Wednesday, April 16, 2014

適当に接する人と真理のイエス

今日の受難週QT:(ヨハネの福音書18章28-40節)、38節「ピラトは言った、真理とは何ですか。彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。私はあの人に罪を認めません」ピラトは、大祭司にイエスを渡されて尋問します。そのときのイエスの答えがすごいです。「あなたは自分でそのことを言っているのですか?それとも、他の人が、あなたに私のことを話したのですか」不法や暗闇の中にあっても、イエスのように堂々と、正しく、また操縦されることなく答えることできるでしょうか。祭司たち、律法学者たちは不法の秘密裁判を夜通しでしながら(律法でも決められていないことです)、過ぎ越しの食事が食べれるように「汚れない」ようにしようとしました、まさに、宗教の衣を着た形だけの、矛盾した宗教人の姿です。私たちにこのような姿はないでしょうか?また、ピラトの態度は「知っていても、真理を聞かないフリ、分からないフリ」をする、形だけの、適当な態度を感じました、こんな人が裁判官なら大変です。イエスでなければ大変だったでしょう。彼はイエスの真実を、無実を知りつつも、裁判官として無実を宣言せずに、ユダヤ人に妥協する方法をとったのです。真理が見せられても、語られても、適当に扱う人の態度、人生がここにあられています。今日、私に適用することは何でしょうか?イエスのように(難しいけど)適当に、いい加減に扱う人の前でも真理を、正しくたっていうことをしたい、と思います。導いてください、祈ります。

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