Tuesday, June 11, 2013

神様のわざを見ると人々は驚き怪しむこと

使徒行伝3;11-12。11節「この 人が, ペテロ と ヨハネ につきまとっている 間に, 非常に 驚いた人々がみないっせいに, ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに,やって来た。 12節「ペテロ はこれを 見て, 人¿に 向かってこう 言った. 「イスラエル 人たち. なぜこのことに 驚いているのですか. なぜ, 私たちが 自分の 力とか 信仰深さとかによって 彼を 步かせたかのように,私たちを見つめるのですか.」
ペテロを通してなされた神様のわざは、人々がみないっせいにやってくるようにさせます。なぜなら、歩けない人を歩けるようにさせて奇跡を見たからです。しかし、これにたいしてペテロは、自分が「した」とかでなくて、ましてや「自分の信仰深さ」でもない!と断言します。昔のペテロなら、奇跡や大きなイベントにとどまったり、していたことでしょう。果たして、私たちならどうでしょうか?このような大きな奇跡をしたら、自分の力といわなくても、自分の信仰深さ、自分のジマンに何気なく陥ることは無いでしょうか?しかし、ペテロがただ神様の計画によってこられたイエスご自信を指し示しました。それが、使徒行伝の最初の宣教をとめることにならなかった理由です。果たして、私は「ただ、神様の栄光だけ」そして「イベントにとどまらず」聞きたくないかもしれない、日の心をさすイエスの話だけを、私の罪を、あなたの罪を語り、十字架の愛を伝えているのでしょうか?悔い改めを伝えているのでしょうか?初代教会の力は、目に見える部分だけでなくて十字架のメッセージ、悔い改めを伝え勧め、変えられる人が起こされ続けるところからあったのです。今日、主イエスの十字架だけを語ります、イベントに終わりません。

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