Wednesday, April 1, 2015

私を生ける神に仕えさせるキリストの死(ヘブル人への手紙9;11-22)

私を生ける神に仕えさせるキリストの死(ヘブル人への手紙9;11-22)今日のQT箇所は、対照になっています。①OTの、人間の作った幕屋、やぎと子牛の血によって聖所に入る人間の大祭司、やぎと雄牛の血、牝牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、聖めの働きをして肉体を聖める、はじめの契約(旧約聖書の契約)②NTでは、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神様におささげになったその血は、どんなに私たちの良心を聖め、死んだ行いから離れさせ、主なる神に仕えるものとすることでしょう。新しい契約(内容は変わりませんが)の仲介者であるキリストが始めの契約の違反(人間たちが契約を、神様の約束を守れないために、律法を守れないために、キリストがその違反の責務を負ってくださったのです。ハレルヤ!)今週の受難週のメッセージは私の救いのために、OT旧約聖書では人間が作った幕屋に人間の祭司が立てられて、何度も、やぎや牛の血により、罪の贖いをしました。でも、それでは完全にきよめることを出来ませんでした。外見はきよめても、その心が変わる、内面が変わることがありません、いや、で...きませんでした。ところが、そのはじめの契約の違反を補うために、永遠の祭司、人間でなくて、神様の子であるイエスが祭司として、しかも、ご自分の血で私たちの罪を十字架において一度のみで、贖ってくださったのです。それは、イエスの血無しに、犠牲無しに、ありえないものでした。それは、死んでこそ有効なものでした。イエスの血潮は、私の人生を変えます、私の心を変えます、私の内面を変えます。人間の作った幕屋では、そこでの贖いでは外見を聖めて、変えても、本当の内面を変えることが出来ませんでした。しかし、旧約聖書の幕屋、あがない、儀式、それらはイエスの来られること、イエスの贖いを予型、予表するものでした。悪いものでありません。しかし、それでできなかったことをイエスがしてくださいました。今日、思わされたのはイエスは救うだけでなくて、私の人生を変えてくださったこと、私の内面を、生き方の目標を下さったことです。今日、死んだ行いから離れて、今日も生きる神様に仕えていきます。いままで、死んだ行い、罪の奴隷だったのが、自分の弱さの奴隷だったのが、イエスによって強く、主の奴隷として、義の奴隷として生きていきます、そのしゅイエスを賛美します。
 

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