Monday, April 29, 2013

世の中が認める神様の祝福の家族


創世記50;11「その地の住民のカナン人は、これはエジプトの荘厳な葬儀だ、と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。これはヨルダンの向こう側にある」
イスラエルは、ヤコブは死んで、葬られます。ヨセフはパロに願い出て5節「私の父は私に誓わせて、私は死のうとしている、私がカナンの地に掘っておいた私の墓の中に、そこに必ず私を葬らなければならない、と申しました。どうか今、私に父を葬りに行かせてください。私はまた帰ってきます」ヨセフは、ヤコブとの誓いを守り、パロに願い出ます。また、私は帰ってきます、と約束をします。パロは認め、パロの部下たちをつけ、パロの長老をつけて、さらにエジプトの長老たち(外国政権であったため、と思われます)をつけて、戦車と騎兵もつけます。それは、いかにヨセフが認められて、感謝されて、必要な存在であるのか?を見せてくれます。そして、将来の約束の地であるカナンに行って、当時世界最高のエジプトの葬儀である、と認められるほどの争議をします。それは、神様の祝福の家族を見せることでした。流浪の民であった、父の家を離れて一人で苦労して、だましてだまされて成功を得ようとしたヤコブに下さる一方的な神様からの祝福でした。私たちの決定的な成功は、神様からの約束に生きるときに、神様の計画に生きるときにおこる、祝福が絶対的なものです。この世の権力も、力も、民族も、絶対数も恐れることがないのは、神様の祝福からです。ヨセフがこうして神様に仕えることから、ヤコブへの祝福を見せ付けました。そして、将来の約束の地へ祝福を見せ付けました。主の約束を握って、信じて歩みます。主の計画によって歩みます。また、今日、私が気を使う、心配する恐れる、心配する権威者の前に主の祝福の家族として、息子として、守られていることを信じ、願い出ます。

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