Tuesday, April 30, 2013

死んでも「神は顧みてくださる」と言えるか!?


創世記50;15「ヨセフの兄弟たちは、彼らの父が死んだのを見たとき、彼らは、ヨセフがわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪の仕返しをするかもしれない」と言った。これは、世間の生き方から当然の事です。普通の人なら、いまや権威であった父が死んだから、という生き方、復讐になるでしょう。しかし、ハレルヤ!クリスチャンの生き方は違います。罪と復讐のシステムから、鎖から解き放たれた、開放された人生なのです!ハレルヤ!私を、私たちをそのような人生に導かれる神様を賛美します。ヨセフは、兄弟たちに「ヨセフは彼らに言った.「恐れることはありません。どうして,私がの代わりでしょうか」「あなたがたは,私に 悪を計りましたが,はそれを,良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして,多くの人々を 生かしておくためでした.」と言います。ヨセフがいかに日ごとに、また大変な人生のポイントの度に、神様に聞き、傷を癒されて、罪を赦されて、人の罪を赦す恵をいただき続けたのか分かることでないでしょうか?対照的に、罪を赦さない、赦してもらえない、関係の中に、世の中の価値観に行き続けた、兄弟たちの霊的な状況を見せる話です。私は、私たちはどちらに生きているのでしょうか?日ごとのイエスとの出会いが、将来を決めます。GOALを決めます。結果を違ってきます。同じ兄弟なのに。そして、ヨセフは知っていました。「私が神でしょうか?」私たちは勘違いします、自分は救われて既にきよい、とか既に何かをなしたかのように?全ては神様から来ているのに。私が何だと言うのに、主イエスは救ってくださったのです。それだけでなくて、神様の働きを任せられたのに。それでも、自分の弱さや罪のために、神様の邪魔になるような時があるのに。それでも、用いてくださる、共にいてくださるを主を賛美します。ヨセフは言います「 もう 恐れることはありません.私は,あなたがたや,あなたがたの 子どもたちを 養いましょう.」こうして彼は彼らを慰め,優しく 語りかけた. 本当に恐れるべき人、方を恐れるときに、人間的な恐れがありません。ヨセフは神様を恐れる人でした。その人は平安を持ち、他の人にも与えます。私は、神様を恐れているでしょうか?私が何だと言うのでしょうか?ヨセフは最期を迎えた時に三代の孫を見て言います。24節「 は 必ずあなたがたを顧みて、 この地から アブラハム , イサク , ヤコブに誓われた地へ 上らせてくださいます.」と言います。また25節「は 必ずあなたがたを 顧みてくださるから, そのとき, あなたがたは 私の 遺體をここから 携え 上ってください.」と繰り返して言います。彼の最後の言葉は、遺言は、「神は私を、あなたを顧みてくださる」でした。これは死んでもその信仰の言葉、影響を信じるヨセフでした。「神は顧みてくださる」が彼の信仰告白でした。私はどうでしょうか?死んでも、顧みてくださる主がいることを信じているでしょうか?思えば、ヨセフのように不遇なことが合ったとしても、確かに守られたこと、祝福の中で来れたことを覚えます。今日も、ゆるし、赦された中で生きていきます。

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