがえるはずがない!と。しかし、よみがえられなければ、神様でありません。素晴らしい人間で終わります。また、何よりも神様の救いが、私の人生に、命に起こりません。もしも、イエスが復活されたのなら、誰もを恐れることなく、というよりも、じっとしていられないはずです。イエスが復活した、!宣言して走り回るはずです。今日のリビングライフでは、復活のイエスにお会いせずにいるところで終わります、目にはめえていません。しかし、確かに聖書の約束どおりにイエスは復活されたのです。私たちの現実は、大変なことが待っていて、少しも回復兆しがないかもしれません。しかし、確かに約束を下さったイエスは復活されたのです、もう一度死ぬことでなくて、今度は永遠に死を破ってよみがえられたのです。今日、私の人生、奉仕、教会、何か起こらないように見えても、復活の主イエス、約束のみ言葉を信じて、歩みます、復活の証人として走らせて下さる一日にしてください。
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