完了した(ヨハネの福音書19章23-30節)30節『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、完了した、と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった』イエスの人生は、最後まで任せる人生でした、自分で生きるのでなくて、神様に生かされて、神様の心を行う人生でした。それは、最後まで自分であがくこともなく、主にゆだねる人生が、最高であることを示す、人生でした。神様の心をなす人生でした。その人生は、神様の心を完了した、完成させた人生でした、主の人類の救出計画を完成させられた人生でした。私はどうでしょうか?神様の心を行い、生きて、従順しているのでしょうか?神様の心を完成した、完了した、という人生を今日も生きてるのでしょうか?主の従順は、神様の心を完成させました。そのために、私は救われたのです。
北米LAカウンティトーランス(TORRANCE)にある日系ジュビリー教会のブログです Add:19950 mariner ave #208 Torrance california90503 USA 礼拝時間:日曜日午後1時から 連絡先:minoru@sarang.org
Tuesday, March 31, 2015
不敬虔の者のために死なれたイエス(ローマ5;6-11)
不敬虔の者のために死なれたイエス(ローマ5;6-11)6節『私たちがまだ弱かった時、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました』キリストは、神様の定められた時に(それは、創造のときから人間が堕落したときに)人間を救う、と決めてくださいました。どうしても、あなたを愛している、あなたを取り戻す、と決められました。『正しい人のために死ぬ人はほとんどありません』これは、事実だと思います。『情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう』これも、事実だし、あるいはいるでしょう、が正しいと思います。しかし、宣教の愚かさは、イエスの犠牲を持って、私たちが神と和解することが出来たのです。私たちの中には、救われるべき理由が何一つありません。神様にとって、して得なことが何一つないのです。神の怒りを取り除くのは、キリストの血だけです。神様の命をえるのはキリストの命だけです。今日、私が敵世要すべきことは何でしょうか?それは、①私にとって、損だと思えること、人に犠牲をして愛すること、②主イエスを大いに喜ぶ人生を持つこと、③その大いに喜ぶ理由であるイエスについて伝えていくことです。④その主イエスに従うことです、今日のリビングライフの例話のように、リンカーンに助けられたもと奴隷だった人がリンカーンに喜んで、自らついていったように、私を自由にした主人、最高の主人についていきます。
十字架の言葉を教えているか(受難週QT:第一コリント人への手紙1;18-25)
十字架の言葉を教えているか(受難週QT:第一コリント人への手紙1;18-25)18節『十字架の言葉は、滅びにいたる人には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です』THE MESSAGE OF THE CROSSは、神様の力です、神様の知恵です。それは、人間の力では救えない自分を、人間の知恵では人間を救うことが出来ないことを救った知恵です。それは、世間的にみたらばかかと思えるかもしれません。神様がどうして死なないといけないのでしょうか?しかも、人間のために。さらに罪びとのために。ユダヤ人はメシアである印を求めます。ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、最大のしるしは聖書の約束どおりに、メシアが来られて十字架にかかったことです。知恵を追求しても、人を救うことは出来ません。いくら知恵があっても、方法論があっても、人を救うために命を捨てられた方にはかないません。また、人間の知恵では真理に到達することが出来ません。イエスはあえて宣教の愚かさを持って、私たちを救ってくださったのです。神様の知恵が人の知恵よりも劣ることがあるでしょうか?!神の弱さは人の弱さよりも強いのです。→ギリシャ人でも、ユダヤ人でもすべての人の入っていって、受けれいれることの出来る救いを下さったのです。はたして、私はキリストのゆえに愚かになっているのでしょうか!?その救いを、THE MESSAGE OF THE CROSSを伝えているのでしょうか?神様が愚かになるくらい、私を死ぬまで愛してくださいました!感激でないですか?人類の知恵では答えの出ない人生に、イエスがANSWERになってくださいました。今日、この受難週、その主イエスのために愚かに思われても、宣教していきます。主イエスの十字架だけを伝えさせてください。
Sunday, March 29, 2015
生まれ変わるチャンスをもらったら、変われるのか?それともそのままか(1KINGS2;36-46)
生まれ変わるチャンスをもらったら、変われるのか?それともそのままか(1KINGS2;36-46)今日はソロモン王が、シムイについて裁きをするところです。36節『自分のためにエルサレムに家を建てて、そこに住むが良い。だが、そこからどこへも出てはならない』37節『出て、ギデロン川を渡ったら、あなたは必ず殺されることを覚悟しておきなさい。あなたの血はあなたの自身の頭に帰するのだ』ソロモンは、シムイに対して殺すことをせずに、命令に背いた場合に処刑する名分にしました。これは、リビングライフの解説に書いて通りに『シムイにとって新しい機会でした』彼が生まれ変わって、生きるチャンスでした。シムイは、アブシャロムに追われたダビデを呪ったり、ダビデが帰って戻ってきたら、迎えたりと行ったり、来たりの人格でした。それは、まさにシムイにとって新しい人生の機会でした。しかし、シムイは自分の奴隷が逃亡した時にガテのアキシュのところにいって、取り戻しました。しかし、それは王の約束、命令、権威を軽んじることでした、まさに、見逃してもらえるだろう、というところでした。ソロモンは、シムイの性格を見透かしてこの命令を与えたかもしれません。しかし、それは、性格が裏表ある彼には生まれ変わるチャンスだったのです。主の権威に従う、主の立てた王様に従う、神様のみ言葉に従う、ことから「私が変われる」チャンスでした。その祝福をダビデ王は受け、ソロモンに受け継いで生きます。今日、①聖書のみ言葉に従うことを軽んじないようにします。②主の権威に従っていきます。③主が変えてくださるチャンスを下さった時に、かえられる恵みを受けていきます。
今度は上手くいかなかった(罪は必ず報いが来る)1kings2;26-35、
今度は上手くいかなかった(罪は必ず報いが来る)1kings2;26-35、今日はソロモン王が、祭司エプヤタルに「ダビデ王と苦楽を共にしたために、命はとらない、しかし祭司職を罷免する」という箇所、そして長くダビデの将軍であり、優秀な将軍でありつつも、正しく善良な2人のイスラエルの将軍アブネル(平和の時に、ダビデに王権を渡すために来た時にだまし討ちにされました)、ユダの将軍アマサ(ダビデが任命したのに、ねたみ、やはり闇討ちにされました)どちらも敵から味方へ来た時に憐れみを受けたときに殺されたのです。しかも、ダビデの知らないうちに王命を無視してやりたい放題をしたのです。まず、①エプヤタルへの裁きは見事としかいえません。憐れみをもちながら、祭司エリの家族への言葉が成就しました、それは、反逆よりも、神様の祭司の働きをいい加減にしたり、それは神様を馬鹿にした、あなどった、ということです。命を助けられたことよりも、もっと恥ずかしいことです!情けないことです。→わたしたちは、主の働き、奉仕をベストを尽くしているでしょうか?まさか、あなどることがあってはいけません...。それは、最後に(人生の最後に)必ず裁きと恥ずかしい、情けない、ことになります、主は決して罪をそのままにされません。神様は決して侮られる方ではありません。今日、主の前にベストを尽くして行きます。②ヨアブですが、勇敢な将軍でした。イスラエルを、ユダを救ってきました。しかし、彼の勝手な行動、ダビデ王の前にも、主の前に、人々の前に裁きが下るときが来ました。主の御心とはなれて歩む人生には必ずさばきがあります、恐れないといけません。彼の墓は荒野にある彼の家に(荒野に家がありますか?)英語では、out in the countryです、あれだけ、国のために勝利をもたらし、と錯覚した将軍に、活躍した、という将軍の最後は悲しい、惨めなものです。最後の時まで、主の裁きを恐れて、主の心の中で歩んで生きましょう。また、ソロモンの裁きは全く見事です、いやらしいところがありません(これすごいです!)。それにふさわしい裁きをします、私心がありません。そして、ダビデの家系から罪のきよめをします。祝福をgetするために、きよめがなされます。罪からoutし、洗い出していきます。血をぬぐい、foreverのpeaceを受けていきます、素晴らしい世代交代、祝福の遺産交代です。今日、しゅのきよめ、罪の清め、を受けに受難週を準備していきます、今週の働きに、わたしの人生に、教会に主の祝福の癒しがありますように、その永遠の王座の祝福、平和を祈りつつ、受難週仕え、歩みます
Friday, March 27, 2015
主を認めない人は、恵みを知らない(1KINGS2;13-25)
主を認めない人は、恵みを知らない(1KINGS2;13-25)アドニヤは、ソロモン王にしもべを殺さないと誓ってください、といって祭壇の角を握って、神様の祭壇を利用してまで、更に憐れみを受けてまで、生かされたのに、ソロモンの母バテシュエバのところにいって、15節『ご存知のように、王位はわたしのものであるはずですし、すべてのイスラエルはわたしが王となるのを期待していました』なんということでしょうか!①アドニヤの心には、未だに野望、野心があり、自分は王になるはずだった、人々もそう期待していた、というのです。②未だに、自分が救われたこと、あわれみをうけたこと、ゆるされたこと、恵みを受けたこと、生かされていること、自分の状態がわかっていなかったのです。アドニヤは『それなのに、王位は転じて、わたしの弟のものとなりました。主によって彼のものとなったからです』アドニヤは『主によって彼のもの』と言いました。彼にとって、主は単なる言葉であり、単なる神様のひとつ、だったのでしょうか?!主であるなら、神様の計画、王に立てられたのはソロモンであることを認め、従わないといけ...ないのです。アドニヤは主に、主の計画に従わなかったこと、罪を認めなかったのです。③アドニヤは、未だにどころか?全く分からなかったどころか、もっと悪くなっていたのです。アドニヤは、母であるバテシェバを見くびり、馬鹿にして、利用しに行ったのです。『どうか、ソロモン王に頼んでください。あなたなら断らないでしょうから。シュネム人の女アビシャグを与えてください』と言いました。その結果は、22節『なぜ、あなたはアドニヤシュネム人の女アビシャグを求めるのですか。彼はわたしの兄ですから、彼のために、王位を求めたほうが良いのではありませんか。彼のためにも、祭司エプヤタルやツェルヤの子ヨアブのためにも』そう言って、ソロモンは主にかけて誓って、アドニヤは、きょう、殺されないといけません。そうして、殺されました、愛する皆さん、わたしは、はたして主の前に許されたものとして、恵みうけたものとして、かえられているでしょうか?それとも、もっと悪くなっていないでしょうか?また、人を見くびり、利用したり、(逆に利用されないように)することがないでしょうか?また、リビングライフの適用は、①神が許されないのに今も執着していることがありませんか、②神の御心にあって受け入れるべきこと、拒絶することは何ですか、でした。今日、主を認める人生、リーダーシップを持って生きます
Thursday, March 26, 2015
野外礼拝のお知らせ 야외예배와BBQ 4월26일
LAジュビリー教会では4月26日の午前11時から野外礼拝とBBQをします。 参加費は5~7ドル(席上献金あり:自由) 家族や友人の方と一緒に気軽に遊びに来てください。 楽しく礼拝をして、BBQと楽しく遊びましょう場所:DEL THORONE PARK...
3401SPENCER ST TORRANCE CA90503時間:午前11時から
따뜿한 계절되었습니다
잘 지네세요?
저의LA jubilee교회에세
야외예배와 BBQ을 4월26일 오전11시부터 합니다
비용은 5-7불입니다
가족와 친구와 함계 오세요
2種類の人々(1KINGS2:5-12)
2種類の人々(1KINGS2:5-12)ダビデは、ソロモンに神様の律法を心から守ることが祝福である、と伝えた後に、2種類の人々の裁きを知恵を持って行うように言います。それは、①将軍JOABとシムイです。彼らは平和な時にだまし討ちをして将軍や勇士を殺したり、またダビデ王がアブシャロムに追われた時に呪いの言葉を掛けながらも、出迎えたために一時的にゆるされたひとです。しかし、二人とも『彼のしらが頭を安からによみに下らせてはならない』と言われます、人生の最後にこのような結末を迎えるとは何と厳しく、難しいことです。まさに、神様の言葉をも待って生きてきたのか?その報いを得ることになります。逆に、②バルジライの子らには恵みを施し(7節)、彼らをあなたの食事の席に連ならさせなさい、と言います。それは、ダビデがアブシャロムから逃げた時に彼らはわたしの近くにいたからだ、とあります、神様を愛し、人々を愛し、苦難の時にこそ一緒にいる人には大きな永遠の祝福があります。私たちはどのような時も愛しているのでしょうか?!ともに愛していきます。そして、もう一人はダビデです。彼の死を迎える時に、神様のリーダーとしてダビデの町を残し、40年間の統治をしていきました。その中で7年間はヘブロンで、残り33年間はエルサレムでした。多くの困難がありつつも、主に従い、このような業績、主のために多くのことを成し遂げました。私もそのようになりたいです、しかし、まだまだ遠すぎるし、足りないものですが、主を愛して仕えていきます、主よ、恵みを注いでください。
幸いな人生の秘訣は、主の戒めを守ること(1KINGS2;1-12)
幸いな人生の秘訣は、主の戒めを守ること(1KINGS2;1-12)ダビデ王は死ぬ日が近づいた時、ソロモンに言いました。『わたしは世の全ての人の行く道を行こうとしている』強く、男らしくありなさい。①ダビデのすばらしいところは、死ぬことを、すべきことを受け入れていること、立派な姿勢を持っているところで、最後が美しいのです。②ソロモンに、SO, BESTRONGと言います。人してあるべきこと、そして男として(これも、大事なことです!聖書の言う男らしさ、なんでしょうか!)人間として歩むべき基本を言います。また、③主のルールを守ること、モーセからの律法の戒め、命令、定めを守るようにと言います。わたしたちは、聖書の教えをも待っていて生きているでしょうか。今日のリビングライフのように『幸いな人生の秘訣は、秘密は、神様のルールを守ること』にあります。律法は、人を縛るためでなくて、幸いな人生のディレクションを示します、人のためにあるものです。そして、④4節「道を守り、心を尽くし、精神を尽くし、誠実を持って神様の前を歩むなら」神様の前に外見でなくて、心からの生き方として歩むように言います。キリスト教は宗教ではありません、心も無いのに、信じることもないし、キリストが本当だから信じて、そこに人生の大事な価値観を置いて生きるのです。ダビデの王権が、単なる宗教国家でなくて、本当に神様が治める国になるのは、心から生きているからです。⑤ダビデは、大事な神様の約束をソロモンに伝えます、一番の大事な遺産は何でしょうか?それは、信仰継承です。神様の祝福の約束です。⑥主に従う時に、何をしても、どこでもさかえる、本当の自由があります。主にある信仰の約束を受け継いでいきます
Wednesday, March 25, 2015
神様の権威に従う時、必ずなる!(1kings1:28-37)
神様の権威に従う時、必ずなる!(1kings1:28-37)ダビデ王にバテシュバ、預言者ナタンが王の継承について言った時に、ダビデ王は決断し、行動します。29節「王は誓って言った,わたしの命をあらゆる苦難から救い出された主は生きておられる」王は誓って言いました。それは、①主の前に誓うことです、イスラエルが単なる人間の力によってたてられた軍事国家でなくて、神様の治める、神の権威の元にある国家だからです、②それは、自分の人生のあらゆる苦難から救ってくださった、という信仰の遺産を持って継承します、③またダビデは迅速に行動します、32節、祭司ツァドクをよび、預言者ナタンを呼び、まず神様の前に油を注ぎ、人々の前で王とさせることにします、④ベナヤを呼び、その実行をさせます。神様の心は必ずなります、アドニヤの勝手な行動、反乱に近いことがありそうでも、必ず主の権威により実行されます。今日、主が必ずなされることを信じ、いのり、人を送ってくださること信じ、伝道していきます、すべては主の権威の中にあります。私のをすべての苦難から救い出される方は生きておられます
あなたは神様の心を語るadviserを持っているか?(1kings1:11-27)
あなたは神様の心を語るadviserを持っているか?(1kings1:11-27)預言者ナタンは、アドニヤが勝手に王位に即位しようとした時に、ソロモンの母バテ・シェバにところに行きました(この王子ソロモンにところに直接にいかないところも、ポイントな気がします)。ナタンは、12節「助言をいたしますから」と言って彼らの命を救うだけでなくて、真の王様を立てる働きをします、①わたしは、このような危険の時に、また何よりも神様に心を行う人を、友人を持っているでしょうか。単なる友人でなくて、単なる知り合いでもなく!②預言者ナタンは、神様のみ心を知っていたのでしょう。そのことを知恵を持って、迅速に行動します。バテ・シェバにどのように王に話し、自分がどのタイミングで出てくるのか!?まで考えて、助言します。③バテ・シェバはそのとおりに実行します。危機の時にも、主の助けては必ずあります、必ずきます。自分で高くなろうとしたアドニヤに、彼に与したものたちは、完全に準備したように集まっても、必ず神様の裁きがきます。それを信じる時に人間的な恨みから復讐しません。④また、ナタン...は、そのタイミングを逃しませんでした。アドニヤが勝手に王位につこうとした危機的な状況に、即座に行動しバテ・シェバにあい、助言をし、行動させました。⑤そして、ナタンは王の決定を促させました。決してその自分の居るべき場所から行きすぎて王にプッシュしたり、越権行為をすることがありませんでした。これも大事なことです。ナタンは以前にダビデ王が姦淫の罪とそれを隠すためにウリヤを殺人した時に、ストレートに指摘し、悔い改めに導いた人です。今回は、神様の心とタイミングを伝えるために動きました。⑥そのソロモンが王位に就くとは、それをナタンが助けるとは不思議なことです。しかし、主はソロモンを愛された、とあります。ナタンは主の心を行うことに従いました。そこに、人間的な感情が働くことがありませんでした。今日、主の心に従って動いていきます、知恵とタイミングを逃さないように歩みます。
喜びの叫びが、地を裂いた(1KINGS38-53)
喜びの叫びが、地を裂いた(1KINGS38-53)ソロモン王の即位にさいして、2種類の反応があります。①ダビデ王とイスラエルの民は、大喜びで歓声を上げて「地がその声で裂けた」とあります。ダビデ王はそのBEDの上で主を礼拝します。彼のすばらしいところは、主の祝福、契約、を次の世代に、もちろん、神様の御心の世代にバトンタッチしたときにねたまず、喜び、その祝福がどれほど素晴らしいのか?知っていることです。そして、最後まで堕落せずに主を礼拝したことです。彼の人生に失敗がなかったわけでありません。しかし、過ちを犯したときに悔い改め、大事なときに主に選び、従うことを知っていたことです。もう一つの反応は、②アドニヤと彼に組した人々の反応です。彼らは恐れて、身震いして、逃げていきました。神様の心を聞きもせずに、勝手に王位につこうとして、王についていって、自分の権力を増やそうとしていったJOABなどの、人々です。神様の心がなされたことに喜ぶ人に祝福があります。また、神様の御心にたいして自分勝手な反対勢力がたっていたときも、神様の御心が逆転でなされるときに喜べる人が...幸いです。たとえ、自分にとって反対の勢力、勝手な攻撃があっても、神様の御心は必ずなされます。今日、主のみ心を信じていきます。どんな反対の中でも、主のみ心は必ずなります、その日を信じて、どのような苦しい状況の中で信じていきます。本当に大変ですけど。聞いているでしょうか?!神様の導きを歩んだときに、なされた神様の喜びの声を!神様の心の王様、リーダーシップが立てられたとこに喜びを!「喜びの声が、叫びが、地を裂いた」とあります。王様の座とは、人の有力さや、有能さや、知恵で勝ち取るものでなくて、主イエスが、神様が油を注がれた、祝福のあるかどうかです?そこに、喜びが地に満ちます。また、今日べつに注目すべきことは、③ソロモンのリーダーシップです。それは、祭壇の角をつかんで自分の命を助けることを求めたアドニヤに対する処分です。祭壇の角をつかむ、という宗教的な、冒涜的なことをしたアドニヤに王位につくこの日は、あわれみをそそぎながら、52節:『彼がりっぱな人物であれば、髪の毛一本でも地に落ちることがない』『彼のうちに悪があれば、彼は死ななければならない』みごとな、立派な裁判であり、リーダーシップです。彼の生き方に責任を問います。はたして、私のリーダーシップはどうでしょうか、恥ずかしいしだいですが、主にあって成長して、変えられていきます。
Sunday, March 22, 2015
神様が高めることを認めないと大変なことになる!(1KINGS1;1-10)
神様が高めることを認めないと大変なことになる!(1KINGS1;1-10)今日の聖書箇所は、1節『ダビデが年を重ねて老人になっていた。それで夜着をいくら着せても暖まらなかった』という自分の体を治めること、王としてRETIREMENTするときが来た、というエピローグから始まります、NEXT GENERATIONの王を立てるときが来た、ということです。今回は①ダビデ王のために彼の家来たちが美しい娘を与え世話をするようになった、しかし、王は彼女を知ろうとしなかった、とあります。多くの王が年老いてから若い側室のために失敗をし、混乱を起こしますが、ダビデは二度も異性関係で間違いや失敗を犯しませんでした。その中で、ハギテの子アドニヤは自ら王になろうとします。旧約聖書の世界では、特にイスラエルには、神様の国として、主なる神ご自身が王を立てるものでした。ここに危機が迫っていました。彼は6節『あなたはどうしてこんなことをしたのか』と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった、そのうえ、彼は非常な美男子で、』という優等生で、失敗の無い人生でした。しかし、それはもしかして、彼の義を立て、自分の力でおうになろうとしました。もしかしたら、彼の優等生の仮面には、影に隠された野望が長く隠されたのかもしれません。②神様が立てることを認めることが出来ないのなら、それは大変なことになります。主のおかれたポジションで輝かないのなら、惨めな滅亡を歩みます。③自分の力で人を集めようとする時に、逆に主の計画急がせ、主の栄光を輝かせ、自分が悪に用いられることになります、今朝、主の計画、主に立てられる人生を歩んでいきます、いや、聖書って本当に読めば読むほど面白いです!最高!!!
好き勝手な人生にサヨナラさせるイエスの愛(ヨハネの福音書21;15-25節)
好き勝手な人生にサヨナラさせるイエスの愛(ヨハネの福音書21;15-25節)15節「イエスはシモンペテロに言われた、ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に、私を愛しますか?」イエスは、三度イエスを否認したシモンペテロに三度私を愛するか?と聞かれます。また、わたしの羊を飼いなさい、と使命を確認されます。この人たち以上に、これ以上ない愛で愛しますか?と言われます、弟子の人生とは、失敗をしない人を言うのでなくて、①イエスを全てで、それ以上が無い愛で愛すること、愛したい、人かどうか?②そして、イエスの仕事をミッションを、SHAREしえくれます、いや、神様がともにしてくださいます。③神様の心に従う人生は、愛することから出来ます、また、自分の肉からでなくて聖霊によらないと出来ません。ペテロは自分の情熱で、肉でしようとしまいましたが、④人生、その生き方、その死が神様の栄光の人生になって行きます。⑤『ペテロはイエスの愛された弟子はどうですか?と尋ねましたが、~あなたは私に従いなさい』と呼ばれました。比較でない、自分にしか歩めない人生を主が歩ませます。ヨハネの福音書をまとめる時にSENAには、LOVE LETTERの絵が描かれていました、イエスのラブレターである聖書、私たちに送られています、また次の人々に送っていかないといけません、今日、主イエスの愛がまた私を変えてくださることを信じ、歩みます
Friday, March 20, 2015
イエスは生活の現場で弟子たちに現れて、目的を、使命を回復された(ヨハネの福音書21;1-4)
イエスは生活の現場で弟子たちに現れて、目的を、使命を回復された(ヨハネの福音書21;1-4)5節『イエスは彼らに言われた、子供たちよ食べるものがありませんね。』6節『イエスは彼らに言われた。舟の右側に網を下ろしなさい。そうすれべ、とれます。そこで、彼らは網を下ろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることが出来なかった』イエスはもう一度、弟子たちに現れてくださいました。今度はエルサレムでなくて、彼らの故郷である、生活の場である、以前にしていた職業のある、テベリヤ湖にてでした。これは、似ていると思いませんか?弟子たちの最初のCALLINGのあと、一年近くしてイエスが説教している横で弟子たちが、網をつくろいながらいた箇所です。そこで、イエスは網にあふれる魚を与え、弟子たちが再献身して、網を捨てて従うところです。イエスの復活に出会いながらも、その感動がありながら、自分たちの目的、使命を失い、生活のためにか?必要のためか、何かせずにおられなかったのか?漁師に戻っている弟子たちのところにイエスは現れてくださいました(エルサレムからガリラヤはある...程度の距離があります)。イエスは再び弟子たちをCALLINGされます。それは、責めるためでなくて、回復のためです。今日の黙想、①イエスはRIDE ON TIMEでわたしの生活の現場で現れてくださる、②イエスは再び愛と回復を持って主イエス使命ある人生へCALLINGしてくださる、③神の言われたことをそのまましている時に、神様のHARVESTがくる、それを信じているのか?神様、大きなHARVESTを起こしてください、徹夜しても何も取れない弟子たちに奇跡を起こされたイエス、④奇跡はそれ自体がすごい、でなくて。イエスは主であることを、生活で、ミニストリーで知ること、イエスがともにいること自体が奇跡であり、イエスがいるなら奇跡はそのままついてくる。奇跡を、再CALLINGを起こしてください、⑤イエスの原理は、弟子へ愛と集中の原理を持っています。群集に四方八方にばらばらに目的無しに話しません。神様のHARVESTに、期待して、主と共にいるなら安心して、進みます。神様のターニングポイントに向かっていきます。イヤ、’くるほうが正しいかも
Thursday, March 19, 2015
信じて命を得るために(ヨハネの福音書20章24-31節)
信じて命を得るために(ヨハネの福音書20章24-31節)復活のイエスが弟子たちに現れた時に、トマスだけいませんでした。彼は残り全部の弟子たちが『私たちは主を見た』と言ったのに、『私は、その手に釘の後をみ、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れて見なければ、~決して信じません』と言いました。これも、すごいですね!ある意味尊敬もの(その必要は無いか)?の強情さなのか?本当に自分の見たもの、経験したもの、さわったもの、しか見ないのか、信じないのか?の果てに来る考えです。イエスは子のようなトーマスにわざわざ同じシチェエーションで『ドアも閉ざされている上体で』平安があなた方にあるように、と言われます。そして、あなたの指をここにつけてわたしの手を見なさい、~信じないものにならないで信じるものになりなさい」と言ってくださいます。それは、主イエスの愛です!わざわざ尋ねてくださって分かるようにしてくださいました。①分からない人に尋ねていく、愛が苦労がどれほどあるでしょうか?尋ねていきます。もうひとつは、STOP DOUBTING AND BELIEVE27節という、神様のメッセージです。私たちは、現実に神様をこの肉眼で見たのでありません。しかし、聖書を通してイエスに出会い、救われました。礼拝を通して毎週、神様に出会います。また日ごとに主イエスに祈り、会話し、聖書から神様の声を聞きます、何と素晴らしいことでしょうか?ヨハネは言います、この福音書が書かれたのは『イエスが神の子であることを、あなたがたが信じるため、またあなたがたが信じて、イエスの御名でによって命を得るためである』とあるように、②私たちの経験、考え、今までのこうあるべきだ、ということ、目の前にある現実だけに頼る姿勢が主イエスの命ある人生をふさぐことがないでしょうか?今日も、主イエスを信じて、わたしの現実をこえて働く方に期待して歩んでいきます。
Tuesday, March 17, 2015
イエスの死はIMPACTをもたらす(ヨハネの福音書19;38-42節
イエスの死はIMPACTをもたらす(ヨハネの福音書19;38-42節)イエスの死のあとに、弟子であったことをユダヤ人を恐れて隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスの体をとりかたずけたい、とピラトに願いでました。38節。普通は、イエスが生きているときに共に活動して、でていくものです。しかし、ヨセフは逆でした。イエスの死を見てピラトに願い出たのです。それは、もしかしたらお金を払わないといけないことかもしれませんし、何よりも公的にイエスを葬ることを言ったことは、ユダヤ人にも、ローマ人にも公になる、信仰告白でもありました。また、次によるイエスとのところに来たニコデモもイエスの葬りのため没薬をもってきました。これも、決して少なくない出費、ささげものでした、前は夜にイエスのところに来たニコデモ(人目を避けてきた、知られないように、自分を守ってきたきた)が、イエスの死を前にして自分の信仰、イエスへの思いを告白し、表明しました。日本で、ほかの国でもクリスチャンであること表明し、あかしすることに恐れがあるときや、ひとがあります。しかし、今日の聖書箇所は、イエスの死を前にしてかえって、勇気をもって(いえ、そんなことを考えなかったことでしょう)公に出てきた人がいます。彼らがいなければ、イエスの体は十字架に放置されて、獣や、鳥についばまれることが起こる可能性さえあったわけです(もちろん、神様の計画で彼がいましたが)。今日、イエスの死を前にして、大胆に勇気を持って(いや、勇気をもってと考える必要なく)イエスを証します。イエスの死は人を変えるIMPACTを私の中に、人々に、ニコデモやアリマタヤのヨセフ以上に、現在も与えることを信じます。
確かに死なれたイエス(ヨハネの福音書19;31-42)
確かに死なれたイエス(ヨハネの福音書19;31-42)34節『しかし、兵士のうちのひとりが、イエスのわき腹を槍で突き刺した、すると、ただちに血と水が出てきた』ある友人が言ったことですが、「私が死ぬときには静かに死なせてください」と祈ったそうです。人にとって、クリスチャンにとっても、死は未体験のもです。クリスチャンが死の後に天国があると信じていても、感情的には恐れがあるかもしれません。そのような中で、イエスは確かに神様の子でありながらも、私のために(私たちのために)十字架で死んでくださいました。それは、確かな死でした。医学的に、人の体の中の水と血は混ざったり、しないそうです。混ざってしまうときは死を迎えたときだそうです。ですから、イエスが死んだときに「槍で突き刺したときに水と血が混ざって出てきたのは」死んだ、ということです。仮死状態ではなかった、ということを証明します。多くの否定的な意見を言う人が仮死状態でなかったのか、などいろんな方法で否定の意見を述べます。しかし、イエスは確かに死んでくださったのです。クリスチャンになって長くたっていながら、イエ...スが死んだということをまだまだリアルに感じたり、考えることが深くなかった、と今朝のQTをしながら思わされました。そして、36節『このことがおこったのは、彼の骨が一つも砕かれないという聖書の言葉が成就するためであった』とあり、また37節「また聖書の別のところには、彼らは自分たちが突き刺した方を見る」と言われているからである、とあります。死んだ後に自分が思うようにすることができません、仕掛けやトリックをしようとしても、反対勢力のユダヤ人たちがいて、死刑を執行するローマの軍隊がいては何もすることが出来ません。イエスは確かに聖書の言われるとおりに十字架で死んでくださいました。それは、私たちの救いのために何一つごまかしのない、嘘のない、ずるのない、真実な肉体の、実際の死でした。今朝、その主イエスの死に感謝、賛美をささげます。私のために死を体験し、そこまで神様の心に従順して、愛してくださったイエスに、涙の感謝をささげます。もっと、主イエスの愛を知らせてください。
復活の証人として走らせてください(ヨハネの福音書20章1-10節)
復活の証人として走らせてください(ヨハネの福音書20章1-10節)十字架で死なれたイエスをLOVED(異性間のでなくて)してマグダラのマリヤたちは(女性たちは、弟子たちは行ってないのがすごいです)イエスの体を固有を塗りに行きます。ところが、そこには石がすでにREMOVEDされたENTRANCEがあり、空っぽの墓にしかりませんでした。女性たちのすばらしいところは、イエスを愛して「週の初めの日」に(待ちきれずに、)朝早く暗いうちに(危険も顧みず、)イエスを慕い求めたところです、弟子たちはそうしていません。もっとこの世の勢力、恐れ、計算の中にいたかもしれません。女性たちの信仰、愛に脱帽です。しかし、空っぽの墓を見たときに「イエスが復活した」とは思いませんでした。また、女性たちに呼ばれたシモンペテロも、イエスに愛された弟子も墓に走っていき、空っぽの墓を見ました。そこには、確かに7節『イエスの頭に巻かれた布切れは、亜麻布と一緒になく、離れたところに巻かれたままになっているのを』見ました。それは、万が一イエスを誰かが持っていったのなら『わざわざ脱がせることはし...ないはずです』無造作に、置かれていることころは、まさに復活のイエスを証拠立てます。しかし、9節『彼らはイエスが、死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである』とおり、弟子たち、女性たちは心が閉ざされていました。人間がよみがえるはずがない!と。しかし、よみがえられなければ、神様でありません。素晴らしい人間で終わります。また、何よりも神様の救いが、私の人生に、命に起こりません。もしも、イエスが復活されたのなら、誰もを恐れることなく、というよりも、じっとしていられないはずです。イエスが復活した、!宣言して走り回るはずです。今日のリビングライフでは、復活のイエスにお会いせずにいるところで終わります、目にはめえていません。しかし、確かに聖書の約束どおりにイエスは復活されたのです。私たちの現実は、大変なことが待っていて、少しも回復兆しがないかもしれません。しかし、確かに約束を下さったイエスは復活されたのです、もう一度死ぬことでなくて、今度は永遠に死を破ってよみがえられたのです。今日、私の人生、奉仕、教会、何か起こらないように見えても、復活の主イエス、約束のみ言葉を信じて、歩みます、復活の証人として走らせて下さる一日にしてください。
Saturday, March 14, 2015
自分の王を十字架につけたJEWS(ヨハネの福音書19;12-22)
自分の王を十字架につけたJEWS(ヨハネの福音書19;12-22)JEWSは、宗教学者たち、大祭司たちは、自分たちの王が『カイザル以外にありません』と神様を認める人にらしかなぬ、ことを言います。そして。『イエスを除け、除け、十字架につけろ』と要求します、というよりも、群集を使って(そこには責任の無い、陰に隠れた)脅迫をピラトにします。そして、ゴルゴダ(どくろ)と呼ばれることところに、イエスを十字架にかけます、それは、呪いと死を意味します。自分たちの王を、神様をイスラエルは十字架にかけました。それを通して、世界の民は救われて、罪許されて、ハレルヤ!なのですが、ユダヤ人たちは、自分で王なるイエスを十字架にかけたのです。しかし、それは霊的に言えば、わたしがイエスを十字架にかけたのです、わたしの罪のために。今日、わたしの王としてこられたイエスが、十字架にかかってくださったことを感謝し、感激しました。また、主よ、本当に私の心の王として今度こそ、日々、私の心の王座にお座りください。主よ、感謝します、賛美します、悔い改めます。
Friday, March 13, 2015
真の権威に立脚する時に恐れがない!(ヨハネの福音書19;1-11節)
真の権威に立脚する時に恐れがない!(ヨハネの福音書19;1-11節)
今日の聖書箇所ではまず、1節『そこで、ピラトはイエスを捕らえて、鞭打ちにした』とでてきます。ピラトはイエスに罪が無いことを知りながら暴行を加え、兵士たちに『いばらの冠をかぶせ、ユダヤ人の王様ばんさいい』と嘲ります、①罪を知っていながら、黙っていたり、悪いことをするのは罪になります。それも、人の目への恐れです。また、世の中の謝った権威の上にいるために、違う行動をしていしまいます。次に、ピラトは祭司長や役人たちに『イエスを見せて、罪が無いことを示すために』と辱め、痛めつけたイエスを見せます、これくらいで我慢しろ、というわけです。しかし、それでもイエスを十字架につけろ、と主張する彼らに『自分たちの責任でしろ』と自分の負うべき責任を回避しようとします。②ピラトの権限は、ローマ帝国に与えられたものです、自分のなすべき総督としての責任から逃げようとします。それも、ローマ帝国の目を恐れて『上手に収めないといけない』またユダヤ人たちには彼らの行動に、言うべきこと、すべき責任を負うことができませ...ん。また、ユダヤ人たちは7節『私たちには律法があります』と、神様のくださった律法なのに自分の権威の利用のために、使っています。律法を持ちながら自分の罪を隠し、人を殺す段階で無理があります。③聖書を勝手に利用したり、自分勝手に神様を修正しようとする時に大変なことが起こります。この中で、ただ一人恐れないで、しかも十字架の死を前にして生きる人がいます、それは、ただ一人イエスです。何故でしょうか?④それは、この世の権威は全て神様から来るものであること、知って従っているところから来ます。だから、恐れがないのです。真の権威に立脚する時に恐れがないのです。この世の権威、パワー、プレッシャーが来ても、その究極的な神様の権威にひれ伏す人には、恐れがなく、かえって勇気があふれます。そして、何よりも⑤イエスはいわれの無い、理由の無い苦難の前にも、殴られ、馬鹿にされ、あざけられても、十字架の前に従います。→私たちはどうでしょうか?苦難の前に理由が会っても、嫌なのでないでしょうか(当たり前か?!)。しかし、イエスの苦難は理由の無い不当なものでした。いわれの無い苦難、痛み、無視を受けても、主イエスのために甘んじて受けいるでしょうか?イエスの苦難を黙想して耐え忍んで、乗り越えているでしょうか?主イエスが与えたものとして、主イエスの苦難に同席しているでしょうか?そして、そこに真のAUTHORITYを確信して、神様に従っていきます。
今日の聖書箇所ではまず、1節『そこで、ピラトはイエスを捕らえて、鞭打ちにした』とでてきます。ピラトはイエスに罪が無いことを知りながら暴行を加え、兵士たちに『いばらの冠をかぶせ、ユダヤ人の王様ばんさいい』と嘲ります、①罪を知っていながら、黙っていたり、悪いことをするのは罪になります。それも、人の目への恐れです。また、世の中の謝った権威の上にいるために、違う行動をしていしまいます。次に、ピラトは祭司長や役人たちに『イエスを見せて、罪が無いことを示すために』と辱め、痛めつけたイエスを見せます、これくらいで我慢しろ、というわけです。しかし、それでもイエスを十字架につけろ、と主張する彼らに『自分たちの責任でしろ』と自分の負うべき責任を回避しようとします。②ピラトの権限は、ローマ帝国に与えられたものです、自分のなすべき総督としての責任から逃げようとします。それも、ローマ帝国の目を恐れて『上手に収めないといけない』またユダヤ人たちには彼らの行動に、言うべきこと、すべき責任を負うことができませ...ん。また、ユダヤ人たちは7節『私たちには律法があります』と、神様のくださった律法なのに自分の権威の利用のために、使っています。律法を持ちながら自分の罪を隠し、人を殺す段階で無理があります。③聖書を勝手に利用したり、自分勝手に神様を修正しようとする時に大変なことが起こります。この中で、ただ一人恐れないで、しかも十字架の死を前にして生きる人がいます、それは、ただ一人イエスです。何故でしょうか?④それは、この世の権威は全て神様から来るものであること、知って従っているところから来ます。だから、恐れがないのです。真の権威に立脚する時に恐れがないのです。この世の権威、パワー、プレッシャーが来ても、その究極的な神様の権威にひれ伏す人には、恐れがなく、かえって勇気があふれます。そして、何よりも⑤イエスはいわれの無い、理由の無い苦難の前にも、殴られ、馬鹿にされ、あざけられても、十字架の前に従います。→私たちはどうでしょうか?苦難の前に理由が会っても、嫌なのでないでしょうか(当たり前か?!)。しかし、イエスの苦難は理由の無い不当なものでした。いわれの無い苦難、痛み、無視を受けても、主イエスのために甘んじて受けいるでしょうか?イエスの苦難を黙想して耐え忍んで、乗り越えているでしょうか?主イエスが与えたものとして、主イエスの苦難に同席しているでしょうか?そして、そこに真のAUTHORITYを確信して、神様に従っていきます。
真の権威に立脚する時に恐れがない!(ヨハネの福音書19;1-11節)
真の権威に立脚する時に恐れがない!(ヨハネの福音書19;1-11節)今日のリビングライフには、こんな解説がありました。聖書には『愛しなさい』という言葉よりも、『謙遜になりなさい』という言葉よりも、よく使われている言葉がある、それは、『恐れるな』だ。366回使われていりる、そうです。すると、閏(うるう)年の分含めて、毎日聞き、叫び、宣言する言葉だと思いました。『MINORUよ、恐れるな!』アーメン
Thursday, March 12, 2015
Everyone on the side of truth listens to me(ヨハネの福音書18;28-40節)
Everyone on the side of truth listens to me(ヨハネの福音書18;28-40節)今日のQT箇所には、①JEWS、祭司長たち、②ピラト、③イエスがでてきます。イエスはカヤパのところで不当な裁判を受けます。それは、公式な公示もなく、それこそ律法に定められていることをまったく守るどころから、イエスを殺すために徹夜裁判をしたのです。そこへ、ユダヤ人では死刑にすることが出来ないために、ローマ人の手を借りて殺人をしようとします。28節『さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは過ぎ越し食事が食べられなくなることの無いように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった』とあります、なんと言う外見だけの行動でしょう、イエスを、人を殺そうとしておいて、徹夜の中で秘密のカヤパのところで不法裁判(あらかじめ準備をしておいたのです)をしながら、人の目に見える時間、場所には宗教的な行為をします。律法にあるからといっても、そこには、神様への心がありません。真理に属していないと、宗教だけを...することになります。ひどい外見だけ、やっておけばいい、のだろ、という心の無い宗教主義で行いだけをします。汚れって何でしょうか?神様のいないことでないでしょうか!神様の義がないことでないでしょうか!義とは罪が一つでもあれば義ではありません。人間が行為だけで、義を行えるのでありません。義を作れるのでありません。ただ、お一人イエス・キリストだけが罪を犯さずに、義であられたのです。その方に頼るしかないことを示すのが律法です。イエスは疲労の中でピラトの裁判に答えます。ピラトはあなたは何をしたのですか?35節、たずねます。当たり前の、正しい質問です。そこで、イエスは『神様の国はこの世のものでない、私が王です、』と言われます。目に見えるJEWSとか、ローマ帝国とか、そのローマ帝国に任命されて総督をしているピラトとか、その人間の権威でなくて、世の中の目に見える権威でなくて、神様の国が私を治めているのでしょうか?その真理をもって生きているのでしょうか?霊的に私の心を治めていることを認めているでしょうか?この世のすべての権威を創られた、創造された主イエスを認めているでしょうか?その神様の真理にしたがって生きているでしょうか?神様の声にしたがって生きているのでしょうか?今日の黙想、適用は、①宗教学者のようにもしかして、形だけの奉仕をしていないのか?涙を持って、感動を持って毎週奉仕を、毎日の奉仕を使えているのだろうか?、②この世の宗教、人の目に恐れて、本当に恐るべき方である、イエスの真理に属し、そのSIDEにたっているのか?、③宗教生活をして、あの人、この人と裁いていないのか?、許していない人はいないか?愛します、悔い改めます。④悪い宗教者たちさえも、神様の救いの計画をなすためのつかわれました。そのように、悪いこと、難しいことへも、神様の計画を求めて祈っているのか?期待しているのか?⑤神様の義で歩んでいるのか?人間の義を建てようとしていないか、神様の義だけ生きているのでしょうか?今日、主イエスの真理のSIDEにたたせてください、BELONGさせてください。自分の義ではなく!
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