恐れのない人は誰だ!(ヨハネの福音書18;1-14)今日は主イエス・キリストが十字架にかかる前に、イスカリオテのユダに裏切られてgradenで捉えられようとする内容が、QTの箇所です。ユダはユダヤ人の役人たち(祭司長、パリサイ人たちに送られてきたメンバー、本当の陰謀をいだく人々は、いつも後ろに隠れます、潜みます、責任を持たないようにして、他に責任をとらせます、恐れがあるからです。罪のある恐れです)また、1隊の兵士たちを連れてきます。それは、恐れのあるところ、人は権力に、暴力に頼ります、恐れがあるからです、勇気のある人は一人でたちます、確信があります、隠す必要があります。今日、一番恐れるべき、一番裏切られて怒ってもおかしくない方が、一番恐れがありません!そうです!イエスです。自ら誰を捜すのか?と三度尋ねます。そして、「それは私です」と自ら言われます、恐れのある人間なら逃げたり、反抗したり、知らない不利をするのが、自ら『誰を捜しているのか?』そして『それはわたしだ、あなたがたに言ったでしょう~』8節。イエスはかえって言われて、捕らえに来た人たちは、か...えってあとずさりをして、地に倒れてしまいます。それは、どちらが捕らえに来たのか、大勢なのか分からない態度でした。イエスの恐れのない態度は、秘訣はどこから来るのでしょうか?それは、①9節『イエスが言われた言葉が実現するためであった』という、神様のみ言葉への実現がなされることへの、確信でした、今日、神様のみ言葉の約束をつかみ歩みます。目の前の状況が大変でも、主のみ言葉の約束をつかみ、歩みます。②神様の計画への、主イエスの愛と従順は怖れを追い出します、神様の救いの計画の情熱、涙、愛を持って自ら従われました。使徒ペテロがしもべマルコスの耳を切り落とした時に11節『剣を鞘に収めなさい、父が私にくださった杯を、どうして飲まずにいれよう』という従順です、力に力でFIGHT FIRE WITH FIREで戦うとしたペテロに、信仰を持って立っているイエスがいます。③クリスチャンの最大の戦い、クライマックス、祝福は自我が崩れることです。十字架の命令にさえも、したがったイエス!人々に引きずられて十字架にかかったのでなくて、捕らえに来た人々は恐れて、陰謀を抱く祭司さえもくしくも、人間の思いから『聖書の預言どおりに、人々の救いのために十字架でイエスが罪を自ら背負ってくださって死なれる事で』救いをなされました。今日、主イエスの愛と従順に習って、ひごとに自我に死ぬこと、砕かれていく祝福、平安を求めていきます。主よ、助けてください、あなたの心を私の心とできるように
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