Wednesday, August 3, 2016

罪は隠し通せない(ヨシュア7;10-18)

7:16 そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。7:16 そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。
イスラエルは、エリコの戦いで聖絶すべきことを守りませんでした。それは、たとえアカンという一人の罪であっても、イスラエルの信仰共同体の全体に影響を与えます。ひとつでも罪があったら「神様がともにいることがありません」それは、そく、イスラエルがここでまける、約束の地に入っても、神様がいないと時に、何にもない民族に、ここで敗北して全滅する、ということになります。主はイスラエルの罪を指摘されて、その罪を除き去るまで敵の前に立てない、とあります。そこで、ヨシュアはくじをひいて、罪を犯したものを取り分けます。ここで、ふと黙想したことがあります。アカンはそのときにどんな気持ちだったのか?ということです。最初、①くじを引かれるときは、「まさか、大丈夫だろう」と思っていたことでしょう。でなければ、自白するはず、です。自分の罪のためにイスラエルが敗北して、ここ約束の地に入ったのはいいですが、全滅する、後ろにも引けない、前にも引けない状態になったのです。そのことへ良心の呵責、罪のくいらためはなかったのでしょうか?(なかったから、言わなかったのでしょう)次に、②くじをひかれて「ユダ部族」がひかれたときには、「まさか」と思ったことでしょう。③次の「ゼラフ」がとられたときに、焦りが起こったことでないでしょうか?しかし、彼は告白しなかったのです。④そして「ザブディ」がとられて、本当に顔が蒼白になったのでないでしょうか。しかし、彼はチャンスのあるときに出ていかなったのです。⑤最後に自分がとられました。今日の黙想は、2つです、1)主の前に罪びとは告白をしない、ということです。そのチャンスのあるときに自分は、主の前に罪を告白できるように、します、ということです。2)共同体の中に、罪があるときに、それは徹底的に除去しないといけない、ということです、明らかにして罪を除かないと主の臨在はない、ということ。教会というクリスチャン共同体はありえない、ということです。これは、私のような足りないリーダーには、優しすぎて難しい部分です、しかし、罪のを除かないのは、まことの愛がないことです。何よりも、教会という共同体を主の前にきよめていきます。

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