Tuesday, April 16, 2013

愛は恐れを乗り越える責任を取る勇気を持つ

創世記44:16.「ユダが答えた、私たちはあなたに何を申せましょう、なんの申しし開きができましょう。また何と言って弁解することが出来るでしょう。神がしもべのとがを暴かれたのです。今この通り、私たちも、そして杯を持っているのを見つかった者も、あなたの奴隷となりましょう」兄弟のうちのユダは「罪を神様が暴かれた」と言います。私たちの罪を示される、失敗を発見された場合は、どのように反応するでしょうか。普通は、言い訳をしたり、逃げるのでないでしょうか。今までの兄弟たちはそうでした、しかし、ヨセフの試練を通して、テスト
を通して彼らに変化があります。それは、愛するゆえに「責任を取る」また、神様の前に隠せるものが無い、という態度でした。試練は、私たちの罪を過去を示す時があります、しかし、それは辱めのためでなくて(最初は恥ずかしいですが)悔い改め、きよめ、回復するためです。果たして、神様の前に私たちはどうでしょうか?ユダの変化は驚きばかりです。
Q:私は、私たちは、神様の前に「私は罪びとです、何もいえません」という心が、生き方がいつもあるのでしょうか?救われて忘れてしまっていないでしょうか?この姿勢がある人は揺れません。最初にあるべき姿勢です。
18「すると、ユダは彼に近づいて言った。あなたさま、どうかあなたのしもべの申し上げることに耳を貸してください。そして、どうかしもべを激しくお怒りにならないでください。あなたはパロのような方なのですから」、ユダは、ヨセフの前に「近づきます」それは、権威の前に恐れずに決心した、腹をくくった姿勢でした。人々は権威の前に恐れます、言いたいことを黙ります。しかし、愛する時に、それは死を覚悟して、罪の前に自分の罪を認めて行動する人の姿勢です。
神様の前に罪びとであることを認めると恐れないのです。ただしいポジション、生きかたがあります、それを失う時にバランスの崩れた信仰生活、働きになるのです。
32-34「というのは、このしもべは私の父に、もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者になります。と言って、あの子の保障をしているのです」ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。あの子が私と一緒でなくて、どうして私は父のところに帰れましょう。私の父に起こるわざわいを見たくありません」
ユダは、ベニヤミンの代わりに身代わりになることを願います。それは、愛するゆえに自分が犠牲になる、愛でした。20数年前は、一緒にヨセフを売り、何も言わなかった男が、自ら出て行く、志願して、犠牲する愛を話したのです、それは、どこかからきたのでしょうか。神様が私の罪を暴かれた、示されたことに、素直に認めるところから来ます、もともと、煮るなり焼くなり好きにしてください、としか言えないのが私たちです。罪びとであるのに、何も言えないのに、そこから真の自分の姿、そして愛が見えてきます。そこには、恐れがありません。
完全な愛は恐れを締め出すことを信じます。

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