9:1 その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。9:2 そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。9:3 彼らはその所に立ったままで、一日の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。
イスラエルの民は、立ったままで、主の前に断食をして、悔い改め、祈り、礼拝しました。一日の4分の一は、たったまま聖書を朗読し、聴き、告白をして、主を礼拝しました。まことの礼拝は、ありのままで神様の前に出ることから始まります、悔い改めからまことのリバイバルが始まります。格好をつけているのは、違います、主のまえに出るとき、そのきよい神様の前に出るときに、自分のありのままに、きたない、穢れた、においのする、罪が示されます。そこへ、悔い改めと、何よりも神様の清め、十字架の許しがないと神様に出会えません。そして、まことの礼拝は、みことば、聖書への渇望へ導かれます。聖書をもっと読みたい、知りたい、神様に出会いたい、神様の心を知りたい、行いたい、いや、’行わせてください、となります。また、今日のネヘミヤのリバイバルはたったまま、礼拝をした、ということに霊的な熱さ、熱心を感じます。まるで、今でいうなら中国の地価教会で聞く霊的なリバイバル集会です。ふと、思いました。私たちはこのような、霊的なリバイバルを求めているのだろうか?このような霊的な熱さ、熱心を求めているのだろうか?時間がたつのも忘れて、使えることを願っているのだろうか?恵まれる集会なら、もりあがる集会ならあります、涙を流して、感動する、ならあります。しかし、このような霊的なリバイバルを求めているのでしょうか?今朝、今週、主のリバイバルを求める祈りをしていきます
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