使徒行伝20章25節「皆さん.御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を,あなたがたはもう二度と見ることがないことを, いま私は知っています.」
今日のQTは、使徒パウロがエペソの長老たちに教えと告別をしている箇所です。パウロは①神様の国を伝え、②神様の計画を余すところなく伝え、③自分が証し出来る生活をしました。そこには、誰にも恥ずることのない、イエスの血によって買い取られた群れに仕えた人生があります。普通、人が買い取ったものを扱う、任せられる、といったら大きな負担、神経を使うことになります。自分のものでないからです。しかも、自分みずからしゃしゃりでてやると言ったのでなくて、聖霊様に任命されたのなら、これを聞いて責任を感じ、重く感じなかったら、おかしい話です。どうしたら、この責任を全うできるのでしょうか?証できる人生を歩めるのでしょうか。それは、たった一つ殉教者の生きかたしかないと黙想しました。他に方法は無いのか、考えたのですが妥協案はありませんでした。どこか、イエスのために監獄に行きました、とか死刑になりました、とかだけが殉教でありません。生き方そのものをささげるのが、聖書のみ言葉通りにするのが、殉教であり、祝福であり、キリストの聖い花嫁の生き方です。祝福の人生の生き方です。今日私の歩みが、証できる人生、殉教できる人生になりますように、まだまだ遠いですが、イエスが近く歩いてくださることを、いや共に歩んでくださることを信じます。
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