Thursday, February 5, 2015

神様に出会うと(ヨハネの福音書8章48ー59節)

神様に出会うと(ヨハネの福音書8章48ー59節)54節「イエスは答えられた。私がもし自分自身に栄光を帰すなら、わたしの栄光はむなしいものです。私に栄光を与える方は、私の父です~」神様に出会った人は、①自分の栄光を求めません、なんとイエス様でさえそうだったのです!ありえない謙遜です!神様の子なのに、自分に栄光でなくて、与えてくださる神様に期待します。私はどうでしょうか?もう一度、主の栄光だけを求めて生きます。また、55節『~しかし、私はこの方を知っており、そのみ言葉を守っています」②イエスは神様の言葉に従いました。神様に出会う人は、そのみことばにOBEYします。主に従う自由、祝福を知っています。主に従うときに、永遠のいのちを得ることを知ります。それは、人生の中で一番重要なことでないでしょうか?永遠のいのちをえる、得ない、いかに成功しても、失敗しても永遠のいのちを失うなら、これ以上につらいことは無いのでないでしょうか。主のみ言葉に従う人には自由があります。それをイエスは、③謙遜に使いました、自分の栄光や、力を楽しむために使いませんでした。神様の子が地...上に来られたこと自体が謙遜です。ただ、イエスは神様のことである、宣言すればいいのに、それで終わりで良いのに、謙遜に使え、イエスを、神様を受け入れない人々に伝え続けました。神様は議論の対象でないのに、人間を尊重し、愛して仕えてくれました。→私はどうでしょうか?愛して、使えているイエスの謙遜に習った人生を歩んでいるでしょうか?地に来られたイエスを賛美します、その謙遜に習っていきます。自らしなくても良いのに、更に仕える主イエスの愛に感謝します。また、もう一つ学ぶことは、④イエスが卑しめられた、ことです。そのような扱いを受ける神様の子でないのに、歓迎されるべき方なのに、愛のゆえに、神様の使命のために卑しめられたのです、誰しも、卑しめられることを喜びませんし、そうなりたくもないし、ありえないことです。私なら(私たちなら)どうでしょうか?⑤アブラハムは、これから来られるイエスを見て喜びました、神様を喜びます、その救いの計画に世rこびます。神様に出会った人はこのように変えられます。今日、神様に出会う恵みを適用して歩んでいきます。(写真はやはりPENNの博物館にて)
 

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