PUTTING GOD IN YOUR BOX(ヨハネの福音書7;25-36)群集のうちの多くの者がイエスを信じて言った。キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか」31節、議員たち、祭司長たち、パリサイ人は「イエスを捕らえようとしました」また、殺そうとさえしました。そこに出てくるのは『ひそひそと話し合う』です。逆に、イエスは26節「公然と語っている」のです。主の心を行う人は恐れがありません。不信と脅かしの中で神様の心を宣言します。しかし、権力を持ちながらも、お金を持ちながらも、悪巧みの中にいる人は、罪の中にいる人は、(たとえ、それが宗教の中にいても)恐れ、隠れ、暗闇の中にいます。かえって、群集たちがイエスのことを見て、メシアだろうか、と考え、しるし(神様であることを示すサイン)をみて、これ以上の人がいるだろうか?と思い、イエスを信じていったのです。ところが、一番旧約性を知っているはずの宗教学者たちが、律法を一番生活の中で適用した人々が、イエスを見てわからなかったのです、というよりも、かえって迫害し、拒否する筆頭だったのです。私たちはどうでしょうか?宗教学者のようでなくても、イエスを迫害しなくても、①私の考えているイエス、神様を小さい箱に押し込めていないでしょうか?もっと、偉大な神様なのに、自分の考えに押し込めて、主が働きをされないようにしていないでしょうか?②環境が難しくて、大変な攻撃に、つかれていないでしょうか。その中でも、主なる神様は働いてくださるのに、もう無理だとか、神様の働きを期待しない、私の小さい考えに押し込めていないでしょうか?今日、手イエスにある大胆さを持って、主の心を行っていきます。もっと、すばらしい主の心を体験していきます(というか、体験しました!)ハレルヤ!
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