罪びとの間に共に十字架につかれたイエス(ルカの福音書23;33-46)今日は、GOOD FRIDAYです。38節『どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスを犯罪人とを十字架につけた。犯罪人の一人は、右に、一人は左に』イエスは犯罪人とともに十字架につけられたました。それは、罪のない人が十字架につけられたことを意味します。犯罪人の十字架は彼らの罪の結果でした。しかし、イエスの十字架は自分の罪や理由があるのでなくて、人類すべての罪を背負って十字架にかかったのでした。それは、まるで「どぶの汚染水のようなところ」の真ん中に「まるで白いバラが」置かれたようでした。神様の子であるイエス・キリストが十字架につけられて、私たちの罪を背負い、呪いを受けられました。(木にかけられたものは呪われたものといわれる、旧約聖書)しかし、イエスはのろいを受けられた、というより『呪いそのもの』となられた、ということです。そこには、民衆たちが「ながめていて」指導者たちは「あざわらい」ローマの兵隊たちが「あざけり」をしたのです。この中で、誰も私の罪の代わりがイエスの十字架...と分かった人も、自分が今イエスを十字架に書けた、ときずいた人もいません。指導者さえもです。①指導者たちが彷徨うと民も彷徨います。指導者が私欲のために生きると民たちが苦しみます。今日、神様を恐れる指導者に、悔い改める指導者にしてください、と祈ります。また、アメリカの指導者たちが神様を知り、恐れますように、と祈ります。キリストに出会う人こそリーダーです。ところが、今日、人生の最後の瞬間にイエスに出会ったのは、②犯罪人の一人だったのです。彼は最初は一緒になってイエスをあざけったのに、途中で自分の罪を認め、だから十字架にかかっていることを認め、しかし、イエスが罪を犯したことのない方であることを知り、『あなたの御国の位にお付になるときは私を思い出してください』と言ったのです。それに対して、イエスは「まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と救ってくださったのです。③イエスは最後まで伝道されました、なんと感動的なことでしょうか!最後まで人の救いのためにゆるし、愛されました、今日、主イエスの救いを最後まで伝える私にしてください、と祈ります。主よ、あなたは最後まであわれみ深く、ゆるし、最後まで魂の救いのために歩まれました、その恵みを私にもください。そして、主イエスは46節『父よ、わが霊を御手にゆだねます』といって、息を引き取りました。④イエスは最後の瞬間まで、父なる神様に従順する人生でした。最後まで、神様の心を行う人生でした。そのために、神様と私(たち)の隔ての陰が取り除かれたのです。主イエスの死が、私たちに祝福となったのです。今日、主に従う祝福を与えてください、私の自我が死ぬ祝福、神様の心を行う祝福を回りに流す人にしてください。
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