聖なる浪費と心無い無使用(ヨハネの福音書12:1-11)マリヤがイエスのために、300グラムの非常に高価な香油をささげて、イエスの足に塗ります。そして、自分の足でイエスの足を拭います。それは、イエスを愛する尊い、聖なる浪費とでした。(いや、浪費でありませんが。)イエスのために、葬りの準備をしてくれたのです。なんという霊的な行動、瞬発力でしょうか。霊的な秘密、メシアとしての人生を知っていたのです。彼女はそれに反応します。Q:わたしは、主イエスのために聖なる浪費、ささげもの、紐のついていない、心から、喜び持ってしているでしょうか。逆に、イスカリオテのユダは心無いことを言います。この香油を三百デナリに売って貧しい人に施さなかったのか。5節。彼は献金を盗んでいたのです。金入れを預かる人は信頼できるはず、です。彼は人間的には間違いなく、信頼できるか、頭の切れる、計算のできる人であったでしょう。しかし、そこには心のある、熱い、喜びのある、愛のある捧げものはありませんでした。かえって、彼の罪を隠すための虚しいことを言っているだけでした。Q:わたしは人を批判したり、宗教人のように生きて外見だけになっていないでしょうか。罪を隠すために批判や頭だけの言葉を発して、心からの捧げものを失っていないでしょうか。マリヤがささげたものは素晴らしいです。でも、もっとすごい聖なる浪費はイエスご自身です。イエスの生涯を私のために下さったことです。十字架でイエスが私のために(わたしたち)死なれたことです。これ以上のものはありません、すると、わたしがささげる、とか言えません。今日、主イエスの愛に応えていきます、今日の1日を
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