Thursday, May 19, 2016

ゼカリヤ1;1-21 Living Life plus alpha

ゼカリヤ1;1-21
今週から、ゼカリヤのQTが始まりました、ちょっと難しいかな?と思い、何か助けるになるようにリビングライフプラスαをします
ゼカリヤは、旧約聖書の中の預言書です。...
◎いつごろ書かれた?:BC520年ごろに、
●どこで?:バビロンに滅亡させられてバビロン捕囚になって70年目になるころ、バビロンで
捕囚にされた後期に、神様の言葉が臨みました。
1:1 ダリヨスの第二年の第八の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤに、次のような主のことばがあった。
→M:主の言葉があった、とあります。ハングルでは臨んだ、臨在した、とあります。私たちの人生に、神様の言葉、が臨在したことがありますか?知識でも、文学の水準でもなく、生きている神様の言葉を体験したことがあるでしょうか?一度も、神様の言葉が私の人生に臨んだことを体験したことがないのなら、残念で、悲しい、もったいないことです。神様の言葉を自分の中で体験することを願います。今日、神様の言葉が私の中に、体験できるように、語られるように、私の人生の中で住まわれるように、心を開いて読み、求めましょう。
1:2 主はあなたがたの先祖たちを激しく怒られた。
→M:主の臨在された言葉は、「激しく、怒られた!」です。そうすると、普通次に来る言葉は、裁きであったり、審判であったり、お前とは終わりだ、関係は終わる、離れる関係になります、しかし、
1:3 あなたは、彼らに言え。万軍の主はこう仰せられる。わたしに帰れ。――万軍の主の御告げ。――そうすれば、わたしもあなたがたに帰る、と万軍の主は仰せられる。
→M:主の言われることは、「私に帰れ」です。普通は、離れる関係が戻ってきなさい、帰ってきなさい、です。逆です。ここから学ぶことは何でしょうか?神様の願いはともにいたい、ということです。そうでないイスラエルの民(神様を信じる民)が、不従順したり、偶像礼拝したり、罪を犯すことに、「帰れ」と言われます。そうすると「私もあなたがたに帰る」と言われます。私たちは、罪を犯したり、間違うときに、神様を避ける傾向や、神様のところに行かない部分がないでしょうか?神様はそうでない、と言われます。かえって、来なさい、帰れ、と言われます。罪を犯したら、逃避するのは宗教です。かえって、罪を犯せば犯すほど、もっと教会に来て、もっと祈りに来て、悔い改めればいいのです。ある人が、クリスチャンになる前に奥さんのRIDEのために早朝祈祷会に来ることになり、こんな相応しくない者が、来ていいのか?と思ったそうですが、そこで恵みを受けて、イエスを信じることになったそうです。罪を犯せば犯すほど、礼拝に来て、祈祷会に来て、早朝祈祷会に来て、悔い改めて、教会に来て、恵みのところに来ることを願います、ともに主の前に出ましょう。神様の審判のSIGNの時に、神様から「遠く離れてしまうのでなくて、逃げるの」(それは、変な宗教意識です)でもなく、神様の近くにいましょう。

1:6 しかし、わたしのしもべ、預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばとおきてとは、あなたがたの先祖たちに追い迫ったではないか。そこで彼らは立ち返って言った。「万軍の主は、私たちの行ないとわざに応じて、私たちにしようと考えられたとおりを、私たちにされた。」と。
→M:間違った預言の書へのイメージを、誤解を解くために、私たちは「決定された運命論」を語られているのでない、ということがあります。
ましてや、「占い」のような恐怖で縛るものでありません。人格的に「神様とともに生きる」ために願っておられ、神様の言葉を預けられます、語られます、未来の起こることを単に語る予言でなくて、神様の言葉を預かる、預言です。
ゼカリヤは8つの幻を(1;7~6;15)見せられます。
1:8 夜、私が見ると、なんと、ひとりの人が赤い馬に乗っていた。その人は谷底にあるミルトスの木の間に立っていた。彼のうしろに、赤や、栗毛や、白い馬がいた。
→M:、赤は、戦争をイメージする、と説教者の先生によると言われ、栗毛とは、混乱、白い馬とは、勝利をイメージするそうです。そして、ミルトス「日本では普通ギンバイカ(銀梅花)」とは、「折れても、たつ」という希望、回復をイメージするそうです。ミルトスは切られた後も生命力が強く、枯れにくいところから、干ばつにも耐える強木として、だそうです。
⇔M:、神様はイスラエルに回復、立ち直ることを幻を通して、語れます。私たちの現状が難しく、大変なときに、神様の回復の、折られても、立ち直る祝福があることを祈ります。
そして、
1:12 主の使いは答えて言った。「万軍の主よ。いつまで、あなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか。あなたがのろって、七十年になります。」
⇔M:と、地をめぐる天使が、報告します。それは、「いつまで、あわれみを施さないのですか?」というあわれみを求める報告でした。こんな報告があったら、どれほどいいことでしょうか!「あわれみ」を願う、主の使いの報告です。神様の裁き、戦争、怒りが、落ちそうなところで、70年たっています、というあわれみを願う報告、そして、神様の回復がとうとう来ます。
1:16 それゆえ、主はこう仰せられる。『わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される。――万軍の主の御告げ。――測りなわはエルサレムの上に張られる。』
1:17 もう一度叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は、再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ。』」
→M:神様は、とうとうバビロンに70年いた捕囚のイスラエル、南ユダに回復を、あわれみを、下されて、よいものが咲き乱れる、と祝福されます。神様に帰るものに、このような祝福が、回復が待っています。今日、主に帰る、祝福を持っていきます。神様の回復を心から祈り、あわれみを求めて、祈り、信じます。
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