どのように用いられるのか?(1KINGS15;25-34)ヤロブアムの一族は、バシャの謀反によって、ヤロブアムに属するものは息あるものは一人残さず、根絶やしにされます29節、それは、神様のみ言葉のとおりでした、①神様のことばによる裁きはいい加減、適当がありません。必ずなります。私は「神様の言葉」いいもの、悪いもの、どちらを受けたいでしょうか?どのように用いられたいでしょうか?主を恐れるなら、主の目の前に正しく、怖れて(正しい意味で)生きるしかありません。そして、何よりも主の約束を信じて歩むしかありません、ところが、このために用いられたバシャも、主の目の前に悪を行い、ヤロブアムの道に歩み、34節とあります。これじゃ、意味がありません。②果たして、悪い流れを断ち切っているのでしょうか?それは、主イエスの十字架の愛しかありません。のろいを打ち砕く、主の愛しかありません。その信仰の流れ、継承を、新しい流れを持っているのでしょうか?KINGSは、南ユダ王国の(それでもあった)信仰継承を語り、北イスラエルの王たちが一度も良い王を出すことが泣く、信仰の継承ができなかった、ことを語ります。それでも、歴史は悪い王さえも、主の摂理の中で、人を懲らしめ、悔い改めの道具として、またさばきの道具として用います。私は今の状況を主なる神様の摂理の中で見ているでしょうか?私はどのように用いられて生きているでしょうか?今日、主に用いられる器、主の心と一つなる、主の目に正しいと思われることを祈り、願い求め、私を変えてくださることを祈ります。
No comments:
Post a Comment