8:1 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。8:2 あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」
8:6 彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。
イスラエルの人々は、アカンの罪を告白し、罪を処分しました。その跡で、再び神様はたって、AIを攻めるように言われます.罪の清めの結果、起こる回復と主の御心がまたなされようとしていました。しかし、その回復は罪の悔い改めを神様が受け取ってこそ、神様が回復してくださってこそ起こるものです。そこで、主は再び、AIを攻めること、聖滅と戦利品の違い、を明らかにされてから、伏兵を置くように言われます。神様は具体的に指示をされます。そして、ヨシュアは全軍を率い、勇士を3万人(3倍選び)選び、伏兵を置かせます。明らかにJOSHUAが謙遜に、恐れを持って、今回の戦いに臨んだことは言うまでもありません。しかし、それと逆にAIの町の人々は、「われわれの前から逃げていく、この前と同じことだ」と予想される高慢な状態でした。その中で、JOSHUAが「主があなた方の手に渡される」という神様の再びの約束、そして「主の言いつけどおりに」行わないといけない、またそれを私は命じた、と主に従うこと、JOSHUAが主の命令を伝えたこと、宣言し、民とともに夜を明かします。何が変わったのでしょうか?主がともに折られることです。それが、最弱のイスラエルを最強に変えます。霊的にわからなかったAIの民は、この前と同じと思います。私たちも、神様がともにいないのなら、弱いイスラエルと同じです。しかし、主がともにいるのなら、最強になります。後は、主のみ言葉通りにするだけです、最善を尽くしてJOSHUAがリーダーシップをとり、行い、させたように、歩むことです。本当にあるべきクリスチャンの姿です、私の回復はそこから始まります。神様の前に悔い改め、主の何を目標にすべきか、みて、主の言いつけどおりに最善を尽くして歩みます、
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