懲らしめも主の愛であった!!!(1KINGS16;1-14)今日は、ヤロブアム王の一族へ神様の裁きを行ったバシャ王が、同じように「ヤロブアムの道に歩み、私の民イスラエルに罪を犯させ、その罪によってわたしの怒りをひきだした」(2節)と主に言われます。そして、「わたしはあなたをちりから引き上げ、私の民イスラエルの君主としたが」と裁きを宣言されます。何のために、バシャは用いられたのでしょう。罪への主の裁きのためです、そして、「わたしの民」であるイスラエルを導くためです。①私は何のために主に用いられたか、どこから用いられたのか?「ちり」であったことを忘れないようにしましょう、②神様が預けてくださるのは、わたしのものでありません、主の民、主のものです、その時に大事に、預けられている、使命感を持って歩むことになります。そして、主のみ言葉はまたしても(裁きのメッセージ)成就します。③神様の言葉は妥協なく、成就されます。罪への恐れを持たないといけません。謀反が起こるのも、それが出来るのも主の赦し、計画無しには起こることは出来ません。ヤロブアム、そしてバシャまでもが、主の前に罪を犯した。罪が繰り返され、そして、そのたびに主の裁きが繰り返されます。しかし、この中でおどろくべきことは、それでも「主の懲らしめ」は未だに愛である、ということです。完全な滅びでなくて、主は未だに悔い改めのチャンスを与えてくださっているのです。私たちは、人がまずいこと、良くないことをしていても、指摘しない、逆恨みされるのを避けます、逃げます。でも、主は必ずそれをつかれて、懲らしめを下さるときがあります。それは、まだ終わりでなく、神様の回復のチャンスがある、ということです。④そのチャンスを逃さない、素直に謝る、悔い改める私であるように祈ります、また、そのように仕えていきます。
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